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座波次雄(ざは つぎお)(昭和8年生まれ 玉城・百名)【キーワード】村内避難

■戦前の百名(ひゃくな)
百名部落は農耕者の集落で、サトウキビやイモ、稲がつくられていた。昭和14年(1939)頃は木炭(もくたん)バスが大里村(現 南城市)稲嶺(いなみね)から百名まで運行していた。この地は、沖縄における「稲作の始まりの地」ともいわれていた。沖縄戦の始まる前から大城医院(医師は大城幸隆氏。大城幸之一(こうのいち)病院の分院)があった。

■百名に駐屯(ちゅうとん)した吉田分隊
沖縄戦の前にはたくさんの兵隊が百名に駐屯したが、その中でも先遣隊(せんけんたい)として最初に百名に来たのは吉田分隊(第九師団(しだん)。12~13名)だった。吉田分隊が来たのは昭和19年(1944)、県外への疎開(そかい)が始まる前の頃で、〈大前(ウフメー)〉※1の家に駐屯していた。私は吉田分隊が来た時に初めて、「兵隊とはこういうものなのだ」と知った。そして、(軍が地域住民のために)演芸会のようなものが開かれたのだが、その時初めて芝居というものを観た。兵隊と地域の人達が交流することもあり、特に子ども達との交流が盛んだった。兵隊達は自分の家族や子ども達のことを思い出していたようだった。
吉田分隊は知念(ちねん)方面、久高(くだか)方面に向けた砲台(ほうだい)や、壕(ごう)などの陣地(じんち)を構築(こうちく)していた。壕は100~150メートルほどの長さで、松の木で枠(わく)を造っていた。大きな壕なので完成するのにずいぶん時間がかかった。子どもたち(国民学校(こくみんがっこう)3年生くらいから上)も動員された。壕を掘る時に出た土をバーキグヮー(ざる)に入れ、それを20~30人で手渡しして運び出す作業をした。意味は分かっていなかったが楽しんでやっていた。
陣地構築(じんちこうちく)の現場には時々、軍の自動車が視察に来ていた。自動車に立てられている旗の色が、日によって黄色だったり赤だったりと違うので、兵隊に理由を聞くと、乗っている人の階級によって色が変わるとのことだった。自分自身が子どもだったからかもしれないが、兵隊は聞けば何でも教えてくれた。
当時は、お医者さんでも往診(おうしん)のために馬で移動していた時代で、自動車を見たのはそれが初めてだった。私が国民学校1年生ぐらいの時には木炭バスがあったが、いつの間にか姿を見ることがなくなった。冬には木炭バスのエンジンがかからなくなる時があった。バスを押すとエンジンがかかるので、子どもたちは「バスを押したら乗せてあげる」と言われ、みんなで押しに行った。しかし乗れたのは上級生だけで、下級生は教科書を入れた風呂敷を持ちながらてくてく歩いて行くしかなかった。ちなみに当時、ラジオは富里(ふさと)の大城幸之一病院にあった。「ラジオという箱グヮーから声がする、中に人が入っているみたいよ」と話していた。

■玉城に駐屯した日本軍
後に、先遣隊の吉田分隊以外の日本軍の部隊が、百名を含めた村の各地に駐屯するようになった。住人が県外に疎開して空き家になった家なども兵隊の宿舎となったほか、玉城国民学校にも大隊本部(だいたいほんぶ)が置かれた。大隊長はイイダという名前の若い人で、その人が日本刀を下げ、馬に乗って歩くのを見て「あんな偉い人になってみたい」と、うらやましく思った。
学校が兵舎(へいしゃ)となってしまったため、子どもたちは上江洲口(イージグチ)(現 琉球ゴルフ倶楽部(くらぶ))にあった分教場(ぶんきょうじょう)(仲村一八さんの敷地にあった)で授業を受けることになった。そこには2、3ヵ月ほど通ったと思う。
百名では、大きめの農家だったわが家〈新座波(ミーザハ)〉にも2個分隊が駐屯した(のちに1個分隊になった)。現在百名の公民館がある敷地の隣には、当時は大城医院という民間の診療所(しんりょうじょ)があり、そこにも兵隊が駐屯していた。また、空き屋敷だった〈前大堂(メーウフドー)〉(茅葺(かやぶ)きの空き家が2軒(けん)あった)が軍の炊事場(すいじば)となり、兵隊たちはそこに「飯上げ(めしあげ)」と言って食事を受け取りに行っていた。食事を取りに来る兵隊は、3、4人で隊列(たいれつ)を作り、軍歌(ぐんか)を歌って歩いていた。私たち子どもはそれについて行ったので、その軍歌を覚えるようになった。

■疎開中止で漢那(かんな)に行く
沖縄から県外への疎開が始まった時、私の父は区長をしていたが、区長の家族は最後に疎開するということになっていた。しかし、私たちが乗る予定だった船は出発直前で出航が中止になってしまった。だが、私たちの荷物は那覇の通堂(とんどう)から漢那(現 宜野座(ぎのざ)村)に運ばれることになった。私の家族6人はそこに行くようにと言われ、漢那に向かった。
漢那に向かう時、与那原(よなばる)から荷馬車(にばしゃ)に荷物を積み、安慶田(あげだ)(現 沖縄市)あたりまで歩いた。そこの学校で1泊し、翌日から2、3日ほどで漢那に着いたが、その途中の石川(いしかわ)(現 うるま市)では空襲警報(くうしゅうけいほう)があり、小さなフクギの木の木陰(こかげ)に隠れた。漢那では、港ではない場所に仮の桟橋(さんばし)が造られていた。そこに2つの大きな帆(ほ)のついた山原船(やんばるせん)(現地の人達は「糸満船(いとまんせん)」と呼んでいた)が入って来て、私たちの荷物が降ろされた。私たちは現地の民家や掘っ立て小屋(ほったてごや)(物置き小屋)に分宿して暮らすことになった。荷物は自分たちで掘った防空壕(ぼうくうごう)に収(おさ)めた。我が家はその頃から分散が始まった。父とおじは防衛隊(ぼうえいたい)に入隊し、2人の姉(上の姉は大城幸之一病院に勤めていた看護士見習いで、下の姉は玉城国民学校高等科卒業直後であった)は日本軍の協力員として動員され、家を離れた。家族6人と漢那に向かう時、この姉2人は与那原まで来て見送りをしてくれた。この2人の姉は戦死したそうだが、どこで死んだか未だにわからない。遺骨も見つかっていない。下の姉と一緒に行動していた人に話を聞くと、岩の下に隠れていた際、その岩に弾が直撃し、13人中この人以外は全員亡くなってしまったそうだ。戦後、その岩のところに連れて行ってもらったが遺骨などは見つからなかった。戦後の遺骨収集で全て拾われてしまったのではないか。
また、沖縄戦が始まる数週間前に思いがけないことがあった。玉城国民学校の私の担任の安里先生が家にひょこっと来られて、「もうすぐ中学受験が始まるので受験するように」と通知してくださったのだ。私はびっくりした。その時、私の両親は不在だったので返事のしようもなかった。そのことは心に残り続けていた。戦後、その先生を探したが戦死されたとのことだった。

■百名に戻り沖縄戦が始まる
この頃、私の父とおじは防衛隊に召集されており、百名の家には病弱の70歳手前の祖母と、姉、赤子連れのおばが残っていた。私は漢那で2週間ほど過ごしたのち、(祖母たちの手伝いをするために)1人だけ百名に帰ることになった。百名に帰る時には、よく覚えていないが同じように玉城へ帰る数人の大人たちについて行った。夜中ずっと歩き通しで帰った。
昭和20年(1945)のお彼岸(ひがん)の頃、最初の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)があり、住民は自分たちで準備していた壕に避難(ひなん)した。夕方にはアメリカ軍の艦船(かんせん)がいなくなっていたので、日本軍がアメリカ軍の艦船を攻撃(こうげき)して沈めたのだと勘違(かんちが)いしていた。
夕方に区民たちが集められ、兵隊から、アメリカ軍による艦砲射撃が始まったという説明を受けた。兵隊が言うには、百名の中でも特に診療所(大城医院)や製糖場(せいとうじょう)が海から目立つ場所にあるので狙(ねら)われて、それらの後ろの田んぼに弾(たま)が数発落とされたということだった。兵隊は、その弾の破片(はへん)だということで、まだ熱のある大きな破片を見せていた。兵隊は、「これが飛んで来たらみんな死んでしまうから隠れなければいけない」と言った。なお、その時、兵隊への食料提供の要求もしていた。

■親慶原(おやけばる)の壕に避難
私の父やおじたちは、防衛隊に召集される前、彼らの門中(もんちゅう)の人達と親慶原(現 南城市)にあった壕を整備していた。壕の中には大きな川が流れており、父たちは丸太棒で橋も造っていた。この壕は戦後に埋められ、今はもうない。艦砲射撃が始まった後、私は祖母とおばさんと一緒に、少しの米と味噌(みそ)を持ってこの壕に避難することにした。
ところが、私たちが壕に着くと入口に日本兵が構(かま)えていて、「この壕は軍が使っている」と言った。それで、壕の中を(自分たちが避難するために)整備していること、橋も架けてあることを説明すると、壕内に入ることを許可された。中は真っ暗だったので、入口側の明かりを頼りに生活することになった。
この壕にいた時、軍隊が使っていた馬のための草刈(くさか)りに行かされたことがある。また、わが家の男手(おとこで)は私だけだったので、夜には家に戻り、担(かつ)げるだけの味噌や米を壕へ持ち帰った。大人の男性がいる家族は、どこからか芋(いも)や大根などの野菜をたくさん取って来ていたが、私は子どもだったので、自分たちの畑がどこにあるかわからず取ってくることができなかった。また、男性たちから「あそこで豚(ぶた)をつぶすから、後で取りに来い」と呼ばれたので行くと、つぶしていたのはわが家の馬だった、ということもあった。

■崖の下のお墓に避難
親慶原の壕での生活は約10日か、それ以上続いたと思う。ある日「西原(にしはら)グヮーまで敵(アメリカ軍)が来ている」と聞いたので、私たちは百名に向かって下りて行き、字(あざ)玉城一区(現 琉球ゴルフ倶楽部)のカーバンタの崖下に着くと、そこの古いお墓を開け、遺骨(いこつ)を片づけてそこに避難した。付近のあちこちの岩陰には、百名の人達が避難していた。そこには4、5週間ほどいたかもしれない。お墓の中にはシラミやノミもいたので、(それらを洗い落すために)近くで水浴びしたのを覚えている。
私は当時11歳でやんちゃだったので、加茶原(カチャバル)のカー(井泉(せいせん))の上の田芋(たいも)が取れる場所で遊んだことがあるが、その際「アメリカ軍の偵察機(ていさつき)に追われるよ!」と大人に怒られた。
玉城地域に駐屯した日本軍は、いつの間にか姿を消した。浦添(うらそえ)や首里方面に移ったそうだ。百名区周辺に構えていた日本軍の陣地からは、数発発射されただけだった。そこの大砲や砲弾はそのまま残された。この地にいた防衛隊員や多くの民間人は、ここの陣地に残された弾薬等を浦添や首里あたりに運ぶため動員された。

■負傷した父を迎えに行く
お墓に避難していた時に、防衛隊に召集されていた父が負傷(ふしょう)したという知らせを受けた。父は山川橋(現 南風原(はえばる)町)の近くで弾薬の運搬中に、自分の所有する荷馬車に爆弾(ばくだん)が直撃(ちょくげき)して両足を負傷してしまったらしい。父の反対側に座っていた、同じ百名出身の防衛隊員の仲村傳太さんもその時に両足を負傷した。仲村さんはそれが原因で亡くなったそうだ。父が負傷したことは、幸地(こうち)(現 西原町)にいた防衛隊員のおじに伝えられ、おじが私たちに知らせに来てくれた。ただ、おじは「自分は防衛隊から脱走した身なので、(父を)軍の病院から連れてくることができない」と言った。
おじは、父がどこの病院に運ばれたのかも知らなかった。しかし防衛隊の人達が、「前川の馬場(ウマイー)の反対側にある畑の中の壕に野戦病院の分室が移ってきているようだ。そこにいるかもしれない」と教えてくれた。そこで私とおじは、父を運ぶための木の棒と綱、カマス切れ ※2などを用意し、夜にそこへ向かった。
壕の付近に着き、私は「オトー、オトー」と呼びかけたが返事がない。しかしおじが「次郎、次郎」と呼ぶと「はーい」と返事があった。辺りが真っ暗なので父がどこにいるかわからなかったが、しばらくして壕の入口にいた父を見つけることができた。その壕には、自分で移動することのできないたくさんの負傷兵がいた。日本軍がそこから南部へ撤退することになり、動けない兵隊たちはそこに置き去りにされたようだった。父は歩けないが頭ははっきりしていた。首には手りゅう弾(しゅりゅうだん)が7つほどかけられていた。後で聞いたところによると、壕から逃げようとする人がいたら殺すようにと言われていたという。私とおじは父を避難先のお墓に連れて帰った。父が持っていた手りゅう弾は、みんなで分けて持つようにした。「どうせみんな死ぬから、アメリカ軍に捕(つか)まった時にはこれで死のうね」と言っていた。
その後、アメリカ軍が近づいているということで、さらに海岸近く(百名集落下の崖下)に移動した。そこにも古い墓があり、その中の遺骨等を片付けて、そこで暮らすことになった。アメリカ軍に捕まる4、5日前からは、夜間は墓の中で、昼中は近くのキビ畑や山の中で過ごしていた。
その隠れていたお墓の近くの山に、衛生兵(えいせいへい)だった敗残兵(はいざんへい)がいるということがわかり、父の手当てのために来てもらった。おじは「逃げよう、敗残兵に殺される」とおびえていたが、「その兵隊も逃げているんだから大丈夫」と説得した。その敗残兵は、包帯や薬などの医療品を持っておらず、傷口のウジを取り除き、「布か何かあったらちょうだい」と言って、それで簡単な手当てをしただけだったが、「(治るから)大丈夫」と話していた。実際に終戦後、父は足の傷口の中の破片を取り除き、歩けるようになった。父の他にも、敗残兵にけがの手当てをしてもらった人が何人かいた。

■収容所になっていた百名集落へ行く
百名の集落付近がガヤガヤしてうるさく、車の音も聞こえることに気づいた父が、様子を見に集落へと上がっていった。父は歩行不能な状態のため、犬が這うように避難している墓から出て行った。すると、40~50メートルくらい行ったところで人の声に気づいたそうだ。道で寝て、死んだふりをしていたら、通りがかりの人達が父が生きていることに気づき、病院へ連れて行こうとして父に声をかけた。父はそこで百名の状況を聞いたそうだ。話によると、百名一帯は収容所(しゅうようじょ)になっており、あちこちからトラックで連れてこられた避難民たちが百名で降ろされているという。父はその人達に、捕虜になっても殺されないということを確認し、私たちを呼びに戻ってきた。ちょうどその頃、アメリカ軍も「この壕を爆破するから出て来なさい」と大音量で放送していたので、私たちは近くに隠れていた百名の人たちと話し合い、みんなで一緒に集落に上がっていった。この時、おじは手りゅう弾を「殺されないようだから持つな」と言って処分したようだが、どこに捨てたのかはわからない。
集落に上がっていき、私はそこで初めて黒人兵(こくじんへい)を見た。そこで民間人と軍人・軍属(ぐんぞく) ※3が分けられ、DDTをかけられた。はじめは白い粉をかけられたとしか思わず、これで殺されると思った。DDTがどんなものかは後から知った。おじは捕虜収容所(現在の百名小学校敷地内は、ほとんどが軍人・軍属の収容所で、金網で囲まれていた)に入れられ、のちに屋嘉(やか)収容所(現 金武町)、その後ハワイに連れて行かれた。ハワイでの収容所生活の後、沖縄に引き揚げてきた。

■道端(みちばた)での生活と集団埋葬地(しゅうだんまいそうち)
民間人だった私たちは「どこに行ってもいい」と言われた。集落内の大きな目立つ家は壊されていた。どちらかというと小さな、屋敷に木がいっぱいある家が残されていた。自分たちの家も残っていたが、すでにたくさんの避難民がいたので家に入れなかった。だが、戦前から空き家になっていた〈下門〉の、石造りのウヮーフール(豚小屋)が空いていたので、そこで3日ほど過ごした。
私たちはその後、〈兼島(カニシマ)〉の後ろの小道の道端で暮らすようになった。そこにも避難民がいっぱいいて、自分の家に帰れない百名の人たちが何世帯もいた。初めは木陰に入って雨露をしのいでいたが、みんなで知恵を出し、あちこちから材料を集めて来て家を造った。
食べ物にはレーションの配給(はいきゅう)があった。その中に入っているお菓子は子どもたちが取っていた。そのほか草木なども炊いて食べていた。困ったのは炊事をする場所がないことだった。自分の家に入ることもできなかったし、窯(かま)も鍋(なべ)もなかったので、缶などを使って煮炊きしていた。私は行ったことがないが、集団での芋掘り作業も行われていた。船越(ふなこし)(現 南城市)あたりまで行っていたようだ。
また当時、大きな弾薬のある壕があったが、子どもたちはその弾薬でいたずらをして遊んでいた。弾(たま)の先を石でコンコンとたたいて先を抜き取り、中に入っている緑色の薄い火薬を取り出した。それをカマス(むしろ)に入れて持ち帰り、海で火薬に火をつけて魚をとった。今考えると、(弾から火薬を取り出すときに)よく爆発しなかったなと思う。
私たちが住んでいたところのすぐ前は元々田んぼだった場所で、穴が掘りやすいので集団埋葬地としてそこに亡くなった人を埋めていた。若い男性たちは不在だったので、穴を掘っていたのは皆年配の男性達だった。遺体(いたい)がどんどん運ばれてくるので、掘っても掘っても追いつかなかった。1つの穴に遺体を重ねて入れ、そこがいっぱいになるとまた別のところに穴を掘っていた。私はそれを木の下に座って見ていた。穴に遺体をどんどん投げ捨てるように入れて行く様子を見て、これは人間のすることだとは思えなかった。戦後、それらの遺骨は全て掘り起こされた。
用を足すときには、集団埋葬地のところに造られていた仮便所まで行っていた。壕などでの避難生活のためみんな病気がちだったので、下痢(げり)などで便所にしょっちゅう行っていた。なお、夜間、便所に行くたびに、なぜかいつも点々と火が上がっていた。なぜだろうと思っていたけれど、火を防ぐ方法もわからなかった。そのため便所では、いつもあわてふためいていた。後から人に聞いたら、その火は燐(りん)じゃないかと言われた。

■制限(せいげん)されていた行動範囲
元の大城医院の辺りにはアメリカ軍の憲兵隊(けんぺいたい)のテントが2張(は)りほどあった。日本兵(敗残兵)の夜襲防止のため、テントの周囲には線を張っていた。夜間に敗残兵などが線に引っかかると、照明弾(しょうめいだん)が上がるようになっていた。実際に、その線に引っかかって亡くなった敗残兵もいた。
夜間には民間人は外出禁止にされていた。用を足しに外に出たおじいさんがアメリカ兵に撃(う)ち殺されてしまったこともあった。この頃はまだまだ敗残兵がいたので、動くものはみんな銃(じゅう)で撃たれていた。このおじいさんは足が不自由で、片足を引きずって歩いていた。ここまで生き残ったのに、自分の家に帰る前に亡くなってしまった。また、この当時は百名全体が収容所になっていた。周囲を囲む金網(かなあみ)はなかったが、新原(みーばる)や仲村渠(なかんだかり)、垣花(かきのはな)などの近隣地域へ出ていくことも許されていなかった。垣花、親慶原(おやけばる)、仲村渠二区(なかんだかりにく)(現 琉球ゴルフ倶楽部)は、すでにアメリカ軍施設になっていた。

■百名収容所に開設された施設
焼け残った〈大前(ウフメー)〉の瓦葺(かわらぶ)きの家には警察署が開設された。警察は、立ち入り禁止区域へ越境(えっきょう)する人を取り締まっていた。当時、百名に在住する避難民は、およそ7500人余り ※4であった。
7月には〈安里(アサトゥ)〉の、焼け残っていた大きな瓦葺きの家に子どもたちが集められて百名初等学校での授業が始まった。百名には避難民の子どもたちが大勢(おおぜい)いたが、食べ物がないので、道を行くアメリカ軍のトラックに手をあげ、アメリカ兵からお菓子を投げてもらっていた。そうやって子どもたちは朝も晩も道に立っていた。交通事故にあったら大変だ、せっかく生きのびたのにここで死んだら大変だということで、安全な場所に子ども達を集めたのが学校の始まりだった。
〈眞榮(メー)〉では民間人の濱松(はままつ)医師により診療が始められた。そこは、のちに知念地方中央病院になった。この頃にはマラリアが蔓延(まんえん)していて大変だった。
〈前与那城(メーユナグスク)〉の焼け残った家には、身寄りのない老人たちが収容されていた。建物は残っていたが床はなかった。老人たちは、そこで暮らすというよりは置かれているような感じだった。
戦争が終わってしばらく経ってからだが、〈神舎慶小(カンシャギグヮー)〉(現 百名小学校の校門前)には劇場もでき、梅劇団などが芝居を上演していた。芸能で人々を慰(なぐさ)めるという目的で始まった。

■自分の家に帰る
集団埋葬地の前の道端で暮らし始めて数ヵ月後、テントの材料が手に入ったので、〈西座波(イリザファー)〉、〈東座波(アガリザファー)〉の前あたりにあった畑の中に、掘っ立て小屋を造って暮らすようになった。テントの材料は、戦果(センカ)をあげてきた人から買ったり、自分たちで戦果をあげに行ったりして親が手に入れていた。それから数ヵ月後、私たちは自分の家に戻ることができた。1年間に住む場所を3ヵ所ほど転々としていたことになる。
私たちが自宅に戻ってからも、自宅には自分の家に戻れない人たちが7世帯ほど残っていた。ほとんどが那覇の人達だったが、中城(なかぐすく)や読谷(よみたん)あたりの人もいたと思う。彼らとは2年ほど一緒に暮らしていたのではないか。また、周囲には摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の人達もたくさんいて、夕方になるといつもお母さんたちが集まって泣いていた。なぜ泣いているのか訳を聞くと、「自分の子どもの口にタオルを押し込んで殺した」などの事情があったようで、夕方になると悲しくなって泣き出してしまうとのことだった。
自分の家に帰ってきた後、昭和21年(1946)、私は試験を受けて知念(ちねん)高校に入学した(百名には一時期、知念ハイスクールがあった)。この頃には少しずつ生活が落ち着き始めていたので、若い人は学業を勧(すす)められてみんな受験していた。入学式は学校の移転先の親慶原で行われた。校舎にはアメリカ軍の兵舎跡(へいしゃあと)が利用されていた。
元の家に戻ってから、戦前のように本当に落ち着いて暮らし、農耕(のうこう)も始めるようになるまでには3、4年はかかったと思う。
(仲本和彦・事務局による聞き取り 2016/事務局による聞き取り 2023)

■脚注
※1 大前は屋号。本稿では、屋号は〈〉で括って表記する。
※2 カマスとは、丈夫な植物の繊維で編んだ土のう袋のようなもの。その端切れのことを指していると考えられる。
※3 軍人・軍属はPW(Prisoner of War)、民間人はCIV(Civilian)と称された。アメリカ軍に投降し収容所に送られた日本兵や防衛隊員などの軍人・軍属には「PW」(Prisoner of War)と書かれた衣服が支給された。
※4 玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』(玉城村役場 2004)320頁では、「終戦直後の百名区(仲村渠、新原を含む)の人口は、約六千人」だったと記載されているが、ここでは座波さんの語りをそのまま記載した。座波さんによると「何か見たか聞いたかでこの数字を覚えている。また、自宅周辺には200人ほどの避難民がいた。」とのことである(事務局による聞き取り 2023)。