なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

金城悦子(きんじょう えつこ)(旧姓大城 昭和11年生まれ 玉城・富里)【キーワード】一般疎開

■地域のために活動した祖父母
私の祖父は大城幸之一(こうのいち)という人で、医師でありながら政治家としても活動していた。祖父は玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)の丸タンク(生徒たちの飲み水用の水道で、これがあったおかげで水には不自由しなかった)の設置など、私財を投げうって村のために貢献(こうけん)した人だった。彼は軽便鉄道(ケービンてつどう)の「幸之一カーブ」を実現させた人でもある(キビ農家のために糸満線の路線を大里の稲嶺(いなみね)までカーブさせたという)。
祖母のアイは鹿児島から嫁(とつ)いできた。とても器用な人で、機織りをしたり、婦人会活動で山芋ナントゥーというお祝いの時に作る特別なお菓子を普及させる活動をしたりしていた、と聞いたことがある。

■国民学校での教育
私は玉城国民学校に入学した。当時は「国民学校1年生~」「みんなで体操1、2、3」「兵隊さん万歳(ばんざい)、万歳~」という歌詞の歌があった。
日本は戦争を始めていたので、下級生は奥武(おう)の浜から砂を運ばされた。爆弾が落ちた時に砂をかけて消すようにということだったが、馬鹿らしいことをさせられたと思う。運動場は食糧増産(しょくりょうぞうさん)のために畑になったので、運動会はしたことがなかった。
玉城国民学校は、戦前には珍しく2階建てのコンクリート製だった。私たち初等科の生徒は瓦屋根で平屋の教室だったが、高等科の生徒は2階建てのコンクリート校舎にいた。後からは、学校の校舎も兵隊に取られてしまった。

■鹿児島県へ縁故疎開(えんこそかい)
私の父(幸隆)は次男で、戦時中は南方に軍医として派遣されていた。父の兄(幸雄)も軍医だったが、沖縄戦で、糸数アブチラガマに開設された沖縄陸軍病院糸数分室で勤務したのちに戦死した。
昭和19年(1944)の7月、私は祖母のアイと、おば(幸雄の妻の芳子)、その子ども達(幸治、幸哉、のり子、朝子、禮子)、いとこ(父の妹の息子である靖吏)、母(富美)と妹(勢子、当時4歳)、弟(幸馬、当時11ヵ月)と一緒に、鹿児島県の祖母の実家(姶良(あいら)郡重富村)へ縁故疎開した。沖縄が危ないということで祖母の実家から呼び寄せがあり、第1回目の疎開船で出発した。このとき私は、国民学校初等科の3年生だった。
着替えなどの荷物は柳行李(やなぎごうり)に入れたり、風呂敷(ふろしき)に包んだりして持っていた。航海中、島も何も見えない海の真ん中で警報が出て、救命具をつけて甲板に上がらされたこともあった。

■食糧難(しょくりょうなん)で宮崎・大分に移動
家族・親戚たちと祖母の実家に移ったものの、一度にたくさんの人数が疎開したため、祖母の実家が食糧難で困ってしまった。そのため私たちは、現在の宮崎県宮崎市大島町に移り、兵隊のために造られていた新しい綺麗な家で暮らすようになった。ところが、そこで空襲に遭ってしまった。空襲の時、私は1歳だった弟をおんぶして逃げ回った。
「せっかく疎開しているのにそこで死んだら意味がない」ということで、今度は大分県中野村笠掛(かさかけ)(現 佐伯市)に移り住んだ。そこには玉城国民学校の生徒たちが学童疎開(がくどうそかい)をしていて、私の母の妹である喜名和子さんが引率教員の家族として来ていた。
笠掛は山しか見えないような、山に囲まれた村だった。疎開学童たちはお寺に住み、引率の喜名一家は近くの民家に滞在していた。私たち一家は、中村さんという地元の方の家の離れを借りることになった(祖母とおば一家、いとこの靖吏は別の民家に滞在していた)。笠掛に一般疎開で来ていたのは、私たち一家と神谷さんという家族くらいだった。

■笠掛での暮らし
大家さんである中村さん一家はとても優しい良い人たちだった。当時、中村家には婦人と、彼女の子どものハルコ、トクオ、タケオというきょうだいがいて、彼らきょうだいのことを「ハル姉」「トク兄」「タケ兄」と呼び、中村家とは親戚のように付き合っていた。まだ片言しかしゃべれなかった弟が、お腹を空かせて大家さんに「まんまくれー、まんまくれー」と言い、おにぎりをもらったこともあった。戦後も中村家とは交流が続き、沖縄で海洋博があった時に3きょうだいを招待したこともある。
私は現地の国民学校に入ったが、学校での思い出はほとんどない。食べ物が不足しがちだったので、母はよく買い出しに出かけていたが、その間、私は留守番と妹・弟の子守ばかりしていた。学校は川を渡ったところにあったが、橋が流されて学校に行けなかったこともある。
お米は配給制(はいきゅうせい)だったがお腹いっぱいにはならなかったので、野草などいろんなものを入れた、今でいうボロボロジューシー(雑炊)のようなものを食べていた。配給米は白米だったが、玄米が配給されるときもあり、その時には玄米を瓶に入れ、自分でつついて精米していた。その日に川で釣った魚も食べていた。川は噴水のような湧き水で、水には不自由しなかった。泳いだこともあるが、非常に冷たかった。
笠掛には沖縄の情報が全然入ってこず、沖縄が玉砕(ぎょくさい)したということは、おそらく昭和20年(1945)8月15日の玉音(ぎょくおん)放送のあとに知ったと思う。玉音放送のことは鮮明に覚えている。たしかラジオで聞いたが、「天皇陛下という神様がついているから絶対に負けない」という教育を受けていたので、敗戦したと聞いて悲しかった。

■父の復員と宮崎県で過ごした戦後
終戦の翌年、いつだったか覚えていないがうちの父が復員してきた。けがや病気を患(わずら)った傷病兵の引率係として、通常より早く帰国できたとのことだった。
父は笠掛に来たが、ここでは生活できないということで、祖母たちも一緒に宮崎県三股(みまた)村(現 三股町)の、兵隊が引き揚げた後の兵舎跡に移動した。この頃、学童疎開の人たちはまだ笠掛にいたと思う。宮崎では自給自足をしながら暮らしていた。
宮崎にいた頃、おば一家の末っ子の幸忠(当時0歳)が病死してしまった。おば一家はその後沖縄へ引き揚げたが、祖母はがんを患っていたため残り、父が看取って現地で埋葬した。昭和22年(1947)には、2番目の弟(幸保)が生まれた。
その後私たち家族は、宮崎駅の近くや瓜生野(うりゅうの)(現 宮崎市)に転居しながら暮らしていたが、昭和30年(1955)に父母ときょうだい達は沖縄に帰った。この時には、祖母も火葬して一緒に連れて帰った。
私は勉学のため宮崎の親戚の家に残り、のちに引き揚げた。
(事務局による聞き取り 2018)