なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

喜舎場清三(きしゃば せいぞう)(昭和5年生まれ 玉城・仲村渠)【キーワード】義勇隊

■ペルーから沖縄へ帰る
私は両親の移民先だったペルー首都リマのサンタ・ロサで生まれ育った。私が小学校3年生だった1939年(昭和14)に、家族で沖縄に帰ってきた。
ペルーから日本に来る時、船がアメリカのどこかに寄港した ※1。アメリカに移民していた母のきょうだいが会いに来ていたが、日本人は船から降ろしてもらえなかった。その時、船からアメリカの大きな軍艦が4、5隻見えた ※2。
沖縄に帰って来て、家(屋号 ジルーキシャバグヮー)を建てるまでは、仲村渠二区(なかんだかりにく)(現 琉球ゴルフ倶楽部)にある母の実家(屋号アガタンメー)で生活した。私はスペイン語・日本語・ウチナーグチの3つの言葉を話すことができた。沖縄に来てからは、学校でよそ者だといじめられて毎日けんかをしていたが、革靴を壊してしまうくらいやんちゃだったため、だんだん周りの児童がおとなしくなっていった。

■日本軍の駐屯(ちゅうとん)と慰安所(いあんじょ)
仲村渠二区にも日本軍が駐屯し、私の家には日本軍の大隊長やムラカミ中尉が宿泊していた。部隊名や大隊長の名前は覚えていない。八重山か宮古島出身の准尉(ハラさんという名前で食料か何かの係だった)もいて、この人は当時開南中学校の3年生だった兄と仲が良かった。
仲村渠二区には慰安所も設置されていて、女性が10人ほどいたと思う。慰安所に兵隊が並んでいるのを見たことがある。「慰安婦(いあんふ)」のことをみんなは「朝鮮ピー」と呼んでいた。私は彼女たちの名称がそうなのだと思っており、からかう気はなかった。

■かなわなかった師範学校への進学
私はもともと少年兵になることを志願していて戦車兵になりたかったが、体が小さすぎると言われ、師範学校に進路を変更した。昭和20年(1945)の2月頃に師範学校を受験したと思うが、受験の時、那覇を空襲した際に捕虜(ほりょ)として捕まったアメリカ兵が師範学校の入口にいた。師範学校にも軍が駐屯していたが、受験は1階の講堂で行われた。
その後、合格が決まって4月7日の入学予定となったが、沖縄戦が始まったため進学はかなわなかった。

■ガマでの避難生活
1945年の3月20日頃、玉城城跡のあたりに弾が落ちた。その様子を見ていたら、「これは戦(イクサ)だよ」と言われてティーラガマに避難した。近くにクラガマ、シムクラガマなどがあり、仲村渠二区の住民が避難していた。どのガマ(自然壕)を使うかについては指定されていなかったので、世帯単位で、各自で行きたいガマに避難していた。私たちは家族で、ティーラガマの向かいにあったガマ(名前不明)に避難した。
上江洲口(イージグチ)のウフニク原の山の麓(ふもと)には馬小屋があり、軍馬がいたが、ある日グラマン(アメリカ軍の戦闘機)の機銃で馬が攻撃された。日本兵は住民に馬肉を取ることを許可し、取った後には残った部分を埋めさせていた。私たちも芋を炊くときに上に馬肉をのせ、ンブシー(味噌煮)にしてたくさん食べた。当時ではごちそうだった。
早朝と夕方のおのおの1時間は、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が止んだ。海を見ると、アメリカ軍は勤務交代をしているようだった。私たちはその間を見計(みはか)らって食事などをしていた。
上江洲口は早い時期にアメリカ軍に焼かれ、家も、木の下に置いてあった着物なども全部焼けてしまって大変だった ※3。避難中に一度、グラマンに追われたこともある。
アメリカ軍のトンボグヮー(偵察機)からまかれた宣伝ビラには、「知念に逃げなさい、そこでは民間人を収容します」と書かれていた。それを手に取って読んでいたため、スパイだとされて日本兵に銃殺された人が1人いた。そのため、宣伝ビラを持っていても隠していた。

■義勇隊(ぎゆうたい)への動員
ティーラガマに避難していたとき、ガマの真向かいで義勇隊の召集を受けた。男性が数人(日本兵ではない)やってきて、「15歳以上は義勇隊に出なさい」と呼びかけた。仲村渠二区から20人ほど、男性のみが義勇隊として召集された。私は14歳で身長が145センチメートルくらいだったが、数えで15歳ということで動員された。
今考えると糸数城跡だったと思うが、そこが日本軍の陣地として利用されていた。玉城村(現 南城市)の義勇隊員はそこに集められた。村内の別の字からも人々が集まっていたので、相当な人数がいた。私たちはそこに布陣していた部隊(部隊名は忘れてしまった)に配属され、後方支援をするという感じだった。
隊員は、点呼をとられた後に5人ずつの班に編成された。各班に日本兵1人がつき、その日本兵の指示の下、班ごとに部隊の後方支援をすることになっていた。軍服や、軍属(ぐんぞく)であることを示すワッペン等の支給はなく、みんな私服で作業をした。また義勇隊員には、敵を殺すためと自決をするための2個の手りゅう弾(しゅりゅうだん)が支給された。義勇隊の活動は主に夜で、昼間は家族のいる壕(ごう)に帰っていた。

■家族のもとへ帰してくれた新垣先生
隊員の点呼をとっていたのは、南風原(はえばる)村(現 南風原町)与那覇出身の新垣コウゼンという方だった。彼は当時30歳前後の海軍帰りの在郷軍人(ざいごうぐんじん)で、私の母の実家(いとこの儀間昇の家でもある)に下宿しながら学校の先生をしていた。
新垣先生は点呼をとった後、5人の班に分ける前に、私と同級生である山入端宏正さんの2人にこっそり帰るよう指示したことが何度かあった。4、5回点呼をとったが、そのうち3、4回は帰されたのではないか。私たちが幼かっただけでなく、母の家にお世話になっていたということもあり、家に帰してくれたのだろう。新垣先生は命の恩人だ。

■命がけの弾薬運び
弾薬運びは夜間に行った。また、戦闘の第一線に行っていたため、どこに運んだのかは憶えていない。しかし今の地形を見ると、浦添城跡まで行ったことは分かる。当時アメリカ軍は真栄原(まえはら)(現 宜野湾市)まで来ていた。
初めて動員されたとき、ある下士官(かしかん)に「生きて帰りたければ、負傷兵が『助けてくれ』と言っても絶対にその兵を触るな。あんたも一緒に死にたければ触りなさい」と言われ、実際に負傷兵を避けて移動した。その下士官は首里に行く途中、識名園あたりで砲弾の破片に当たり亡くなってしまった。彼がそこにいなければ、自分達がやられていたかもしれない。
最初に弾薬を運んだ時、繁多川(現 那覇市)の山の上にある御願所(ウガンジョ)の壕(ごう)で1泊することになった。夜になり壕から外に出ようとすると、アメリカ軍は電波探知機を持っていたらしく、迫撃砲(はくげきほう)で攻撃してきた。まとまって移動すると危険だということで、集合場所を決めて、1人ずつゆっくり出て行った。
その夜、首里崎山の御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)あたりで艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けた。そのときは新垣先生、愛地(現 南城市)出身の男性、その男性の父親と一緒にいたが、しゃがんでいた時に、「んん!」という声がした。愛地出身の男性の頭に破片が当たり、即死してしまっていた。そのときの彼の父親はとても可哀想だった。大里村(現 南城市)の真境名(まじきな)付近では、1期上の先輩が艦砲射撃の破片に当たって亡くなった。他の人たちは伏せて助かった。
ある日、私と山入端さんは一緒に弾運びを終えて、玉城村役場の裏の山にあった部隊の壕に戻った。すると、壕には逃げてきた兵隊が入っていて、私たちに剣を向けて「スパイか?スパイか?」と言ってきたので、2人で逃げた。このようなことが2回あった。当時の日本兵は怖かった。
また、弾運びの帰りに集落の製糖工場に来た時、そこである日本兵に出会い、彼から「ここはあんたがたの住んでいるところだから自分で守らないといかんよ」と言われた。日本兵たちは、沖縄に駐屯してきた頃には、「自分らは沖縄を守りに来ました」と言っていたので、この製糖工場で出会った兵隊にとてもワジワジーした(腹が立った)が、彼は鉄砲を持っていたのでそのまま逃げた。なお、日本兵たちは、駐屯してきた頃、「絶対に捕虜(ほりょ)にはなるな。捕虜になるなら自ら鉄砲(てっぽう)で頭を撃て。手が引き金に届かないから足の指を使え」とも言っていた。
任務が終わり、山入端さんと、2歳ほど年上の諸見里アンセイさんと3人でシマ(集落)に帰ったが、壕には誰もいなかった。諸見里さんは私と山入端さんの2人に、「自分は島尻(沖縄島南部)に戦いに行くから、あんたたちは家族の元へ帰りなさい」と言った。そして持っていた手りゅう弾(しゅりゅうだん)2個を取り出し、「付いてきたらこれでお前たちを攻撃するからな」と言って、1人で島尻へ行ってしまった。彼は当時農林学校の学生で、軍国教育を受けていたので、1人で島尻まで戦いに行ったのだと思う。彼は戦場を生き延びたが、島尻では大変な思いをしたそうだ。

■アメリカ兵に手を振って山を下りる
義勇隊から離れて、家族が避難していた上江洲口(イージグチ)の馬場の裏側の壕に移動した。ある時、こちらからの距離が約100メートルというところまでアメリカー(アメリカ兵)が来ていた。第一線だというのに、アメリカ兵はタバコを吸うために銃をかまえることもせず、のんびりとしていた。その時、彼の真向かいにいたある先生がアメリカ兵に向かって銃を撃った。すると、そこに向かってアメリカ軍が反撃した。私たち家族は南部に避難することにし、その壕を出て、普段なら30分から1時間しかかからない道を一晩かけて山に移動した。
そして、その時、父が「重いでしょう」と言って、私がいつも胸に持っていた手りゅう弾(しゅりゅうだん)を取って隠した。その後、私たちの近くをアメリカ兵が通りかかったので、私の方から「おいで、おいで」と招くように手を振ると、「Come on, come on」と言われたので、一緒にいた4世帯くらい(屋号ヒガノソバヤー、イナフクグヮー、残り不明)は、(山を)下りて行って捕虜となった。当時の日本兵は怖かったが、アメリカ兵を見たら安心したので出て行った。手りゅう弾を隠してきたのは良かったと思う。

■収容所(しゅうようじょ)での生活
捕虜になり、最初は下田(シムダ)(現 南城市)の収容所に入った。アメリカ兵はチョコレートやチューインガム、キャラメルなどのお菓子を持って来てくれた。みんなは外国の食べ物を見たことがないため、「毒が入っているから食べたらダメだよ」と言っていたが、私はそれらのお菓子をペルーで食べたことがあったため気にせず食べていた。
その後、チーズなどアメリカ軍からの配給品が来ると、みんな私のもとに「これは何ですか?何と読むんですか?」とよく聞きにくるようになった。スペイン語と英語のスペルには似ているところがあるので、英語も少しは意味が分かった。アメリカ兵の中にスペイン語を話せる人がいて、この人からはお菓子をたくさんもらった。
また、現在の琉球ゴルフ倶楽部にあった収容所の中を歩いていた時(私は裸足(はだし)だったので、靴がないか探しに行っていた)、金網の中に日本兵たちが閉じ込められていた。その中に「絶対に捕虜になるな、捕虜になる前に自決しろ」と私たちに言っていた兵隊がいた。そう言ったのは洗脳されていたからだと今考えたら思う。後に、私は、やはり「命は大切に」ということが分かるようになった。
下田の収容所の次に親慶原(おやけばる)、そしてやんばるの東喜(とうき)(現 名護市二見(ふたみ))の谷底へと移動させられた。東喜にはPW(戦争捕虜)もいた。食料を探しに西側の宇茂佐(うもさ)(現 名護市)あたりまで行ったことがあったが、そこにはアメリカ軍のトンボグヮーの飛行場があった。
東喜で私は、マラリアに罹(かか)って体が弱り、下り道を歩くときには体がガタガタしてきつかった。
その後、玉城の富里(ふさと)へ移動した。仲村渠二区にはアメリカ軍が入っていたため、帰る場所は無くなっていた。富里で生活していた時には、東風平(こちんだ)の富盛(ともり)(現 八重瀬町)まで芋を掘りに行くのが大変だった。一人ひとり決められた分の芋を掘って出せば、それ以上に採れた芋は自分のものにできたので、上等な芋を自分用に残していた。蔓(つる)が多く生えているところには、たいてい遺体が埋まっていた。
戦後は不発弾もたくさん残っていた。子どもなので面白半分でガマに遊びに行っていた。あるガマには擲弾筒(てきだんとう)の弾が山積みにされていた。中に入れないので弾を1つ1つどかして入った。

■進学を諦めて自学した戦後
終戦後、玉城に青年実業学校(ディストリカルハイスクールと呼ばれていた)という学校ができたが、そこの先生は戦前にも教員をしていて、国のために死ぬことを称賛していた人だった。そのため「『国のため』と言っていたのに、先生はなぜ生きているのか?」と生徒らに言われ、授業にならなかった。その後も授業どころではなく、学校はまもなく廃校になった。
また、戦前に師範学校生だった人たちは、知念高校などのハイスクールの2年生に編入することができた。私も対象者だったが、戦争で母と兄を亡くし父と2人家族になったので進学を諦(あきら)め、家のために働くことにした。朝には同級生たちが「学校(知念高校)に行こう」と家まで呼びに来ていたので、近くの山に逃げて隠れ、彼らが行ったのを見て下りていた。
戦後、私は那覇の壺屋にあるヤミ市場で本を買って自学で勉強した。また、那覇の港のトゥンドービヨー(港での船の積み荷下ろし)で働いていた時には、奥武山(おうのやま)公園のキャンプにあったテントで寝泊まりし、週に一度の休日に玉城に帰った。その後、軍政府に就職し、エンジニアや消防署(佐敷のバックナービルにあった)の仕事に就(つ)いて働いた。それからはバスの運転手、建築業(トラック運転手)、ガス関係の仕事をし、定年後もガソリンスタンドや建築業、浦添市のシルバー人材センターなどで、70歳まで働いた。
(井口学と事務局による聞き取り 2018 事務局による聞き取り 2023)

■脚注
※1 喜舎場さんによると、サンフランシスコかロサンゼルスか、はっきりしないとのこと(事務局による聞き取り 2023)。
※2 喜舎場さんによると、「トゥシビー祝いでハワイ旅行に行った際、軍艦アリゾナのポールを見て、あの時見た軍艦はアリゾナだったんだと思った。」とのことである(事務局による聞き取り 2023)。
※3 『玉城村史 第6巻 戦時記録編』293頁によると、1945年4月中旬ごろに、アメリカ軍の偵察機一機が撃墜されて炎上した。その報復攻撃として、アメリカ軍が上空から焼夷弾を落とし、与那川屋取(上江洲口)の42世帯中38世帯の家屋が、家畜もろ共に炎上、消滅してしまったという。