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神谷依信(かみや よりのぶ)(昭和3年生まれ 玉城・仲村渠)【キーワード】学徒隊

■一中(いっちゅう)へ入学
私は玉城国民学校初等科(たまぐすくこくみんがっこうしょとうか)(現在の玉城小学校の前身)を卒業したのち、昭和17年(1942)4月、一中(沖縄県立第一中学校) ※1 に入学した。
一中を受験したのは、一中が好きだったからだ。字(あざ)に一中を出た先輩がいたし、当時は沖縄の偉(えら)い人たちの中には一中出身者が多かった。一中の受験では、学校からの内申(ないしん)に加え、3日間の口頭試問(こうとうしもん)や体力検査が行われた。当時は軍国主義なので体力が重視されていた。筆記試験はなかった。
当時、一中には玉城村(現 南城市)當山(とうやま)出身の嶺井(みねい)先生がいて、嶺井先生が(玉城国民)学校に電話して合格を伝えてくれた。玉城では親慶原(おやけばる)や當山の生徒も合格し、計3人が一中に合格した。当時、一中には沖縄県全体から受験生が集まっていたので、村内から5人受かるかどうか、という状況だった。
一中へは、首里にあったいとこのお姉さんの家に下宿をして通った。お姉さんの家には、私のほかに1期上の石嶺(いしみね)さんと、いとこの崎間福昌(さきまふくしょう)(鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)で戦死)も下宿していた。

■戦時下の学校生活
入学した昭和17年には戦争が始まっていて、配給の切符はあっても品物がなく、地下足袋(じかたび)を買うのにも苦労した。学校へは地下足袋を履(は)いて通っていたので、地下足袋は大事に使っていた。そのほかの時には、履き物はおもに下駄(げた)を使っていた。草履(ぞうり)もあったが、学生は一週間で1足潰(つぶ)してしまうので、代わりに下駄を履いていた。しかし、下駄は材木の質によって、真ん中から裂けて駄目になるものもあったので、気をつけて歩いていた。
制服は1着しかなかったので、破れると当て布を縫(ぬ)って補修した。教練(きょうれん) ※2 があったので、膝(ひざ)の部分がよく破れた。次第に、当て布の上に当て布をしないといけない状態になり、元の生地は縫い目のあたりに残っているくらいになった。当時の生活を考えてみると、相当苦労し、頭を使っていたと思う。
教練は1年生の頃からあり、指導していたのは予備役(よびえき)の陸軍中尉(りくぐんちゅうい)たちだった。彼らは軍服(ぐんぷく)を着て、学校の職員として勤務していた。配属将校(はいぞくしょうこう)も入れると(軍関係者は)5~6人いた。配属将校は現役将校で、予備役では配属将校にはなれなかった。
教練では、隊列を組んで校外へ二里 ※3 から三里の距離を行軍した。玉城村役場から那覇までが約三里半という距離だった。普天間(ふてんま)(現 宜野湾(ぎのわん)市)まで往復したこともあるが、往復では七~八里になるので、弁当を担いで行った。ちなみに、首里にアスファルトが敷(し)かれたのが昭和18年(1943)だった ※4。ある晩、那覇港から上陸してきた兵隊たちが首里のアスファルトの道を夜10時過ぎから四列縦隊(よんれつじゅうたい)で行進(こうしん)したが、すごい音がした。
学校では教練のほかに体操の授業もあり、柔道もしなければいけなかった。教練は毎日、体操と柔道は一週間に3回ずつはあった。2時間は外に出るので、腹を減らすのは当たり前。ヤーサワタ(空腹)を食いしばって頑張っていた。朝食は朝6時半に食べ、7時には学校に来ていた。遠いところから来る人は6時半には家を出ているので、2時間目の授業の頃には腹を減らしている。下宿や家から持ってきた弁当は、午前中の休み時間にはみんな食べてしまっていた。真面目な人は最初は我慢して食べなかったが、腹が減って仕方がないので、そのうち午前中の休み時間に食べるようになった。
昼食は担任の先生と一緒に食べていたが、弁当は午前中の休み時間に食べてしまっているので、売店で「ポテト」を買ってきて、弁当箱に詰(つ)めてお昼時間に食べていた。「ポテト」は砂糖(さとう)をつけた芋(いも)のことで、「ポテト」というハイカラな名前で5銭(ごせん)で売られていた。
中学校に方言札(ほうげんふだ)はなかった。標準語(ひょうじゅんご)ができるのが当たり前だったので、みんな標準語で話していた。しかし同級生との会話では、たまにウチナーグチ(沖縄の言葉)が出た。人間だし、ウーマクー(腕白)でやんちゃな年頃なので、先生たちも咎(とが)めなかった。
土曜日の授業が終わると、夕方4時~5時に首里を出て、大里村(おおざとそん)(現 南城市)大城(おおしろ)を通って玉城村(現 南城市)の喜良原(きらばる)、仲村渠二区(なかんだかりにく)(現 琉球ゴルフ倶楽部)、垣花(かきのはな)を抜け、仲村渠一区(なかんだかりいっく)の自宅まで歩いて帰った。家に着く頃には日が暮れていた。バスを利用する場合は佐敷(さしき)(現 南城市)に出ないといけなかった。道が悪く、バスは車の轍(わだち)を避(さ)けて通るので、佐敷から与那原(よなばる)(現 与那原町)まで1時間以上かかった。当時はお金(公金)がないので道の補修ができていなかった。
与那原から那覇までは軽便鉄道(ケービンてつどう)が通っていたが、那覇から首里へ行くよりも、与那原から首里へ行く方が早かった。私は、軽便で那覇まで行く時間が無駄(むだ)なので歩いていた。家へ帰る時にはもっぱら下駄を履いていた。

■陣地構築(じんちこうちく)
昭和18年(1943)には奉仕作業(ほうしさぎょう)で農家の手伝いをした。大里村(現 南城市)湧稲国(わきなぐに)の出征兵士(しゅっせいへいし)の家に、農作業の手伝いに行った覚えがある。
昭和19年(1944)になると陣地構築の作業が始まった。アメリカ軍がサイパンやフィリピンへ上陸していたので、いずれ沖縄にも来るだろうということを一般の人達も感じていた。県外の学徒(がくと)は軍の工場に動員されたが、私たちは陣地造りに動員された。昭和19年の8月頃までは授業があったが、それ以降は学校に行く代わりに、下宿から弁当を持ってそのまま陣地構築に行くようになった。
当初、アメリカ軍は港川(みなとがわ)(現 八重瀬(やえせ)町)辺りから上陸してくるという予想があったので、その想定で陣地が造られていた。私たち一中生は首里に学校があったので、識名(しきな)から一日橋(いちにちばし)(現 那覇市)までの間の陣地造りに何度も動員された。土を掘って盛る作業をしたが、港川方面である南側を高く盛った。
私たちは読谷(よみたん)や嘉手納(かでな)、小禄(おろく)(現 那覇市)での飛行場造りにも動員された。読谷には一度か二度、小禄には何度も泊まり込みで行った。小禄村の大嶺(おおみね)と瀬長(せなが)は海を隔(へだ)ててタンカーマンカーだった(向かい合っていた)ので、私たちは大嶺の方で、飛行場拡張のための埋め立てをするために砂運びをよくやった。

■十・十空襲(じゅう・じゅう くうしゅう)
十・十空襲があった昭和19年10月10日、朝ごはんを食べて学校に行こうとしていた時、米軍機が東の太平洋の方から低空で西森(ニシムイ)の上を飛んできた。初めは日本軍の飛行機かと思った。突然飛行機が飛んできたので、空襲警報を鳴らす余裕はなかった ※5。最初は万歳(ばんざい)をせんばかりに旗をあげて眺めていたが、しばらくして那覇やあちこちで煙があがっているのを見て、「これはアメリカ軍だよ」と慌(あわ)てた。
下宿先は桃原農園(とうばるのうえん)から2~3分の距離にあった。桃原農園の南側は高くなっていて、いろいろな木がたくさん生えているので陰(かげ)になっていた。そこに行けば那覇の街を眼下に見渡すことができるし、(空襲のため)どこにも行けないのでそこに座って、那覇が燃えるのを眺めていた。道を歩く人は隠れながら歩いていたので、道路に人は見えなかった。午後の2時~3時頃になると、那覇の焼けた煙がずっと上まであがっていたので、太陽がまるでお月さまのように見えていた。太陽の光をさえぎるくらい煙がすごかった。
首里には攻撃がなかったが、悲しかったし、寂(さび)しい気持ちにもなった。「このアメ公(こう)は」という敵愾心(てきがいしん)も出た。みんなそうだったんじゃないか。ただボーっと眺めるしかないという怒りの気持ちや悔しさもあった。
一中は首里にあったので空襲の被害はなかったものの、空襲後は授業どころではなかった。嘉手納(かでな)辺り、北谷(ちゃたん)、宜野湾、浦添(うらそえ)から汽車で通っている学生もいたが、空襲の被害のため、学校に行こうとしても行けない状態だった。先生方は那覇に住んでいたので焼け出されていた ※6。
学校が再開できなかったので、私は玉城の家に帰った。家で過ごしていた頃には、現在の玉城青少年の家のある辺りから仲村渠までの地域の陣地構築などに参加した。その時も、敵は港川から来るという想定で陣地が造られていた。
私は、「(アメリカ軍は)本当に来るかな?」という気持ちを半分持ちながら、「来るだろうな」という思いも半分抱いていた。サイパンやフィリピンも上陸されたので、次は台湾(たいわん)、沖縄と来るだろう、と考えていた。

■県庁連絡員(けんちょうれんらくいん)になる
10月10日の空襲以降、一中は休校になっていたが、昭和20年(1945)の1月半ば頃、玉城村役場へ登校命令が来た。親戚が役場にいたので、私の方へもすぐに連絡が来た。
当時、多くの沖縄県民が疎開(そかい)のために県外や台湾へと送り出されていたが、ヤマト(本土)に行ったことがなく疎開に不安を抱く県民が多かったので、県庁職員や市町村の役場職員が率先(そっせん)して疎開に行っていた。そのため沖縄県庁は人手不足となり、学校に応援を求めるようになった。
一中から19人が県庁に派遣(はけん)され、私もその1人であった。選ばれた理由はわからない。一高女(いちこうじょ)(沖縄県立第一高等女学校)からも何人か派遣されて来た人がいたようだった ※7。他校の男子中学生はいなかった。
十・十空襲で県庁舎が焼失してしまったため、家主が疎開に行って無人となった民家(現在の那覇高校近く)が事務所として利用されていた。私はその事務所から、自転車に乗って安里(あさと)や大道(だいどう)、松川(まつがわ)(現 那覇市)あたりに書類を届ける仕事などをした。県庁職員は、20~30人いるべき職場に10人もいないという状況だった。しょんぼりとして、無言でタバコを吸う職員もいた。市町村への連絡ができないので、仕事をしようにもできない状態だった。
アメリカ軍による沖縄への本格的な空襲が始まった3月23日ごろ、「県庁連絡員は全員集まれ」ということで、私たちは工芸(こうげい)(沖縄県立首里高等女学校)の壕(ごう)のところにあった学務課(がくむか)の壕 ※8 に集まった。それから2日ほど、那覇の焼け残った倉庫にあった米を、夜中に荷車(にぐるま)で首里の坂を運んでいった。当時県庁に勤めていた喜屋武真栄(きゃんしんえい)さん(戦後に参議院議員となった)も一緒に米運びをしていた。

■鉄血勤皇隊員(てっけつきんのうたいいん)となる
学校から連絡があり、学務課長が「仕方ない」と私たちを学校に戻したのが4月4日の朝だった。私たちは一中鉄血勤皇隊(いっちゅうてっけつきんのうたい)の本部壕(ほんぶごう)に向かった。一中の他の生徒たちは、3月末に鉄血勤皇隊として組織されて二等兵(にとうへい)となり、兵隊として動いていた。
本部壕で「ただいま帰りました」と配属将校に報告すると、軍帽(ぐんぼう)、軍服上下(ぐんぷくじょうげ)、脚絆(きゃはん)、軍靴(ぐんか)、三八式(さんぱちしき)の銃を渡され、二等兵の星(ほし)(階級章(かいきゅうしょう))もつけられて、二等兵と同じ格好になった。銃は重く、弾(たま)も100発支給(しきゅう)されたので、銃と弾を合わせて重さが5、6キロ以上はあったと思う。弾は1発も撃たなかったし、撃つ機会もなかった。教練で実弾(じつだん)を使ったこともなかった。
アメリカ軍の銃は小さくて性能の高く、弾倉(だんそう)付きで何発でも続けて撃つことができる。日本の三八式の銃はこまめに弾を装填(そうてん)しなければならないので時間がかかった。その間にアメリカ兵は100発も撃つ。日本軍はなんだかんだ(言っても、そういう点で)負けていた。
一中では1学年4クラス、1クラスに生徒が56人いた。224人の同級生のうち、100人近くは疎開した。親が連れて行くといえば、学校は反対しなかった。県の方針としても疎開を推進(すいしん)していたし、(疎開に行く人の)頭数(あたまかず)を1人でも増やしたいので疎開は黙認されていた。「(疎開に)行く」と言えば、学校で阻止(そし)することはできなかった。
残った120人くらいのうちの3割、40~50人くらいはやんばるや離島など遠いところの出身で、十・十空襲後、学校に戻って来られなかった。空襲の後に島に帰っていて、「(学校に)出てこい」と言われても船がない。当時、お金がものを言った。乗船には高いお金を払わなければいけなかったので、お金がない人は船に乗れなかった。戦後、「それで命が助かった」と笑う人もいた。

■特別班(とくべつはん)として行動
県庁連絡員だった19人は後から鉄血勤皇隊に合流したので、特別班として行動することになった。特別班の任務としてあれもこれもやったが、そのなかには食料運搬(しょくりょううんぱん)もあった。日本軍は持久戦(じきゅうせん)の準備をしていたので、食料を確保するために、夜間に那覇の街の焼け残ったところからいろんな物資をトラックで運んできていた。私たちはそれを、首里の金城町(きんじょうちょう)から坂道を上って首里城(しゅりじょう) ※9 まで運んだ。
鰹節(かつおぶし)はバラで袋の中に入っていた。袋に少しでも穴が空いていれば、そこから取り出して食べた。大きいものも取り出せたので、運搬中に1、2本食べた隊員もいた。私は1本しか食べられなかった。食べてもばれることはなかったし、あの頃はご馳走(ちそう)だった。幸い鰹節(の運搬)に当たったので、それでだいぶ元気になれたと思う。今でも鰹節を見ると、「よくもこれを1本平らげたものだ」と思い出す。戦後にその時の隊員らと集まった時も、「あの時の鰹節運びは楽しかったな、嬉しかったな」と言って笑い種(ぐさ)にしている。
特別班としていろんな作業をさせられるようになった後、4月下旬ごろから、私は壕を貫通(かんつう)させる作業に割り当てられた。「西側と東側の壕を貫通させないと、入り口が1つしかなくて危ないから」ということで、一中の藤野(ふじの)校長先生の指揮のもと、5月14日の分散配置まで壕掘りに従事した。
結局私たちは壕を貫通させることはできなかった。その後、その壕にはどこかの部隊が入ったらしいが、貫通させたという話は聞いていない ※10。一中生が分散配置された頃にはアメリカ軍がすでに(首里の)近くまで来ていて、浦添ようどれのところで攻防戦を展開していた ※11 ので、貫通させることはできなかったのではないか。

■野戦重砲兵第一連隊(やせんじゅうほうへいだいいちれんたい)へ分散配置
5月14日、それまで一中の鉄血勤皇隊としてまとまっていた隊員たちは各部隊に再編、分散配置された ※12。
そのうち、私を含む27人は野戦重砲兵第一連隊に配置された ※13。それまで、この部隊との面識はなかった。部隊には南風原村(はえばるそん)(現 南風原町)出身の防衛隊員(ぼうえいたいいん)が大勢(おおぜい)いた。
部隊の壕は東風平(こちんだ)村(現 八重瀬町)志多伯(したはく)にあった。昼間はトンボ(アメリカ軍の偵察機(ていさつき))が飛んで危ないので、夜間にそこまで移動した。
私たちが壕に着いた時には、部隊の重砲は壕の中にあった。砲身(ほうしん)はアメリカ軍の弾(たま)に当たったのだろうが、1メートル以上裂(さ)けていて使い物にならなかった。弾はとても重く4、5人で運んで載(の)せた。弾を撃っている様子は見ていない。撃ったら撃ったで、100発どころではない、1000発以上いろんな弾が飛んできただろう。
私が見た日本兵たちは、重砲が使えず仕事がないので寝てばかりいた。「自分たちは(戦闘)要員だから」といって、(戦闘以外の)仕事は防衛隊員と勤皇隊員にさせていた。防衛隊員は毎日の水くみ、食事、薪拾(たきぎひろ)いなどをしていた。日本の兵隊は兵隊ではなくなっていた。
連隊の診療室があったので、そこの手伝いもした。診療室では毎日のように患者が十数人運ばれてきた。朝も夜も7~8人、1日で14~15人は死んでいった。一中の生徒は死体の片付けもした ※14。4人で遺体(いたい)一体を持って埋(う)めるところに運び、穴を掘った。土が硬(かた)いところを掘る体力はなかったので、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けて土が柔(やわ)らかくなったところや、艦砲の弾が落ちた跡を利用していた。
野戦重砲兵部隊なので、敵のすぐ目の前のところに観測所があり、観測所から重砲のあるところへ「あと何百メートル」と電話で連絡をしていた。観測所の役割は大きく、(敵が)100メートルくらいまで近づいて来たら撤退すると聞いた。

■真壁(まかべ)へ撤退
私は先遣隊(せんけんたい)として5月22日に志多伯から摩文仁(まぶに)(現 糸満(いとまん)市) ※15 へ行った。部隊は5月下旬から6月1日頃に真壁(まかべ)(現 糸満市)へ撤退したと、他の勤皇隊員から聞いている。真壁では志多伯の壕にあった壊れた重砲を見なかったので、重砲は志多伯に置いて来ていたのではないか。
真壁では民間人が避難していたガマ(自然壕(しぜんごう))から彼らを追い出した後、壕として使った。ガマには服などいろんなものが置いてあった。
真壁に来てからは、毎日出る戦死者の埋葬をするのが大変だった。診療室も真壁に移動してきていた。
また、アメリカの迫撃砲(はくげきほう)で与座岳(よざだけ)(現 糸満市)の観測所までの電話線が切れて通信不能になることがあったので、電線がどこで切れているかを調べたり、補修したりしたが、これが一番怖かった。電線は畑の上を通っているので、隠れるところがなかった。与座岳に行くときには新垣(あらかき)(現 糸満市)の集落を通り、坂道を伝っていった。
ある日、任務を終えたあと、与座岳の中腹(ちゅうふく)あたりで至近弾(しきんだん)をくらって逃げた。慌てて隠れたのがソテツの陰だった。ソテツは弾(たま)よけにはならないけれど、溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴(つか)む心境でソテツのそばに隠れた。近くに煙があがっているので見ると、迫撃砲のとても大きな破片が飛んできていて、近くの草むらが燃えていた。私たちは至近弾の下にいたから助かったのかもしれない。弾から遠い場所にいると飛び散った破片を受けていたかもしれない。私は無傷で、兵隊も友達も誰もケガをしていなかった。「何の役にも立たない(と思っていた)ソテツに助けられたなぁ」と笑った。

■自決(じけつ)を試(こころ)みる
6月19日の夜、野戦重砲兵第一連隊は斬り込み(きりこみ)のために3つの隊に編成され、隊ごとに壕を出た ※16。
野戦重砲兵第一連隊に配属された一中生のうち、この日までに1人は亡くなっていたが、私を含め26人は生きていた。しかし、20日、21日の2日間で13人が亡くなっている。この短期間でこれだけの犠牲(ぎせい)を生む方法を取ったことは、なんといっても軍の責任だと思う。
私が配属された隊は、軍の兵隊6人、一中生12人、防衛隊も入れて50~60人くらいで斬り込み(きりこみ)に出た ※17。しかし兵隊たちは、壕から出て、米須(こめす)(現 糸満市)の集落が見えるワイトゥイ(岩の切り通しの道)のところで逃げてしまった ※18。彼らは北部に行って徹底抗戦(てっていこうせん)するのだと言っていた。
夜も明けるから早く壕を探さないと大変だということで、5、6人くらいしか入らないような小さな壕に一中生12人がぎゅうぎゅう詰めで入った。
午後2時頃、アメリカ兵が来ているのが見えた。それから手りゅう弾を2発投げ込まれ、3人が即死(そくし)し、1人がケガを負った。5、6人だけで入っていたら死んでしまうところを、(12人いたことで)入り口にいた3人が弾をくい止め、その奥のほうはみんな助かった。
午後3時、4時頃、「もうダメだ」と、1人がどうするか(自決の覚悟を決めるか)と提案した。みんな覚悟を決めると賛成(さんせい)し、思い出にタバコでも吸おうということになった。タバコは天皇陛下からの恩賜(おんし)のタバコだった。学生なのでタバコは本来は禁止されていたのだろうが、先生たちが「恩賜のタバコ」だとして配っていたので、黙認されていたのだろう。タバコを吸うウーマクー(腕白)がいたので火はあった。
死のうと覚悟を決めて、今生(こんじょう)の思い出にタバコを吸ったが、初めてなので吸えなかった。咳き込んで顔が真っ赤になっている人もいて、おかしくてみんなで腹の底から笑った。笑い声が出たので、アメリカ兵が来ようがへっちゃらだという気持ちになった。おかげで、暗いジメジメした気持ちから晴れやかな気持ちになった。自決しようと決めた時より朗(ほが)らかになり、死ぬ前の思い出ができたと思った。
斬り込み(きりこみ)に出発する2時間前に、1人2発ずつ、缶詰(かんづめ)に入った手製(てせい)の手りゅう弾をもらっていた。「1・2・3」と掛け声(かけごえ)をして信管(しんかん)を抜いたが、1つも爆発しなかった。人の運というのは不思議(ふしぎ)なもの。死にたくないと思う人達は死んでしまうのに、こっちは死のうとしても死ねない。

■摩文仁へ向かう
その後、12人中3人は亡くなってしまっていたので、残った9人で一緒に摩文仁に出ようと相談し、摩文仁の崖の下の海岸へ避難した。食料を探さないといけなかったが、(ひとまず)摩文仁の海岸線に出たら水はたくさんあるから、というのが理由だった。
私は小学校5、6年生の時に遠足で2回糸満(いとまん)に行ったことがあった。当時の担任が高嶺(たかみね)・大里(おおざと)(現 糸満市)出身の山城(やましろ)という先生で、この先生のクラスだけ、米須(こめす)、小波蔵(こはぐら)(現 糸満市)を通って糸満に遠足をしたので、(私には糸満の)土地勘(とちかん)があった。また、米須に自分の親戚もいて、小学校2年か3年の頃に葬式に行った記憶もあった。
ケガをしていた子は真玉橋(まだんばし)(現 豊見城市)出身で、タバコを吸っていた照屋君は北谷(ちゃたん)出身だった。2人は途中ではぐれたが、彼らは土地勘がなかったせいではぐれてしまったのではないか。他にも数人が途中でいなくなってしまい、摩文仁のワイトゥイ(岩の切り通しの道)を越えて、海岸まで行ったときには4人になっていた。私以外の3人は、歩いてギーザバンタから港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)に抜けていこうと相談していた。私は親も防衛隊に出ているし、いとこも勤皇隊でケガをしていると聞いていたので「ここで待つ」と告げ、1人だけ残った。

■捕虜(ほりょ)になる
その後、出会った人たちと8人でグループをつくり、安里(あさと)(現 八重瀬町)辺りのゴルフ場のところまで斬り込み(きりこみ)に行ったが、アメリカ兵がいなかったので戻った。ちょうど現在の平和の礎(いしじ)の東側、外国人の名前が刻銘されている礎がある辺りの海が見えるところに、井戸のように下に深くなった自然壕のようなものがあり、ハシゴがかかっていたのでそこを降りて、元の場所に帰った。
19日の晩から食事をしていなかったので、翌日から2、3人一組になって食べ物探しに出た。雑嚢(ざつのう)(肩からかける布製のカバン)を枕にして戦死している人がいたので、手を合わせておわびをし、雑嚢を開けると乾麺包(かんめんぽう)があった。喜んだが、カビが生えていた。それを潮水で洗って食べたが、その3、4日後、屋嘉(やか)(現 金武(きん)町)に連れて行かれていた頃に下痢(げり)をした。ひどい目に遭った。
斬り込み(きりこみ)に行った2、3日後、アメリカ軍の捜索隊(そうさくたい)が来た。私と一緒にいた兵隊たちの中に、陸軍の野戦重砲何連隊か、そこの副官(ふくかん)をしていたというワタナベという人 ※19 がいて、その人に「君たちは日本の国を立て直す大きな使命があるから、生き残って国のために尽(つ)くしなさい」と言われた。「今さら国のために」と思ったが、「子孫のためにも、新しい日本のためにもぜひ生き残りなさい」と説得された。ワタナベ中尉(ちゅうい)と下士官(かしかん)2人(曹長(そうちょう)か軍曹(ぐんそう)だったと思う)は50歳近い人達だったので、「自分たちは出ない。若い者は早く出て行け」と、僕らを説得して壕から出した。
海岸に出て、潮水があるところまで移動して2、3人で手を洗っていたら、ドカーンと爆発音があがった。私たちを説得した3人は自決していた。
その後、私は現在の平和の礎があるところの東側から歩き、韓国人慰霊塔が建っているあたりに停まっていたGMC(アメリカ軍のトラック)に乗せられた。GMCには20人以上は乗っていたのではないか。兵隊が多かったように思う。

■ハワイ・サンフランシスコへ送られる
摩文仁から玉城村仲村渠二区(現 琉球ゴルフ倶楽部)の上江洲口(イージグチ)東側の広場まで連れていかれ、そこで降ろされた。午前11時を過ぎていた頃だと思う。そこでCレーションかKレーションを1個ずつ支給されて昼食を取った。自分の故郷(ふるさと)なので、自宅の畑も見えた。草がボーボーと生えているので境はわからなかったが、「あの近辺だ」というのはわかった。
上江洲口で1時間くらい休んだ後、屋嘉(やか)(現 金武町)に連れて行かれた。屋嘉で10日ほどいたと思うが、その間に尋問(じんもん)はされなかった。その後、ハワイに連れて行かれた。
沖縄からハワイへ連れて行かれた捕虜(ほりょ)は3000人ぐらいだったと聞いている。私がなぜその中に選ばれたのか、どういう目的があったのかはわからない。アメリカ軍の言われるがまま連れて行かれた。
北谷の飛行場(当時の北谷村には現在の嘉手納町域も含まれていた)の滑走路(かっそうろ)の片方の先端が海に面していたので、その辺りだったと思うが、そこからアメリカの輸送船に乗せられた。輸送船といっても軍用の荷物を運ぶ船で、その船倉(せんそう)に押し込められた。窓はなかった。
船内では自然と情報が流れてきて、船がハワイに行くらしいということを聞いた。ハワイに着くまで約2週間かかり、ハワイに滞在したのも2週間ほどだったと思う。その後、サンフランシスコに連れて行かれた。
ちょうど、ハワイからサンフランシスコに行く船の中で8月15日を迎えた。アメリカ兵はどんちゃん騒(さわ)ぎをし、鉄砲(てっぽう)を撃ちまくっていた。何かあったのかと思っていたが、日本が負けて彼らが喜んでいるということが伝わってきた。
のちに私も、東條英機(とうじょうひでき)(元首相)が拳銃自殺を図(はか)って倒れている様子 ※20 や、近衞文麿(このえふみまろ)(元首相)が毒薬を飲んで自殺した様子を電子(でんし)写真で見て、(日本が)本当に負けたんだと受け止めた。アメリカはその当時から発達していて日本とは違った。これ(アメリカ)と戦(イクサ)するとはヒルマサヌ(なぜ、不思議だ)、という気持ちになった。
ハワイから連れてこられた捕虜たちは、old組(年配者)とyoung組(若者)に分けられていた。私たち18歳未満はyoung manやbabyと呼ばれていた。私は詳(くわ)しい人数を知らないが、old組は100人、young組は200人いたと聞いたことがある。
サンフランシスコには8月末頃に着いたのではないか。そこではアメリカ兵部隊がいた跡地(広場もあった)に収容され、軍作業をするわけでもなく、ご飯を食べて遊んで暮らしていた。暇(ひま)だからと言ってベッドにこもって寝ようとしたら、2世(にせい)(日系2世のアメリカ兵)がまわってきて「体を壊すからだめだ、外に出て運動をしろ」と怒鳴り、全然寝かせてくれなかった。

■沖縄へ帰る
サンフランシスコでは3ヵ月弱ほど過ごし、その年の12月半ば頃に沖縄に帰ってきたと思う ※21。サンフランシスコからは、ウェーク島(とう)や北大東島のそばを通ってまっすぐ沖縄に帰ってきた ※22。沖縄ではインヌミ屋取(ヤードゥイ)に着き、そこから家に帰った。
仲村渠では、集落の上の方にはアメリカ兵が大勢いた。住民は公民館から上の方には入れず、百名に近い地域に入っていた。
私の家族は、仲村渠樋川(ヒージャー)の上の方に張られた大きなテントに入っていた。おそらく20世帯くらい入っていて、そのうち14、5世帯くらいが糸数(いとかず)の人たちだったと思う。糸数の人たちは、私が帰って来て一週間もしないうちに糸数に引き揚げ(ひきあげ)ていった。
家に帰ると父は戦死し、弟と妹の2人も亡くなっていた。聞く家庭、聞く家庭みんな、「あの人も死んだ、この人も死んだ」と、死人(しにん)ばかりが数えられる状態だった。普通の状態でなかったので、帰っても嬉しいとも思わなかったし、喜んでくれる人もいなかった。みんな自分のことで精一杯で、「帰ってきたか」というくらいだった。
家族のうち、母と弟妹3人が生き残っていた。
(大城牧子による聞き取り 2017)

■脚注
※1 現在の沖縄県立首里高等学校の前身。
※2 当時の学校で教科の1つとして行われていた軍事的な教育や訓練のこと。
※3 一里は約4キロメートル。
※4 この裏付けとなる資料を事務局は確認できていないが、神谷さんの語りをそのまま掲載した。
※5 『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』によると、「米軍機は午前6時40分には那覇市の上空に到達し、市は午前7時に空襲警報を発令、サイレンや半鐘が鳴り響いた」という(沖縄県教育庁文化財課史料編集班編『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』沖縄県教育委員会 2017 173頁)。ここでは神谷さんの語りをそのまま掲載した。
※6 神谷さんの語りをそのまま掲載したが、ここの「焼け出されていた」の意味は「空襲で住居を失い那覇に住めなくなった」ことであると考えられる。
※7 この裏付けとなる資料を事務局は確認できていないが、神谷さんの語りをそのまま掲載した。
※8 首里高等女学校にあった地下洞窟のこと(沖縄県教育庁文化財課史料編集班編『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』沖縄県教育委員会 2017 442頁)。なお前掲『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』では学務課ではなく「教学課」と表記されているが、ここでは神谷さんの語りをそのまま掲載した。
※9 なんじょうデジタルアーカイブで公開されている動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」(2004年収録)では、神谷さんは、物資を首里城下の司令部壕の入口まで運んだ、と語っている。
※10 ここでは神谷さんの語りをそのまま掲載したが、「4月下旬に貫通させた」という証言もある(兼城一編『沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(上)』高文研 2000 211~212頁)。
※11 浦添ようどれのある前田高地では、1945年4月25日から日米両軍による戦闘が始まり、5月6日にアメリカ軍が同地を制圧した。
※12 5月14日、一中の鉄血勤皇隊は第五砲兵司令部の命により、勤皇隊本部、第五砲兵司令部、独立測地第一中隊、野戦重砲兵第一連隊、独立重砲兵第百大隊、独立工兵第六十六大隊の6つに再編され、翌日に各部隊へ分散配置された(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団立ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』 2011[第2版] 51頁)。また、神谷さんによると「配属将校のもとで決められたのではないか」とのこと(大城牧子による聞き取り 2017)。
※13 野戦重砲兵第一連隊に配属された一中生の人数は、神谷さんと同じく27人だとする説(那覇市企画部市史編集室編集・発行『那覇市史 資料篇第3巻7 市民の戦時・戦後体験記1(戦時篇)』1981 313~314頁)と、25人だとする説(兼城一編『沖縄一中・鉄血勤皇隊の記録(下)』高文研 2005 353~354頁)がある。
※14 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」と玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』(玉城村役場 2004)収録の神谷さんの証言(同書256~262頁)では、遺体埋葬は真壁に移動した後の出来事として語られているが、ここでは聞き取り時(2017年)の神谷さんの語りをそのまま掲載した。
※15 神谷さんの語りをそのまま掲載したが、真壁の言い間違いである可能性がある。
※16 前掲『玉城村史 第6巻 戦時記録編』に収録されている神谷さんの証言によると、この日に多数のアメリカ軍の戦車が東に向かって進撃しているという情報を受け、部隊は夜に斬り込みをかけることを決定し、3隊に分かれて壕を出たという(同書259頁)。
※17 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」では、神谷さんは兵隊が3、4人、斬り込みに出た人数は全体で250~260人いたのではないか、と述べている。また、前掲『玉城村史 第6巻 戦時記録編』では、神谷さんは兵隊が5人、一中生は11人と述べているが(同書259頁)、ここでは2017年時点の聞き取りでお話しされていた人数を掲載した。
※18 このとき、上等兵が解散命令を出したという(前掲『玉城村史 第6巻 戦時記録編』259頁)。
※19 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」では、「第一連隊の副官というワタナベと言う方だった」、「名古屋の方とか言っていた」と語られている。
※20 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」では、新聞に掲載されていた、東條英機が病床に伏している写真をサンフランシスコに向かう船の中で見た、と語られている。
※21 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」では、11月末頃に屋嘉に着き、屋嘉で一週間ほど過ごして玉城に帰った、と語られている。
※22 前掲の動画「戦争体験証言⑱ 神谷依信氏」では、クェゼリン島で1泊し中城湾に着いたが、久高島沖で3、4日間、船で待たされた後に上陸した、と語られている。