■かつお節を口に含んでの航海
私の父(福清)は三菱の社員だったが、戦時中は主計中尉として満州に召集され、のちに南方へ移った。母(美枝)と私、妹(渥子)は當山にある父の実家に身を寄せていたが、昭和19年(1944)に3人で熊本に疎開した。
疎開のきっかけはよくわからないが、海軍司政官としてボルネオに派遣されていた母方の祖父から「沖縄も危ないから疎開に行ったほうが良い」という連絡があったということを、母が生前に話していたような気がする。祖父はボルネオで、若い兵士が伝令に行く際、「お前は若いから」と代わりに行って戦死したらしい。
母は疎開船がアメリカ軍に撃沈(げきちん)されることを覚悟の上で乗船したようだ。「船が撃沈された時には、削られて小さくなったかつお節を子どもの口に含ませておくと、海水の塩分がやわらいで(薄くなって)助かる」と母は聞いたらしく、船の甲板で私と妹の口にかつお節を含ませていたそうだ。船はアメリカ軍の潜水艦(せんすいかん)に追われたが、ジグザグ航法で逃げ切ったという。母は私と妹を抱きしめておびえながら、アメリカ軍の潜水艦の潜望鏡(せんぼうきょう)が白波を立てて走るのを見ていたそうだ。
下船地は不明だが、そこから列車で熊本に移動していた際、アメリカ軍のグラマンからの機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を受けて死傷者が出たらしい。
■熊本での疎開(そかい)生活
私たち一家は熊本県の来民(くたみ)町(現 山鹿市)の民家で間借りをすることになった。その後、昭和20年(1945)の末頃には、同じく熊本県に疎開していたおば一家(父の姉である嶺井百合子、その息子の進と邦男)と合流した。
疎開先の近くには製材所があり、乾燥させるためか多くの板が立てかけられていた。家の前には玉葱(たまねぎ)畑が広がり、一面に咲いた葱坊主(ねぎぼうず)の白くて丸い花が美しかった。
幼かったからかいじめを受けた記憶はないが、川遊びで従兄の進が近所の悪ガキたちに水中に引きずり込まれたことがあった。また、私は村の共同井戸に立小便をしたそうで、母は1日掛かりで水を汲みだしたらしい。疎開先ですごくお腹が減っていたような記憶はない。
■父の復員と沖縄戦の傷
終戦後、父が熊本に復員してきた。その後、父が宮崎県にあった三菱の鉱山に赴任することになったため、おばの家族とは別れて一家で宮崎に移った。その後も父の転勤先にあわせて家族で一緒に移り住み、私も県外の学校に進学した。私は昭和55年(1980)に沖縄に帰ってきた。
沖縄戦で、當山の家は艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で焼け落ちた。現在も残っているヒンプンには斜めに走るひび割れがあるが、これは火災の熱によるもので、わが家に残る唯一の戦争の痕跡である。
(事務局による聞き取り 2018)
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015768 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 17 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |