なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

大城清子(おおしろ きよこ)(昭和4年生まれ 玉城・仲村渠)【キーワード】やんばる疎開

■軍歌の中で育った少女時代
私が生まれた2年後の昭和6年(1931)に満州事変があり、私は6歳の頃から軍歌を覚えていた。その頃、優しい歌はなく、私は軍歌の中で育った。父は夕食後に私を抱いて軍歌を歌った。私は意味は全然分からなかったが一緒に歌って歌詞を最後まで覚えた。来客があった時は「ここは御国(おくに)を何百里~♪」と歌って聞かせたこともあった。
家の一番座には大麻や天照大神に関係するものが祀られていて、私は毎朝顔を洗ってから拝んでいた。

■戦時下の教育
玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)には奉安殿(ほうあんでん)と忠魂碑(ちゅうこんひ)があって、校門から入ると奉安殿の方向に最敬礼してから校舎に入った。
奉安殿の中を生徒が見ることはできなかったが、中には御真影(ごしんえい)と教育勅語(きょういくちょくご)が入っていた。紀元節(きげんせつ) ※1などの儀式の際、校長先生が奉安殿から何かを取り出して、前を通る時には生徒はみんな頭を下げた。また、校長先生が「朕惟(ちんおも)ふに…」と教育勅語を唱える時には、みんなかしこまって咳(せき)1つできなかった。教育勅語は小学校の高学年ぐらいにならないと意味がよくわからなかったが、学校では暗唱試験もよくさせられた。
戦死者が出ると、忠魂碑の前の運動場いっぱいに婦人会、青年会、生徒など村の人たちがみんな集まって村葬をした。
小学校(国民学校)に通っていた頃は、毎年12月8日に字(あざ)ごとに集まって、加茶原(カチャバル)にある「ナカチ」のお墓にお参りしていた。そこは日露戦争で戦死した加茶原出身の方のお墓ということだった。彼がどのように亡くなったかなどの詳しい話は聞いたことがなかった。

■百名での献穀田田植式(けんこくでんたうえしき)
昭和19年(1944)の2月に、百名で献穀田田植式が行われた。稲を植える早乙女(さおとめ)役は美人な未婚女性と決められていて、各字から1~2人ずつ選ばれたが、とても美人な人たちだった。早乙女たちが稲を植える時に「献穀田御田植式の歌」を歌う歌姫の役は、国民学校高等科1年の女生徒たちが務めた。田植式の前には合宿をして、歌に合わせて田植えをする練習をしていた。
早乙女たちは菅笠(すげがさ)に赤いたすき、脚絆(きゃはん)という大和風の格好をして、歌姫たちの「今日はめでたや玉城村の献穀田の御田植え」という歌に合わせて田植えをし、「ユラティク、ユラティク」と後ろに下がっていった。当時高等科2年生だった私は、稲刈りの時には卒業していることになるため参加せずに見学していた。
稲刈りの頃には空襲が始まっていたため、大がかりな儀式はできずに簡単に刈り取ったと思う。刈り取りは各字から選ばれた男性が行った。精米したお米は、早乙女たちがお箸で一粒一粒、欠けがないかを何日もかけて点検したと聞いた。皇居に奉納するものだから、少しでも欠けるといけないということだった。

■女子青年団での活動
私は10人きょうだいの長子で、昭和19年(1944)3月に玉城国民学校の高等科を卒業した。父は長女である私を女子師範(沖縄師範学校女子部)に入れたがっていたが、軍国少女だった私は日の丸鉢巻・もんぺ姿でお国のために奉公する軍国少女に憧れていて、内地の軍需(ぐんじゅ)工場に行くことを希望していた。親に内緒で、女子師範の受験の申し込みをしなかったため、あとから父にうんと怒られた。
高等科卒業後は仲村渠一区(なかんだかりいっく)(現 南城市)の女子青年団に入った。私はよくわからないうちに副会長にさせられた。昭和19年当時の団員は10人ほどだったと思う。同級生は私の他に4人いた。女子青年団では負傷兵の応急手当(当時は救急法と呼んでいた)、出征兵士を出した家庭での奉仕作業(主に畑作業だった)、出征兵士の見送り、竹やり訓練などをした。救急法は富里の大城幸雄医師を講師として学校に招き、けがをしたらどこを押さえる、三角巾でどこを縛る、などの指導を受けた。竹やり訓練は国民学校の頃から行われていて、指導者は青年学校の男性教員だった。今では笑い種(ぐさ)になっているが、当時は「アメリカ兵はヒージャーミー(ヤギの目)で夜は目が見えないから、その時に竹やりで刺し殺す」と教えられたのをみんな真に受け、「えいっえいっ」と言って訓練していた。

■軍の徴用(ちょうよう)と内地での奉公(ほうこう)へのあこがれ
十・十空襲以降はずっと軍の徴用に行っていた。村役場を通じて軍への徴用命令が来て、小禄(おろく)と読谷(よみたん)の飛行場建設や、南風原(はえばる)陸軍病院壕の壕掘りに参加した。女子の作業は土や石の運び出しが中心だった。どの場所も裸足(はだし)で歩いて行き、2週間ほど、現地の民家の一番座に泊まり込みながら作業をした。
休憩時間には、日本兵も一緒に「勝利の日まで」の軍歌を歌った。戦争に勝つために働いていたし、日本が負けるとは思っていなかったので、この頃はまだ楽しかった。作業が難儀(なんぎ)だとは全然思わなかったし、「自分の体は国のためにある」と本当に思っていた。
私は内地での奉公を夢見て女子挺身(ていしん)隊にも入った。だけど、当時は多くの船がアメリカ軍の艦船に撃沈(げきちん)されていたことと、祖母の面倒を見る人がいなくなるということで、父親に反対されて内地には渡れなかった。内地に行く前の那覇での研修も受けさせてもらえなかった。

■戦前の婦人会と村民の戦争協力
戦前の仲村渠一区の婦人会の会長は学校教員の喜名和子先生だった。当時の弁当は芋が2つだったが、喜名先生は「これでは栄養が不足する。将来は皆兵隊になるというのに、これでは兵隊になる力もないよ」と言って、婦人会員を集めて栄養のある弁当を作る講習会を開いた。「芋は皮をむいてから弁当箱に入れましょう、きな粉をふりかけましょう、カチューグヮー(かつお節)を炒(い)ってふりかけましょう。おかずも漬物にして、油でちょっと炒めたら良い弁当になるよ」と、一生懸命に指導していた。
そのほか、婦人会の人たちが出征兵士の見送りをしたり、エプロンやたすきをかけて、戦死者の出た家庭の弔問に行ったりしていたのを見たことがある。また、玉城に駐屯していた部隊の隊長が、炊事やいろいろな手伝いを婦人会に指示していた。
富里(ふさと)(現 南城市)の嶺井百合子さんと、もう1人の先生で富里の公民館に託児所を開設し、2人で運営していた。託児所には女学校の生徒たちも手伝いに来ていた。
各家庭では各自、供出のため、鉄鍋などの鉄製品を公民館かどこかに持って行ったこともあった。

■沖縄戦前夜の大城家
昭和19年(1944)に母と弟妹たちが熊本に疎開してからは、わが家には父(役場勤めをしていた)、父方の祖母(当時70歳を過ぎていた)、私の3人が残っていた。
夏に玉城に来ていた武(たけ)部隊は、わが家には駐屯せずテント住まいだった。しかし12月に石三五九六部隊が来てからは、瓦葺(かわらぶ)きの家だったわが家に大勢の兵隊が駐屯するようになった。家の一番座、二番座、裏座に兵隊たちが入ったため、私達3人は台所で寝泊まりするようになった。わが家に宿泊していた兵士の中で、戦後生き残った2、3人の方とは交流した。

■やんばるへの疎開と帰村
沖縄が戦場になるということで、「南部の人たちはみんなやんばるに疎開しなさい」という命令が出たが、多くの人は行きたがらなかった。父は役場の職員なのでみんなに模範(もはん)を示さないといけないということで、私に「おばぁを連れてやんばるに行け」と言った。最初は「おばぁを連れてやんばるに行けば逃げるみたいじゃないか?私はこっちでお国のために働く」と言ってうんと反抗したが、父に「必ず行け」とむりやり行かされた。祖母も70歳を超していたので1人では行けなかった。祖母は戦後すぐにマラリアで亡くなったが、祖母を連れて行ったおかげで私は生きのびた ※2。
終戦後、疎開していたやんばるからはいったん船越(ふなこし)収容所に移動させられた。私はおばぁが下田(しもだ)(現 南城市)にいた ※3 ので、その日のうちにすぐ仲村渠の家に帰れた。
他の人たちは船越で1~2泊してから自分のシマに帰っていたが、当時は立ち入り禁止で帰れない区域も多かった。その頃の船越は、収容所といってもテントが張ってあるだけだった。

■終戦後の気持ち
女子青年団の同級生4人は玉城に残り、アメリカ軍上陸後には軍に協力して救護班として活動した。彼女達は、傷ついた兵隊を摩文仁(現 糸満市)まで担架で運ぶ途中に爆撃を受けて亡くなってしまったと聞いた。私は自分だけ安全なところに行って申し訳なく思った。
8月15日に終戦したということは、情報網もなかったのではっきり知らなかったが、どこかで「日本が負けたよ」と聞いても、まさかとしか思わなかった。いつか日本がまた勝って沖縄を助けに来てくれる、それまで辛抱して待っておこうという気持ちがあったので、軍国主義の思想を変えていくのが大変だった。
戦前の教育は間違っていたと思うが、昭和天皇のことは心から尊敬していたし、それは戦前も戦後も変わらない。悪かったのは軍部で、天皇は戦争を最後には終わらせたし、大変苦労をなさったと思う。

■戦火の中でまもられてきた百名婦人会の資料
百名婦人会(2018年に解散)の大正8年(1919)からの資料が、戦後もずっと残されてきた。沖縄戦の時には、戦前に会長をつとめていた大城マサさんが、壕を転々として避難する中で大事に持ち歩いて下さった。戦後、マサさんのお家にその資料が保管されているのを私が発見し、資料はのちに百名公民館に保管されるようになった(現在、資料の保管場所は不明) ※4。
(事務局による聞き取り 2018)

■脚注
※1 神武天皇が即位したとされる2月11日を祝った祝日のこと。四大節(新年節、紀元節、天長節、明治節)のひとつ。
※2 やんばる疎開の時の体験記は『玉城村史 第6巻 戦時記録編』251~256頁に収録されている。
※3 「下田にいたおばぁ」について、話者の母方の祖母のことなのか、親戚の女性のことなのか不明(事務局による加筆 2026)。
※4 2016年、2017年に資料を撮影した画像データがあり、南城市教育委員会文化課が所有している。2018年に事務局で再度、百名公民館の書庫を探したが資料を発見することはできなかった。