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大城 勲(おおしろ いさお)(昭和10年生まれ 玉城・前川)【キーワード】村内避難

■戦前の暮らし
私は戦前、両親と私たちきょうだい5人、祖父母とおじ夫婦の11人で暮らしていた。前川集落の住民は基本的にみんな農家で、どの家も2、3の畑を持っていた。うちも農家で乳牛も飼っていたので、食料に困ることはあまりなかった。
兵役を終えた人たちが集まって、消火活動や防空演習、軍事訓練などを指導していたのを覚えているが、当時私は子どもだったので細かいことは覚えていない。また、「焼夷弾(しょういだん)が落ちてきたら砂をかぶせて消火しなさい」と言われ、家の前には砂を盛り、バケツに水を入れておくように指導されていた。
出征(しゅっせい)兵士の送り出しやお迎えは、前川ではワイトゥイ(岩の切り通しの道)で行われていた。家の門はソテツや日の丸、旭日旗(きょくじつき)で飾られ、区民1人ひとりが旗を持って送り出しやお迎えをした。(兵役を終えて)帰ってきた兵士は稲嶺(いなみね)十字路から前川まで歩いていたが、字中(あざじゅう)が大変な歓迎ぶりだった。
〈ミーヤフス〉 ※1という家が商店を経営していたが、私はそこに祖父や父が吸うたばこを買いに行かされていた。だが、戦争直前になると、たばこはもう自由に買えなくなっていた。

■軍に校舎を取られた学校生活
前川から玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)までは徒歩では遠いので、1年生の時だけは前川にあったムラヤー(公民館)で勉強していた。
前川に軍隊が入り込んできたのは昭和19年(1944)で、部隊は武(たけ)部隊(第九師団)だった。武部隊は玉城国民学校に駐屯(ちゅうとん)し、前川の広場にも天幕(てんまく)(テント)を張って生活していた。そのうち、大きい民家にも兵隊が寝泊まりするようになった。昼間は区民も一緒に壕掘(ごうほ)り作業に駆り出されるようになった。
学校に軍が駐屯し始めてからは、校舎が使えなかったので、3年生以下は各字のエーキンチュ(金持ち)の家で勉強していた。5年生以上は強制的に軍の防空壕掘りに駆り出されていたが、私は3年生だったので働かされたことはなかった。
青年学校は現在の玉城中学校の敷地内に設置されていた。生徒は模擬鉄砲を構(かま)えて軍事訓練などをしていた。
私は学童疎開(がくどうそかい)に行くことを希望し、疎開予定者の1人になっていた。だが私がおばあっ子だったこともあり、祖母は「絶対に行かさない」と言って疎開を許さなかった。

■兵隊と寝食をともにする
(武部隊、その後の石(いし)部隊に代わって)球(たま)部隊が前川にやってきた時には相当な人数の兵隊がいて、私たちの家も宿舎になった。私たち家族はシム(台所)の方で寝ることになった。朝ごはんは兵隊と一緒に食べていた。うちは農家であまり食料に困っていなかった。乳牛も飼っていた。なので、朝食には牛乳や、黒糖(こくとう)、野菜炒めなども一緒に出していた。兵隊たちは、「私たちは他の家庭に入った兵隊よりもずっと幸せだな」という風に言っていた。
区長を通して、軍から食料供出(きょうしゅつ)の命令がくることがよくあった。私の家は、シブイ(冬瓜(とうがん))やチンクヮー(金瓜・カボチャ)などを供出していた。
1つの分隊あたり13人ほどいたと思うが、沖縄戦が始まると首里戦線(しゅりせんせん)にみんな駆り出された。後に、3人ほどしか戻ってこなかった。彼らは南部に撤退(てったい)する前の晩、私の家の防空壕に私たちと一緒に入っていた。ある兵士は「皆さんはもう捕虜(ほりょ)になった方がいいよ」と言っていた。彼は状況をわかっていたのだと思う。戦後、彼から音沙汰がないので、彼は(沖縄戦で)亡くなってしまったのかもしれない。

■最初の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)と火の海になった前川集落
学校の終業式は、昭和20年(1945)3月23日に行われたと思うが、その日、家から外れた場所にカンポウが落ちてきた。爆弾の破片は、ピカピカ黒光りしていた。直径6メートルくらいの穴ができた。空からは土や石が降ってきた。(これらが地上に衝突して)この舞い上がった石などに当たって亡くなる人も多かった。大変なことになったなと思った。
私の家の防空壕は簡単な造りだったが、家族11人が寝泊まりできるくらいの広さがあった。屋根の部分は厚みがあってわりとしっかりしていた。高さ1.2メートルほど、幅は1メートル少しあったと思う。2、3日はそこに避難していたと思う。
その後、3月26日頃だったと思うが、アメリカ軍が前川集落に、空からガソリンか何かの油を撒(ま)いて火をつけた。集落は火の海になり、小さなアリすら燃えたと思う。そのぐらいひどい燃えようだった。区民は、初めのうちは屋敷内に掘った簡易な防空壕に避難していたが、それ以降は前川樋川(ヒージャー)のところに掘っていた民間防空壕で避難生活を送るようになった。

■前川の民間防空壕へ避難
私たちも、親戚から前川樋川のところの壕に避難するよう誘われて、そこに移動した。父は防衛隊(ぼうえいたい)に取られ不在だった。
母は前川にいたら危ないかもしれないと考え、私の妹を連れて、母のおじと一緒に避難壕を探しに南部に出掛けた。しかし、母と妹は帰らぬ人となってしまった。母のおじは、母と妹の亡くなった場所を覚えていたので、戦後、母の妹と一緒にそこへ行き、収骨した。

■「もう殺される」としか思わなかった
5月下旬頃、「アメリカ軍がすぐそこまで迫っている。ここにいても危ない。捕虜になったら犬死にさせられるよ」と聞いた。それ以降、多くの人が壕を出て南部へ向かうようになった。そのせいで非常に多くの区民が命を落としてしまった。壕に留まっていればみんなアメリカ軍の捕虜になって助かったと思う。一家全滅(ぜんめつ)してしまった家も何軒かある。
私たち家族は壕に留まっていた。その後、5月29日か30日ごろ、年配の沖縄人男性が、壕の外から「出てきなさい」と声掛けをしていた。初めは警戒して出ていかなったが、アメリカ兵が壕の入口で銃を構えていたので、(出ないと銃殺されると思い)みんなで捕虜になろうと決意した。
初めてアメリカ兵を見たときは、人種も違うしヤギのような眼をしていると思って怖かった。「あいつらは人も食べるってよ」といううわさも、よく聞いていたので、捕虜になった時は「もう殺される」としか思わなかった。

■志喜屋(しきや)の収容所(しゅうようじょ)へ
捕虜になったあと、まずみんな前川のワイトゥイ(岩の切り通しの道)に集められた。それからアメリカ兵に連れられて、富名腰(ふなこし)一区(現 南城市)の焼け残っていた家〈上湧上〉に集められた。そこに着く頃にはもう夕方になっていたので、そこで1泊した。翌日は歩いて知念村(ちねんそん)(現 南城市)志喜屋(しきや)の民間人収容所へ移動させられ、そこに入れられた。
志喜屋に向かう道中にはアメリカ兵が歩哨(ほしょう)として立ち、避難民に食料を配っていた。初めは毒が入っていると思い誰も食べなかったが、1人が食べて毒が入っていないことがわかるとみんな食べ始めた。この時に初めて、捕虜になっても殺されないと実感した。
志喜屋では、私たちと一緒に捕虜になった5世帯くらいの家族とともに1つの家に住むことになった。食料の配給はあったが全然足りず、避難民数人で一緒になって、前川あたりまで芋(いも)掘りや食料収集に行っていた。アメリカ兵による婦女暴行が起きていたので、女性が芋掘りなどをしている間には、(自衛のために)見張りを立てるようにしていたようだ。収容所内の家でも、若い女性は身を守るために、床下や家の一番奥に寝かされていた。
志喜屋の収容所がいっぱいになった後、現在の宜野座村(ぎのざそん)に移動させられた人たちもいた。そこから前川に帰ってきた人たちは、「やんばるは何もなくて大変だったよ」とよく話していた。
8月15日の夜には、日本が敗戦したということでアメリカ軍が空砲を撃った。もう沖縄での戦争は終わったはずだが、また始めるのかと思ってびっくりした。

■防衛隊に取られた父の死
防衛隊に召集された父は、米須(こめす)(現 糸満市)周辺で亡くなったと聞いている。初めは志堅原(しけんばる)(現 南城市)に配属されていたようだが、その後、豊見城(とみぐすく)(現 豊見城市)の高安(たかやす)に行き、そこから米須に移動して亡くなったそうだ。このことは、父と同様に前川から召集された人から聞いた。昭和21年(1946)5月には収骨できた。収骨には祖父母と、伊江島(いえじま)の防衛に行っていたおじが行った。(収骨した場所には)父の他にも亡くなった人がいたが、父は時計をしていたので、すぐに父の骨と分かったそうだ。

■戦後の生活と戦争を経験しての思い
前川には翌年の4月か5月頃に戻った。すべて焼け野原になっていて自宅には戻れなかったので、現在の公民館の近くに小屋を建て、1ヵ月ほどそこに住んでいた。その後、元の屋敷跡に家を建てて戦後の生活を始めた。
船越にはアメリカ兵を相手にした慰安所(いあんじょ)ができていた。その女性たちを見たことがあったが、子どもたちは大人から「子どもはあそこに行くな」と言われていたので、彼女たちがどのような暮らしをしていたかはよくわからない。
両親と妹を亡くした私は祖父母に育てられた。70年が過ぎても、沖縄戦での心の傷は消えない。誰1人として同じ戦争体験をしている人はいない。亡くなった人だけが戦争の犠牲者ではないと思う。沖縄の人はみんな近い親戚を戦争で亡くしているので、県民みんなが戦争の犠牲者だと言えると思う。
私自身、長いこと戦争のことを語らなかったが、伝えないといけないという使命があるので、私は1日使ってでも沖縄戦の話をすることができる。
(中村春菜による聞き取り 2016)

■脚注
※1 本稿では、屋号は〈〉で括って表記する。