■方言札(ほうげんふだ)と竹やり訓練
戦前、私は玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)に通っていた。学校ではウチナーグチを話すことが禁止されていて、話すと方言札を首から下げなければいけなかった。家ではウチナーグチを使うが、学校では標準語を使わないといけない。「方言札をつけられないか」とみんなびくびくして、話しもできなくなった。
学校では竹やり訓練もした。アメリカ軍は機関銃を持っているのに、日本人は竹やりで一生懸命訓練をしていた。日本は馬鹿な戦争をしたものだと思う。ちなみに、のちに学童疎開(がくどうそかい)で行った大分の学校では、竹やり訓練はしなかった。
■兄の村葬
わが家では兄3人が兵隊として従軍した。長男の盛順は海軍兵として南方で戦死した。次男のセイコウは中国の戦地に行っていた。三男のセイジョウは熊本で終戦を迎えた。
盛順が亡くなった時には、たくさんの人が村の忠魂碑(ちゅうこんひ)の前に集まって村葬を行った。村葬の内容は覚えていないが、戦死者は英雄のようにとてもあがめられていた。盛順の奥さんは綺麗な着物を着て身だしなみを整えていた。村葬は盛順の時までは行われていたが、その後はあまり行われなかったと思う ※1。
■大分県へ学童疎開(がくどうそかい)
私は国民学校高等科2年生だった15歳の時に、学童疎開で大分県に行った。家族の中で学童疎開で沖縄を離れたのは私1人だけだったが、あとから兵庫県の紡績工場に勤めていた姉の光枝が、兵庫県が空襲に遭ったため大分の私の元に合流した。姉は、沖縄に帰るまで学童疎開の子どもたちとずっと一緒にいた。
私たちの船は対馬丸(つしままる)が撃沈された後の出航だったため、自分は疎開に行きたくなかったが、荷物(着替えだけだった)を先に積んでしまっていたので仕方なく出発した。私たちが乗ったのは大きな船だったが、乗船後なかなか出航しなかった。船員に「船を早く出さないのか」と聞くと、「この船の両側に護衛艦がつかないと出発できない」と言われた。護衛艦が来るまでに10日以上待たされた。その間、船の中で泣いていた子どもたちはいっぱいいた。あまりに泣くので船から降ろされ家に帰された子もいた ※2。
家ではイモばかりの食事だったので、船の中で白いご飯と昆布の佃煮(つくだに)を食べることができたのは嬉しかった。今でも忘れられないほどおいしかった。船の中では飲み水が入った一升(いっしょう)ビンをずっと持たされていた。(アメリカ軍の潜水艦が現れたという警報が出ると)甲板に上り、攻撃されたらすぐ海に飛び込むように言われていた。
船が鹿児島に着いたときはとっても嬉しかった。鹿児島では自由行動の時間が与えられたので、持っていた小遣いでいろいろなものを買って食べた。鹿児島で旅館に泊まった後、玉城国民学校の学童たちは大城先生の1班、吉元先生の2班、喜名盛敏先生の3班に分かれて、それぞれの疎開先へと向かった。私は3班で、汽車に乗って大分県の直見駅(現 佐伯市)まで行き、そこから疎開先である中野村笠掛(かさかけ)(現 佐伯市)に行った。
■笠掛(かさかけ)での生活
現地では婦人会の方々がわら草履(ぞうり)や三角のおにぎり、瀬戸物(せともの)のお椀を準備して迎えてくれた。衣類も村の人たちが寄付してくれた。笠掛に着いてからの数日間は、地元の女性たちが食事を作ってくれた。
婦人会の方々は南方のはだしの野蛮人が来ると思っていたのかもしれないが、私たちがみんな靴を履いているのを見て、わら草履をお寺のお御堂(みどう)の床下に投げ込んでいた。のちに私たちは、学校の行き帰りにこのわら草履を履いた。冬にも靴下を履かずわら草履ばかり履いた。後に草履はぼろぼろになったのでとても寒かった。あんなことは二度と繰り返したくない。
私たちは福圓寺(ふくえんじ)というお寺のお御堂に宿泊し、そこから中野国民学校に通った。地元の子どもたちとの交流もあった。学校では運動会もあった。学童疎開には炊事係の女性(稲福ツルさんという方がいたのを覚えている)も同行していたが、料理が上手だった。笠掛の隣の切畑村(きりはた)(現 佐伯市)には吉元先生が引率していた玉城の疎開学童たちがいて、山峠を越えて切畑に行ったことも何度かあった。
笠掛でのことは思い出したくない。食事は量が十分でなく、「あんたの弁当箱にはいっぱい入っている、自分のは少ない」と言って、みんなでけんかばかりしていた。シラミもいっぱいわいたので、私たち上級生が風呂場でみんなの着物をコトコト煮て洗った。どんなに煮て洗ってもまた出てくるヤクジラミだった。
笠掛は田舎だったので空襲もなく、戦争中だという感じはしなかった。長崎に原爆が落とされたという話も聞いたが、子どもなのでよくわからず、何も感じなかった。いつも戦争に「勝つ、勝つ」と思っていたので、日本の敗戦を聞いた時にはみんなで泣いた覚えがある。
■笠掛の農家に預けられる
国民学校を卒業した学童は、国からの学童疎開者のための配給(お米など)を受けることができなかった。そのため私は、笠掛の稲葉さんという農家のおじいさんが頼みに来ていたこともあり、卒業後は福圓寺を出て、稲葉家に子守として預けられた。稲葉家にはおじいさん、娘のケサコさん(ケサ姉と呼んでいた)、ケサコさんの息子のテツヤ(当時3、4歳)がいた(ケサコさんの夫は従軍していて不在だった)。稲葉家には沖縄に帰るまでお世話になったが、そこに行ってからはご飯もいっぱい食べることができて嬉しかった。なお、笠掛に疎開していた学童のうち、大阪などの本土に親やきょうだいが来ていて引き取られていった子もいた。
稲葉家とは戦後もずっと交流が続いている。テツヤさんは沖縄に来たこともあるし、毎年梅やお米を送ってきてくれる。私は送ってくれた梅で梅干を漬けている。
終戦の翌年、軍医として従軍していた玉城村富里(ふさと)(現 南城市)の大城幸隆先生が復員し、家族が疎開している笠掛に引き揚げてきた。その時に村の各家庭を回って「ありがとうございました、みんなお世話になりました」とあいさつに来ていた。私のいた稲葉家にも来てくれたが、その時の面影が忘れられない。
■佐世保から沖縄へ引揚(ひきあ)げ
沖縄に帰るときには国からお金をもらえた。沖縄は玉砕(ぎょくさい)して何もないと思っていたので、お椀などいろいろなものを買った。
その後、私たちは長崎の佐世保港から船に乗って沖縄に帰った。沖縄に帰れるということで嬉しい気持ちでいっぱいだったが、「お母さんやきょうだいは元気かな」という不安もあった。
船から降りると、アメリカの黒人兵にみんな頭からDDTをまかれた。私たちはインヌミ屋取(ヤードゥイ)(現 沖縄市) ※3に収容され、いろいろな話を聞かされてから、トラックに乗せられて玉城(現 南城市)に帰ってきた。トラックで「家あるかな、無いかなー」と見ていたら喜名先生の家が見えて、先生は「あぁ、ワッター家(ヤ)ー残トゥーサー」と言ってとっても喜んでいた。
ところが、集落に帰ってもだれもいない。「みんな死んだのかな」と不安になったが、小学校の運動場まで行くとちょうど運動会をしていてみんなそこにいた。祖母のウタだけは戦後すぐに、食べるものがなくて栄養失調で亡くなってしまったそうだが、ほかの家族は生きていたので本当に嬉しかった。
わが家は戦争で焼けてしまい、家があった場所にテントが建てられていた。戦後の玉城は食べ物がなく、国も食料をくれなかった。スーチチバー(ソテツの実)の根っこを掘り、ターチンメー(澱粉(でんぷん)のかすを煮た料理)を作って食べたこともあった。のちに私は喜名先生の奥さんに声をかけられ、長い間喜名家の家政婦として働いた。
(中村春菜・事務局による聞き取り 2016、事務局による聞き取り 2018)
■脚注
※1 平和の礎刻銘者名簿(沖縄県平和援護・男女参画課より2018年提供)によると、盛順さんの戦死年は昭和17年(1942)である。
※2 玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』(玉城村役場 2004)に収録されている、学童疎開引率教員の喜名盛敏の手記によると、稲福さんが参加した玉城国民学校の第2陣学童疎開の一行は1944年8月20日に那覇港へ向かうが、疎開船が撃沈したという報せを受けたためいったん玉城に戻って2週間ほど待機したのち、再び那覇港に集まってその日に出港した。しかし船は船団を組むために本部町の渡久地港に向かい、そこで11日間停泊していたという(前掲『玉城村史 第6巻 戦時記録編』921~922頁)。稲福さんが話しているのは、この渡久地港でのことだと思われる。
※3 引率の喜名盛敏や、同じ疎開学童だった大城善良の証言では、収容されたのは久場崎収容所(中城村)だとされている(前掲『玉城村史 第6巻戦時記録編』932、938頁)。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015765 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 6-8 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |