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解説 |
スクラップブーム期の那覇港の様子。 沖縄戦の後、沖縄の陸と海に日米あわせて約250万トンの兵器類の残骸が散乱していた。モーラー(英国系の香港の会社)が佐敷場天に戦後初の酸素工場を設置し、与那原・中城・勝連にいたる中城湾一帯でスクラップ処理作業を開始。戦車の胴体・キャタピラ、トラック、銃砲、沈船の船体などを高温で切断・解体した。モーラーが1959年頃までの在沖期間中に香港に送ったスクラップは約20万トンにのぼる。当時、佐敷海岸沿いには、戦車やトラックがうず高く積まれていた。 なお、スクラップの中でも真鍮の薬莢や銅線などの非クズは、台湾や香港で高価に売れたので、ヤミ商人により、糸満や与那原から密輸されていた。 1950年、在沖米軍司令部は、沖縄全域のスクラップ収集を目的とした国際入札を行った。入札参加企業には2グループあった。1つは八幡製鉄・富士製鉄・日本鋼管の3社。もう1つは川崎製鉄・神戸製鋼・住友金属を含む5社。両グループともに入札を現地入札者に委託。前者は新生産業に、後者はE.G.グリフス社(米国系)に委託した。新生産業は海上スクラップを、E.G.グリフス社は陸上スクラップを落札した。両社合わせて約40万トンを日本本土へ積み出した。 1950年に勃発した朝鮮戦争による特需、そして1955年・1956年の神武景気が、日本経済を活性化させ、鉄鋼需要も大幅に伸ばした。それが、日本の鉄鋼企業の入札参加の理由であった。 1953年、琉球経済への援助策として、スクラップの処分権が琉球政府(1952年誕生)に認められた。これにより、沖縄の業者が納入金を政府に納めることでスクラップを輸出できるようになった。輸出業者は70余となり、海中のスクラップおよび住宅・山野・チリ捨て場などの陸上のスクラップは、総ざらいされた。 1956年のスクラップの輸出額は、鉄・非鉄双方で1,100万トンを突破し、輸出総額の56%となった(砂糖を抜いて1位)。 1957年には陸上スクラップは取りつくされた。海上のスクラップに期待が集中したが、米国の布令により、その収集には厳しい制限が設けられた。航路の障害となる沈船は琉球政府を通して払い下げられたが、深海にあるものには触れられなくなった。しかし、布令を無視し沈船を引き揚げる者はいた。かれらの中には事故を起こす者もいた(例:1957年6月30日阿嘉島沖の沈船が爆発し約30人が死亡。1958年4月17日読谷村都屋沖で沈船が爆発し約40人が死亡)。 1957年後半、日本本土は不況(なべ底景気)に入り、以降、沖縄から本土へのスクラップ輸出は下降線をたどるようになった。 【参考文献】 沖縄タイムス社編1973『沖縄の証言』下 沖縄タイムス社pp.66-72 湧上洋さん(玉城船越在住)による撮影・寄贈。 撮影年月日不明。 |
大分類 | 写真 |
小分類 | デジタルデータ |
資料コード | 000000 |
内容コード | C000012672 |
点数 | 1 |
資料群 | 湧上洋コレクション |
資料タイトル | ー |
年代区分 | 1945~49年1950年代 |
キーワード | 歴史戦争ほかの産業労働 |
場所 | 市外-那覇市 |
撮影年月日 | ー |
責任表示 | 南城市教育委員会 |
出典 | ー |
情報登録日 | 2024/10/28 |