解説 |
『南城市の御嶽』掲載資料。 知念グスクの西120mほどの所にある井泉。グスクの北側石垣の側から、所々に石畳の名残りらしい石が顔をだす下り坂を下りる。雨降りの後は滑りやすくなる道である。この道を下りきると井泉である。井泉の周囲はコンクリート敷きで、湧水地と水溜めの左右と後背部はコンクリートで壁が造られ、コンクリートの平たい屋根(幅480cm、奥行き218cm、高さは目測で150cm)が付いている。中央部に柱が立っている。この平屋の後方の岩(幅110cm、高さ73cm)の前にコンクリートで壇を設け、その上に切り石の香炉を4つ置いている。手前に置かれた香炉が最も大きい(幅30.5cm、奥行き19.5cm、高さ24cm)。水は現在も湧き出ており、灌漑用の導水管(ホース)も見える。井泉に向かって右側の畑地の一部は田芋などが植え付けられていた。『中山世鑑』巻1の冒頭「琉球開闢之事」に「阿摩美久、天ヘノボリ、五穀ノ種子ヲ乞下リ、麦粟菽黍の、数種ヲバ、初テ久高島ニゾ蒔給、稲ヲバ、知念大川ノ後、又玉城ヲケミゾニゾ藝給」とあり、『由来記』巻1-35「行幸于久高島」にも「阿摩美久上天乞下五穀之種子而、麦・粟・菽・黍・数種、始蒔於久高島、芸稲於知念・玉城也」とある。『中山世鑑』の記事には「知念大川ノ後」と地点がより細かに示されている。この地がウファカルである。いずれにせよ、17世紀中葉と18世紀初頭に王府で編纂された史書に「知念大川」が稲作発祥に関わる地という認識が示されているのである。また『由来記』巻13-331に「大川(神名:松稲川ミネノ御イベ)」とあり、①4月、稲のミシキヨマの時に当職を派遣して祭祀を行う、②旱の時には国王が行幸して祭礼が行われることが記され、それらの時の供物も挙げられている。現在は村の祭祀はないが、村内の各門中で1月1日に、区内の各門中により初水御願が行われている。また、沖縄各地から東御廻りの巡拝の人々などが訪れ、祭祀を行っている。※拝所のなかには、私有地に位置するものもあります。無許可での立ち入りや迷惑行為は慎んでいただくようにお願いします。 |