解説 |
『南城市の御嶽』掲載資料。 字知念の集落内にある神屋。字具志堅から字知念に向かう国道331号の右手側に位置している。字知念には傾斜面が多いが、山側の地の高低差は特に大きくなっている。国道からみて下側(海側、南東側)に大屋があるが、国道と大屋との間には階段が築かれている。その階段を下りてすぐ左手に「大屋」と書いた標柱が建っている。標柱の傍らの建物が大屋の拝屋であるが、入り口は拝屋のある民家の門である。この門を入って左側に拝屋は位置している。拝屋(400cm×400cm、高さ250cm)は正面奥の外壁が粟石造りで、左右と全面はコンクリートブロック造りである。正面入り口には一間幅のアルミサッシ枠のガラス戸があり、軒下の踏み石を利用して出入りする。左側はやはり一間分、雨戸で開閉できるようになっているが、右手は壁が塗り込められており、窓などはない。室内右のコンクリート壁に「昭和三十四年/一九五九年/十月十日落成」と刻み、上から墨らしきもので重ね書きしている(一部消失)。拝屋の内部奥所中央に大きく神棚を設け(幅170cm)、向かって右には床の間風の拝所、左には三つ石が覆われるほどに灰を積み上げた火ヌ神がある。神棚は2段になっており(左側の部分は一段のみ。2段の部分との間に板で間仕切りしてある)、2段目(最上段)の中央には木製台座に立てた朱塗り(色はくすんでいる)の板1枚(目測で30cm×30cm)の位牌がある。その中央に「帰真知念按司女子■神」と金箔文字で記されている。この左に青色陶器の花生け3個、右に同花生け1個がある。この位牌の右には高さ55cm、奥行き20cm(いずれも目測)で前方に階段、上に屋根を載せた位牌がある。位牌の背板中央に金箔文字で「帰真知念按司神位」とある。「知念按司」とは『遺老説伝』95頁にある「内間大親」の後の名前で、「知念大屋の先祖で当家から知念村の根人が出ていて、知念城の祭祀をとりしきっている」という。その下の段には右から青色陶製香炉(大)、同(小)、同(中)、同(小)、筒形白色陶製香炉(小)、同(小)、と6つの香炉が並び、それぞれの前に、右に青色陶製湯飲みと左にコップで一組とする具足が配置されている。板で仕切られた一段のみの部分には、青色陶製花生け、その前にコップ、一番左に盃が置いてある。これらは「帰真」「神位」と記された位牌、青色の具足が配置されていることから、沖縄で言ういわゆる「仏壇」である。すなわち、「知念按司」を祀る末裔の守る拝所ということになる。「知念按司神位」とある厨子の右には蓋付きの木箱がある。刀を収めた箱である。箱の大きさは長さ76cm、幅8.5cm、高さ10cmである。刀の刀身は錆びており、束は素木の状態になっており、塗があったのかも分からない。刀身を挟み込む部分は割れている。刀身の長さ61cm、身幅2.5cm、束の部分の長さ18cmである。大屋には知念ノロのものと伝わる勾玉も保管されており、この刀と勾玉はウマチーの時に知念グスクでの祭祀に飾られるという。右の床の間んは「淳煕二年/福禄寿/晦翁」の文字が彫り込まれた縦書きの扁(縦125cm、横41cm、厚さ2cm)がある。首里王府からの賜り物という。淳煕[じゅんき]2年は西暦1175年で、この時代に沖縄で制作されたとは考えがたいが、中国からの舶来の品と考えるべきか。この篇については「上杉県令巡回日誌」の中に、「知念番所」の床の間に飾られていたことが記されている。現在は、2月15日の二月ウマチー、4月のアブシバレーの前日のミチシマ、5月14日の五月ウマチーの三日祟ベ[ンチャタカビ]、6月14日の六月ウマチーの三日祟ベ、同24日のアミシヌ御願が行われている。現在、五月ウマチー、六月ウマチーは行われていない。※拝所のなかには、私有地に位置するものもあります。無許可での立ち入りや迷惑行為は慎んでいただくようにお願いします。 |