キャプション | 埋め立て前の塩田跡 ※撮影時期不明 |
---|---|
解説 |
冨祖崎公民館所蔵。奥の木はガジュマルであり、この塩田跡が埋め立てられたことで冨祖崎公園が作られた。この頃にはもう製塩業は行われていなかったが、後ろにサバニがあることから漁も少し行われていたことがわかった。【調査・執筆:榊原愛(琉球大学 琉球民俗学ゼミ)】 戦後の冨祖崎で、すでに廃止になった塩田の写真。楚南さん(『字誌 冨祖崎』編集委員長)によると、写真中央の男性は製塩業を行なっているわけではない。また、写真左奥の舟は漁をするためのくり舟(サバニ)である。 沖縄戦前、冨祖崎では36世帯(全世帯の3分の1)が製塩業に従事していた。楚南さんによれば、戦前の塩田は元々船越の川崎家の土地だった。それを戦後、冨祖崎が「糸数嘉平」(川崎家次男の嫁のいとこ、元々川崎姓だったが、戦後は糸数姓を名乗る)から塩田を買い取った。戦後は字の経営で、2,000坪くらいの塩田においておよそ1年半も製塩業が継続された。戦後の住まい作りで屋根を葺くのに必要な茅を他の字から分けてもらい、そのお礼として塩を作って配っていたためである。その後1948年に製塩業は廃止となった。現在、塩田は埋め立てられ冨祖崎陸上競技場と冨祖崎球場がそこに建設されている。【調査・執筆:澤田微羽(琉球大学 琉球民俗学ゼミ)】 |
大分類 | 写真 |
小分類 | デジタルデータ |
資料コード | 000000 |
内容コード | C000006742 |
点数 | 1 |
資料群 | 令和5年度古写真トークイベント |
資料タイトル | ー |
年代区分 | ー |
キーワード | 風景人物自然ほかの産業 |
場所 | 佐敷-冨祖崎 |
撮影年月日 | ー |
責任表示 | 南城市教育委員会 |
出典 | ー |
情報登録日 | 2023/10/27 |