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創意工夫の養鶏家 見奈須フーズ設立まで

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創意工夫の養鶏家 見奈須フーズ設立まで
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【南城市の戦後史 産業編】
オーラルヒストリー

調査執筆者・南城市教育委員会文化課 呉屋好咲

宮城徳次郎氏(2024年11月27日 平良公民館にて筆者撮影。)

1.はじめに

本レポートでは、卵および卵の加工品の販売を行う有限会社見奈須フーズ(以下、(有)見奈須フーズ)の沿革を報告する。筆者は、2024年10月に、同社の創始者・宮城徳次郎氏(以下、徳次郎氏)から、養鶏業を始める前から現在に至るまでの経緯について話を聞いた。徳次郎氏は同社の創業者で、様々な創意工夫を行い、同社を南城市の代表的な養鶏企業にまで育てた。本レポートでは、同社の概要とともに、徳次郎氏が戦後歩んできた創意工夫の歴史を明らかにする。

2.現在の見奈須フーズ※1

<主な事業内容>
・養鶏場での卵の生産。
・卵および卵の加工品の販売。
・飼育羽数:成鶏100,000羽、雛25,000羽。

<主な取引先>
・株式会社 JAおきなわAコープ
・株式会社 丸大
・フレッシュプラザユニオン(株式会社 野嵩商会)
・株式会社 沖縄ファミリーマート

<所在地>
・南城市大里字平良2388

<代表者>
・宮城哲治

※1 参照ウェブサイト:見奈須フーズ 会社概要 https://minasu.co.jp/about.html(2024年10月25日閲覧)

3.宮城徳次郎氏の略歴

1932年4月1日、大里村(現南城市)字平良で生まれる。
1944年8月、家族で熊本県に疎開する。
1946年12月、疎開先の熊本県から平良区に戻る。以降、父の農業を手伝う。
1949年、具志川村(現うるま市)天願にあったQM(米軍補給部隊)で、住み込みで働くようになる。
1950年、重機運転手として建設業に従事するようになる(18歳)。当時、軍工事ブームの到来により、重機運転手の需要が高くなっていた※2 。以後、転職を繰り返す(ナオトミ建設、サンコウ建設、南洋土建株式会社)。
1954年、結婚(22歳)。
1962年、養鶏を始める。50羽からスタート※3(30歳)。
1963年、100羽に増羽する。
1965年、300羽に増羽する。
1967~1970年、1,000羽に増羽する。
1975年、養鶏場を移動し、5,000羽に増羽する。
1975年、現在の場所で拡張して、10,000羽に増羽する。
1997年、(有)見奈須フーズを創設。100,000羽に増羽する。
2002年、卵の自動販売機1号機を養鶏場前に設置。以降、設置場所を増やし、2005年には6号機を設置。
2011年、直売店「らんらん家」を与那原町東浜にオープン。

※2 1960年6月朝鮮戦争が勃発。同年11月、シーツ長官は2千万ドルの軍工事の着手を発表。この年の末から数年間、軍工事ブームとなった。通訳者とともにドライバーの需要が高まった。参考文献:山城善三・佐久田繁編1983『沖縄事始め・世相史事典』月刊沖縄社pp.618-619
※3 見奈須フーズHPの沿革には「昭和40年 会長 宮城 徳次郎が30羽から養鶏を創める」とある。このほかにも同沿革と聞き取りで得た情報に幾つか相違があるが、本レポートではすべて徳次郎氏の発言を尊重した。

4.養鶏業を始める 

養鶏を始めたきっかけ
・徳次郎氏は、自分自身の弁当のおかずに、卵を必要としていた。
・しかし、近所に卵を販売する店がなかったので、彼の妻が与那原まで買いに行っていた。
・当時は現在とは違って卵容器がなかったため、ハンカチで包まれていただけの卵は、買い物の帰りに割れてしまうことがあった。
・徳次郎氏の住む平良区では、多くの家庭で鶏を飼っていたが、徳次郎氏の家庭では飼っていなかった。
・妻は、これらの状況をみて、夫に「少し鶏を飼ってみたら」と提案した。
・妻の提案がきっかけとなり、徳次郎氏は鶏を50羽購入し、自宅で飼うことにした。

事業開始
・徳次郎氏は、1962年(30歳)、養鶏を始めた。
・自宅の空き地に箱庭を作って鶏を育てた。
・鶏の雛は、専門業者※4から購入した。
・徳次郎氏は、しばらく鶏を育てているうちに、「将来、鶏を増やしたら仕事になるかもしれないな、生活できるな」と感じた。

養鶏の仕事をどのようにして学んだか
・養鶏のことは近所の人から学んだ。飼育している様子を見たり、話を聞いたりして養鶏の知識を習得した。
・東風平にある養鶏場を視察したこともあった。

販売について
・卵は、鶏が産卵したその日のうちに収穫し、商店に出荷した。
・主な販売地域は、平良区と、大里村古堅区であった。
・平良区や古堅区だけで売りさばけないときは、与那原に出荷することもあった。

餌の購入場所
・南風原町の津嘉山にある飼料会社で買った。

徳次郎さんの役割
・事業拡大を視野に入れ、支出と収入について細かく把握し、経営の安定に努めた。各工程のコスト計算を行うだけでなく、売上金の管理もひとりで行っていた。

家族の協力
・徳次郎氏の妻が、卵の収穫作業と出荷作業を担当した。
・徳次郎氏の両親が、収穫された卵の汚れを拭きとる作業を担当した。

※4 徳次郎氏曰く、「南風原宮城から首里に向かって登っていく道の途中にあった。おそらく首里の区域内」とのこと。 

5.養鶏業を本業にする

一足の草鞋(わらじ)へ
・1965年、徳次郎氏が33歳のとき、飼養している鶏が300羽を超えた。徳次郎氏は、養鶏を本業とするため、南洋土建株式会社を退職した。

養鶏場の追加
・鶏が100羽を超えた頃、徳次郎氏の自宅の空き地だけでは鶏を飼育することが難しくなった。
・そこで、徳次郎氏は自宅近くの土地を買い、そこでも養鶏を行うようになった。

増羽と養鶏場拡大
・増羽の結果、羽数は1000に至った。それ以上増羽するスペースはなくなった。
・徳次郎氏は、自宅から300m離れた先祖代々の土地(当時はキビ畑)を利用して、養鶏場を拡大した。

配餌器の導入 
・鶏が1000羽を超えたころから、餌やりにかかる負担が大きくなった(時間的余裕がなくなってきた)。
・徳次郎氏は、配餌器を購入し、作業効率を上げることに成功した。

従業員の雇用
・徳次郎氏は、羽数が5000になった頃、従業員を2人雇った。

緻密な計算に基づく事業展開
・徳次郎氏は、常に緻密な計算に基づき、事業を推進していた。以下はその事例である。
・鶏の産卵率を算出することにより、生産効率を把握することができた。
・鶏舎の回転率を上げるためには、「産卵から廃鶏までの期間」を18か月とすることがよいという結論に至った。
・鶏舎の回転率を上げるためには、「廃鶏後、ヒナを鶏舎に移動させるまでの期間」を120日とすることがよいという結論を出した。

企業との契約
・徳次郎氏が34歳もしくは35歳の時、卵を買い取る会社が那覇市に設立された。
・徳次郎氏は、その会社と契約し、同社に定期的に出荷するようになった。
・その結果、他社からの依頼も増えた。2024年11月現在、株式会社沖縄県鶏卵鳥流通センター(通称GP)と契約。

息子たちの参加
・長男と次男は、父・徳次郎氏から依頼され、経営に参加するようになる。

6.養鶏での苦労

餌代の支払い
・増羽のための餌代の支払いに苦労した。支払いが滞ることもあった。
・その理由は、当時、養鶏場拡大のために購入した土地の支払いが大きな負担になっていたことである。

鶏病の発生 
・1977年、平良区内の養鶏場で鶏病が発生した。
・発生した養鶏場から半径5㎞以内にいる家畜は殺処分の対象となった。
・徳次郎氏の養鶏場はその範囲内にあった。
・そのため、徳次郎氏の養鶏場にいた1万4000~1万5000羽の鶏が殺処分された。
・徳次郎氏はそのとき「次のことを考えていたので、落ち込むことはなかった」とのこと。
・養鶏場(成鶏舎)の離れにいたヒナは、そのままヒナ舎にいさせた(鶏病の被害はなかったが、獣医に移動を禁止された)。
・ヒナ舎は満杯状態だったので、増羽させることができなかった。そこで徳次郎氏は、本部町の知り合いの養鶏家に「(徳次郎氏の名義で)ヒナを購入するので、そのヒナをしばらく育ててくれないか」と依頼した。相手方が了承したので、ヒナを購入し、本部町の知り合いの養鶏家に預けた(約3ヶ月間)。
・預けている間に、養鶏場内(成鶏舎)の清掃を行った。
・移動・搬出制限の解除後、ヒナ舎にいたヒナと、本部町の養鶏家に預けたヒナを成鶏舎に移動させた。

7.見奈須フーズ設立

会社立ち上げの経緯 
・徳次郎氏の長男と次男が、関係機関から補助金についての情報を得た。
・補助金受給の条件の1つが団体組織であることであった。
・「養鶏団地」の経営を行う名目で補助金の申請をする場合、申請者は複数名でなければならなかった。よって、徳次郎氏および彼の妻・長男・次男、他の養鶏業者をそれぞれ個人経営者として申請した。
・徳次郎氏の長男と次男は法人として設立することを考えた。
・徳次郎氏自身は会社の設立を考えていなかったが、長男と次男の意見を取り入れて、(有)見奈須フーズを設立した。

(有)見奈須フーズ(卵自販機前からの風景) (2024年11月24日筆者撮影。)

8.長男・次男の活躍

新たな事業展開
・徳次郎氏の長男と次男は、話し合い、次のような新たな取り組みを行ってきた。
・沖縄県内初の卵の自動販売機の設置(第1号機は、2002年、養鶏場前に設置)。
・2011年、見奈須フーズの卵を使用したケーキ屋「らんらん家」のオープン(卵も販売)。

(有)見奈須フーズ前に設置されている卵自販機。(2024年11月24日 筆者撮影。)

9.通貨切り替えによる給与の問題

通貨切り替え前
・本土復帰前、従業員の給与は月額60ドルであった。

本土復帰に伴う通貨切り替え
・米ドルから円に移行された(1ドル305円で交換)。
・復帰後当時は1ドル=305円だったが、徳次郎氏は1ドル=360円の認識のままでいた。
・そのため、徳次郎氏は、1ドル=360円として計算し、若干上乗せして約25,000円を従業員に支払った。

従業員との交渉
・従業員から、給与を3万円にあげてほしいと要求があった。当時はニクソンショックによる円高の進行と輸入インフレによる物価高で、県民の経済事情は悪化していた(用語解説「戦後の通貨の歴史」を参照)。
・養鶏農協※5でその話をしたところ、他の会社は3万円ほどの給与を支払っているということを知った。
・その結果、従業員に3万円の給与を支払うようになった。

※5 1970年8月1日に設立された鶏卵の専門農協。商系の鶏卵生産者で組織されている。加入生産者は、鶏卵の共同集荷および販売などをおこなう。養鶏経営の安定を図るほか、流通の合理化と鶏卵受給調整機能強化を推進する指導機関の役割を果たしている。参考文献:沖縄大百科事典刊行事務局編1983『沖縄大百科事典 下巻』沖繩タイムス社p.791

10.さいごに

 本レポートでは、見奈須フーズの沿革をみてきた。以下、主な内容をまとめてみる。
・徳次郎氏は、自分自身の弁当用のおかずの卵をつくるところから養鶏を始め、このビジネスに将来性を感じて、羽数を増やしていった。
・徳次郎氏は、1人で、売り上げや支出の管理を行い、また、各工程のコストなどを緻密に計算して、数字に基づく経営を行ってきた。
・養鶏ビジネスの推進には、家族(妻、両親、長男、次男)の協力は不可欠であった。
・家族だけでなく、知人(近所の同業者、本部町の同業者など)からも支えられてきた。
・徳次郎氏の人生は、戦後史の重大な出来事(軍工事ブーム、ニクソンショック、通貨切り替えなど)に影響されてきた。
・徳次郎氏の創意工夫と積極的な事業展開の精神は、長男・次男にも受け継がれている(卵の自動販売機の設置、直売店「らんらん家」のオープンなど)。
 徳次郎氏は、様々な苦難に直面してきたが、常に創意と工夫で打開策を考えて、事業を発展させてきた。

【用語解説】戦後の通貨の歴史 

以下、戦後の通貨の歴史を時系列でみていく。

・戦後、県民が収容所生活を行っていた頃、貨幣を用いた取引が禁止されていて、住民は物々交換を行っていた。
・1946年3月、貨幣経済が復活。この頃、B円型軍票(以下、B円)や新日本円、米ドルが混在していた。
・1948年、第4次法定通貨変更で、B円(米ドルの裏付けあり)のみが法定通貨となった。
・1950年4月、単一の為替レートが設定された(1ドル120B円という極端なB円高)。米軍当局(トルーマン政権期)は、基地建設推進・インフレ防止の見地から、輸入価格抑制のためには「輸出産業の育成を考慮する必要なし」とさえ言いきっていた。
・1950年代初期、軍工事ブームや朝鮮戦争特需により、米ドルが米国から流れ込み、沖縄のドル備蓄は増加し、それにつれてB円の供給量も増えた。
・1958年、B円から米ドルへ切り替えられた。世界の基軸通貨の米ドルを沖縄で使用できるようにし、外資を誘致することがその目的であった。輸出産業を育成することは、アイゼンハワー政権期の東アジア戦略の1つであった。
・1971年、ニクソンショックが起きた(固定通貨相場制から変動通貨相場制へ移行)。その後、円高が進行した(1ドル360円が、1ドル300円強程度へ)。ドルで生活をしていた沖縄県民にとって、円高は資産の目減りを意味した。なお、ドルで大量の物を輸入する「輸入経済」の沖縄では、年率10%程度の激しい輸入インフレが起きていた。
・1972年、米ドルから円に移行された(1ドル305円で交換。第6回目の通貨交換)。円高で発生した「個人の預金の為替差損」は給付金で補填されることになった。

参考文献:
1950倶楽部2021『沖縄経済と業界発展』光文堂コミュニケーションズpp.54-57
牧野浩隆1996『再考沖縄経済』沖縄タイムス社p.28