1964年9月26日
議会議員城間盛亀(団長)・普天間善徳・小谷森青・平田源善の4議員と議会書記徳本善成氏の5氏が、日本本土の行財政、産業視察研修のため日本本土へ東京向け出発する(10月21日迄)。10月4日には、名古屋で養豚業を視祭する。
【コラム】本土移住者の活躍
城間団長をはじめとする一団は、10月4日、名古屋で、仲伊保出身の知念泰司氏の案内により、佐敷村出身者(富祖崎出身の玉寄兼蔵氏、屋比久出身の呉屋善英氏含む)の養豚業を視察しました。視察では次のことがわかりました。①かれら佐敷出身者はいずれも200頭乃至300頭を多頭飼育し養豚業で成功している。②飼料は残飯、芋、または購入飼料。③現在価格は生体で十斤4セント。
また、一団は10月9日、沖縄物産販売大阪斡旋所長と会い、「大阪の豚肉卸販売業者から豚の輸出を要求されているが沖縄からの出荷がない」という話を聞きました。しかし、当時は、島内消費でさえ不足している状況にありました。沖縄の豚輸出業者は、生産過剰になり、なおかつ、生体30セントから32セントに価格が落ちた場合には輸出も出来ると考えていました。
参考資料:広報さしき 第4号(1965年2月) PDF
1967年10月20日
佐敷村議員玉城源光(副議長、団長)・普天間善徳・屋嘉部景興・瀬底正麗の4名、佐敷村役場固定資産評価員宮城福光は、本土の産業発展の実状を見るために視察研修を行う(11月11日迄)。
●10月24日、岐阜県大垣市島里町にある南農業協同組合を視察。同地では、農業多角経営が目指され、養豚、養鶏、酪農等で農家収入が向上していた。
●10月25日、愛知県安城市姫小川町芝山にある桜井農業協同組合を視察。同地でも、農業多角経営が行われていた(養豚、養鶏、肥育牛等、野菜作り)。
1973年12月
佐敷村養豚組合が結成される。
1974年
佐敷村農協(小波津厚一組合長)は、大宜味村農協とのタイアップにより、村内の子豚の出荷を開始する。
【コラム】佐敷村の養豚
養豚において品種の改良と防疫、肉質改善は重要なテーマです。それらについて、佐敷村は、『広報さしき』第20号(1969年1月)で、養豚農家に向けて、次のように依頼していました。
「養豚をなされる際は常に品種の選定と防疫に気をつけて改良された良い素豚を飼い、健康に管理して損耗や、飼料の無駄を防ぎ併せて労力を効率的に活用して、よい肉を速く、安く生産して畜産収入の増大につとめて下さい」
「家畜の病気が発生した場合、畜主は家畜伝染病予防法により村長に報告する義務がありますので遅滞なく報告して下さい」
「本村の肥育牛はすべて雄牛が肥育されております、雄牛は十八ヶ月以内に出荷できる時はよいとして、それ以上肥育する場合は肉質が低下して売上値も良くありませんので出来得るだけ去勢し、肉質改善につとめ高値で出荷できるように努力していただきたいと思います」
参考資料:広報さしき 第20号(1969年1月) PDF
1976年
第2回沖縄県畜産共准会(県畜産共進会主催)において、「ヨハネス・ボストン・カツ譲」が経産豚の部で優等賞を受賞する(佐敷村初)。
【コラム】養豚一筋 吉田勇さん
「ヨハネス・ボストン・カツ譲」を飼育したのは吉田勇さん。吉田さんは、戦後まもない混乱期に、村の振興には養豚が一番と考えて、いち早く養豚に取り組みました。それ以来、養豚一筋。畜産共進会などで常に優秀な成績を納める吉田さんは、母豚6頭、雄豚2頭、育成豚7頭、仔豚25頭を飼育するまで事業を拡大するようになりました(1976年当時)。
吉田さんは、1973年12月に、佐敷村養豚組合を結成し、結成と同時に副会長に就任しました。佐敷村・農協とタイアップして、技術の向上、優良品種の導入、経営の合理化などを行い、一貫として養豚振興のために取りくんできました。
なお、吉田さんは、1976年5月から、大宜味村農協と佐敷村農協の提携による仔豚の共同出荷にも関わるなど、流通面の開拓にも積極的に取り組みました。
参考資料:広報さしき 第41号(1976年6月) PDF
1976年
佐敷村農協が大宜味村農協とタイアップして始めた子豚の出荷数が1800頭となる(1976年度実績)。
【コラム】佐敷村農協と養豚
佐敷村農協の養豚事業は次のようなものでした。
・佐敷村農協は独自で母豚を飼育し、養豚農家へ販売していた。さらに、母豚にタネツケをして、生まれた質のよい子豚を農協を通して出荷するということも行っていた。
・1977年時、佐敷村内に、養豚農家は53戸、母豚は250頭いた。毎週水曜日、各農家から出荷された50頭以上の子豚が佐敷村農協前広場に集められ、大宜味村農協のトラックで運ばれていた。
・1977年時、子豚の価格は、幾分変動があるが、平均して1頭1万千円内外で取引されていたという。1回の出荷で6、70万円の売り上げがあった。農家にとってはキビ作に代わる農業として有望視されていた。
・取引価格が下落しないように、月1回3者協議会(佐敷村農協、大宜味村農協、農家代表)が開かれ、価格の調整が行われていた。
▲『広報さしき 第46号』より。
参考資料:広報さしき 第46号(1977年1月) PDF
1982年11月5日
宜野湾市で開催された第9回沖縄県畜産共進会(11月7日迄)で、新里やす子さんの種豚と山入端嘉和さんの肉用牛が金賞を受賞する。
●新里やす子さんは種豚(経産二類)の部において金賞一席、山入端さんは肉用牛(去勢一類)の部でにおいて金賞二席で入賞した。
【コラム】佐敷町で初の金賞一席を受賞した新里やすこさん
新里さんは、受賞する数年前までは、会社勤めをしていました。はじめは、姑さんがやっていた養豚にさほど興味を示さなかったといいます。ところが、姑さんが寄る年波に勝てず豚を手放すことを検討するようになった時、新里さんはふと「私にもできないかしら」と思うようになりました。そして、家族と相談し、彼女にまかされることになりました。残パンの収集、えさの準備、掃除など、悪戦苦闘の毎日を過ごすようになりました。
沖縄一になるまでに、残パンを快く提供してくれた人、家族(とくに姑さん)、同業者の援助など多くの人々にささえられたといいます。
彼女は母豚を養っていました。「子供が一度にたくさん生まれるでしょう。その中からこの子はじょうぶな母親になりそうだと見わけるのがむつかしい。それがまた楽しみなんですね」と語っていました。
参考資料:広報さしき 第73号(1983年2月) PDF