1967年(9月)
字佐敷生活改善グループ(仲里ヨシ会長)が、農業改良普及員及び村経済課職員の指導のもとに野菜苗床を設置する。
●ピーマン、キャベツ、トマト、チシャ、玉ねぎ等が、野菜苗床(面積約30坪)に播種された。
●野菜苗床を設置する目的:①苗を購入するために遠く国場あたりまで出掛ける不便さをなくす。②自家菜園の面積を拡大する。③計画栽培による自給自食をめざす。
1967年10月27日
外間長賢村長は、沖縄市町村会からの推薦で、南部代表として本土出張に出発する(11月18日まで)。
●出張の目的:①日本政府に対する陳情(1969年度の日本政府の沖縄援助金の中に、新たに沖縄の市町村への財政援助を盛り込む)、②本土市町村(沖縄に似通っている島根県、徳島県、高知県)の農業の実状を知る研修、③九州大学園芸学教室参観。
●九州大学園芸学教室では、砂栽培と土栽培との比較研究(ピーマンと人参が対象)について学んだ。
【コラム】外間村長の出張報告
外間長賢村長は次のように出張報告をまとめました。参考文献:広報さしき 第16号(1968年2月)PDF
A 私達の悲願である祖国復帰は近い中に実現するであろう。祖国復帰した時には必ず町村合併が至上命令の如く行われるだろうと強く感じました。
従って琉球政府が先頭に立って今からその具体化を進め、われわれ沖縄住民も感情だけに流れずにその決意を固めて行かねばならないと思います。
B 農業構造改善について
キビ作り一点張りの沖縄は、今のまゝの農業ではめしが喰えなくなる。農家は真剣になって協業化を考えて貰わなければならない。それと共に畜産その他ヤサイ等の作物をとり入れて、沖縄だけで売ったり買ったりする考えでなく、日本本土に移出するように目を開いて貰わなければならないと強く感じました。
C 町村合併問題と農業構造改善の問題は、よくかみ合わせて、政府、沖縄市町村会、沖縄市町村議長会、琉球農協長会等が一糸乱れない態勢を作って立向わなければならないと考えます。各町村でこの大きな問題を考えて見ても解決はむづかしい、唯今からでも話し合いが初められることは、どうすれば農家の収入を増やすことが出来るか、協業と云うことはどうすることでどんなに考えて進めればよいか、と云う事位であると思います。でも政府の施策がきまるときまで待つわけに行きません。村と農協と打合せまして今後その面の話し合いを出来るだけ早い時期に行いたいと考えておますので村民の皆様の御協力を強くお願い申し上げる次第であります。
1973年10月
農研クラブが創立される。
【コラム】農研クラブ
新田器一農研クラブ会長は、同会設立から約9年が経過した頃、『広報さしき』第57号で、同会の活動内容などについて、次のように説明しています。参考文献:広報さしき 第57号(1979年8月)PDF
当クラブは、昭和48年10月会員5名で呱々の声をあげてより7ヵ年を経て居ります。復帰一年後、本土経済の高度成長真っ盛りで、県内では復帰ショックの混乱期に当り、農業受難の時代だと言われておりました。甘蔗代は安く高賃金でその上人手不足、甘蔗作農家は赤字続出、各町村で収穫放棄をやっている最中でした。その頃野菜作りに黙々と励んで居た7人の士ならぬ5人の農士を、当時の普及員石川広道氏のお奨めにより普及組織の一単位(他に四Hクラブ、生改クラブ、津波古愛農会、仲伊保園芸組合あり)として組織し、お互いの親睦と営農の近代化の目標として研究実践していくことに決しました。早速会則を作り月200円の会費で会合は各戸持ち廻りにし先づ(中略)農業をテーマにして学習に取り組み、年次を逐って各論へと移行し研修を続けて居ります。
小人数とはいえ、講師を招き、夜間の会合を持つには月会費200円ではとてもたりません。各自で6、7000円位は別に負担して約2ケ年、その間会員も増加し8名になったので村と農協から活動助成をしていただいて現在は会員23名(津波古2名、佐敷2名、手登根2名、伊原4名、仲伊保9名、冨祖崎4名、毎月第3月曜日午後2時より村農協において月例会を持ち今年から会費2500円とし村と農協の助成金を合せて総額21万余円で運営しております。使途の主なるものは、月例会費、先進地視察費、教育情報費、現地批判会費、及び種苗購入費等になっていて最少の経費で最大の効を狙い有効に活用して居ります。
即ち、7カ年間に会員が約5倍に、当初ビニールハウス面積、全員で一反歩そこそこのが現在約7反歩7倍へ、作目も胡瓜、ピーマンの二作から、水耕ミツバ、トマト、貝割菜、苦瓜、オクラ、菜豆、南瓜、レタス等に多様化して参りました。
1983年12月
ウリミバエの防除技術が確立し、沖縄本島からのピーマンの県外出荷が可能となる。
【コラム】沖縄県のピーマン
参考文献:
沖縄県がピーマンを県外に出荷し出した頃の①生産計画、②品種、③活動組織、④価格は、次の通りでした。
① 沖縄県全体の1983年度(12月から翌年の5月までの出荷期間)の生産計画によると、生産面積が20ヘクタール、生産量は1,400トン(その内、県外出荷量は1,000トンが見込まれていた)であった。
② 沖縄県内で消費されていたのと同じ大型ピーマン(品種長交エース)が、1982年12月に久米島から初めて集外出荷された(1983年4月までに12トン、1,051万円出荷)。鮮度・味・品質ともに市場関係者から好評をうけ、”ビッグピー“の愛称で一躍注目されるようになった。
③ 県全体の生産出荷推進協議会が1983年4月に結成され、地区ごとの推進協議会と合せて計画的な集団産地の育成が図られることになった。佐敷町は南部地区でもトップの生産計画を立てていた。
④ 1978~1982年の平均価格は、冬春ピーマン(11~翌5月)が381円、夏秋ピーマン(6~10月)は207円。月別価格の動きは、全体でみると12~翌3月が高く、5~9月が安い。冬春ピーマンでは1~3月が高く、11~12月と4~5月が安い。
広報さしき 第75号(1983年6月)PDF
広報さしき 第77号(1983年10月)PDF
【コラム】仲伊保のピーマン農家・吉田永進さん
参考文献:広報さしき 第76号(1983年8月)PDF
1983年当時、仲伊保に、数々の共進会・振興会などで入賞するほどの有能なピーマン農家がいました。吉田永進さんです。吉田さんは、軍作業員から転身して野菜づくりを行うようになりました。より高品質なピーマンを生産するために、苗づくりや土壌改良、施肥について研究しました。試行錯誤を重ねて、ようやく成功するようになりました。
吉田さんは、その苦労を次のように語っています。
「当初は、キビ畑をつぶしてまですべきではないともアドバイスされましたし、また、生産に関する情報がまるでなかったんです。内地から野菜づくりの本をとりよせたりもしましたが、気候風土が異なる沖縄にあってはその応用もできなくたいへんでした」
1983年12月7日
佐敷町として本土向け初出荷となるピーマンが町農協集出荷所に集められる。
●山城町農協長や農協関係者、山城町長、宮城助役、平田経済課長などが出荷に立ち会った。
●ピーマンは燻蒸処理の後、関西方面へ出荷された。
●当時の町内のピーマン栽培農家は25戸で、この日の全出荷量は700キロであった。
●ピーマンは、当時、佐敷町では他市町村より数年早く作付けされていて、その品質は高く評価されていた。
1983年12月
ビニールカーテンを利用したピーマン栽培が佐敷町で初めて行なわれる。
●仲伊保の吉田永進さんのハウスで導入された。
●本土市場の値段の高い時期(1~2月)に出荷量を上げる目的で導入された。
●ビニールカーテンの利用で期待される効果:①経費を多くかけずに保温効果を高める。②生育促進を図り、収量および秀品率を高める。
【コラム】ビニールカーテン
ピーマンの適温は日中25~30度、夜間は18~20度ですが、沖縄県では冬場10度以下になることがあります。この低温が、果実肥大の遅れや奇形果の発生につながります。
しかし、温度が高くなりすぎることも避けなければなりません。日中天気の良い日はハウス内温度が「適温上限の30度」を越え、40度近くまで上昇します。それを防ぐために、日中、カーテンを上げハウス内の換気を十分に行います。そして、夜間にはカーテンを下ろし、ハウスを閉めます。
吉田さんの実証展示圃では、ハウス側面だけのビニールカーテン栽培で、次のような結果が得られました。
(1) 従来の栽培(慣行区)に比べ最低温度が上昇する。
(2) 新芽の発生が早い。
(3) L・M果の割合いが増加する(クズ物が減る)。
(4) 収量が増大する。
参考文献:広報さしき 第83号(1984年8月)PDF
【コラム】野菜づくり50年の玉城安助さん
参考文献:広報さしき 200号(1994年3月)PDF
1994年3月発刊の『広報さしき』第200号で、当時93歳だった野菜農家・玉城安助さんが紹介されました。玉城さんは終戦直後から20年ほど1,000坪の畑に米軍向けの野菜をつくりました。葉野菜はじめ人参、トマト、ピーマン、ナス、きゅうり、かぼちゃなど季節の野菜づくりに勤しみました。苦労もありました。玉城さんは当時を振り返り「雨の日も風の日も休む暇はなかったよ。台風対策で苗1本1本にかわら1枚1枚かぶせたら、風の向きが逆で野菜が全滅したこともあった」と語っています。
出荷先が米軍向けから農連市場向けになってからは、玉城さんの妻が、玉城さんがつくった野菜をバスで市場へ運ぶようになりました。
玉城さんは、『広報さしき』第200号で取材を受けた頃(93歳時)、自宅近くの畑で露地とハウスで、20種類の苗づくりを行なっていました。その一昨年前までは、それらの苗をリヤカーに積み、農協へ出荷していました。なお、当時、町内はもとより近隣町村からも玉城さんの苗を求めてやってくる人がいました。
1996年3月29日
認定農業者の認定式が行われる。
●国沢孝夫さん、山内正信さん、与那嶺葵さんが認定農業者として認定された。
【コラム】認定農業者
参考文献:広報さしき 第226号(1996年5月)PDF
『広報さしき』第226号では、認定農業者制度について次のように説明されています。
「認定農業者制度は、農家の農業経営を改善し、足腰の強い農家を育成することを目的にした制度。農業者自らが作成した農業経営改善計画を、町の基本構想に照らして認定します。認定を受けた農業者は、農用地取得の際に町から支援が受けられることをはじめ、税制上の特例、融資面の恩典、研修会への参加など、農家経営に際してさまざまな特典が受けられます」
国沢さん、山内さん、与那嶺さんは、農業構造改善事業による大規模な野菜ハウスの導入を計画し、その意欲と計画性が評価され、認定されました。
当時、主にトマトとメロンを栽培していた国沢さん(字新里在住)は「用地確保に苦労したが、地主の方、役場、農協の協力でどうにか実施にこぎつけた」と語っていました。
ピーマン栽培が得意な山内さん(字仲伊保在住)は「所得一千万農家をめざす」と話していました。
トマト栽培を中心に行っていた与那嶺さん(字新開在住)は「自然に触れ合う機会の少ない子供たちにトマト狩りなどもさせたい」と農業の副次的効果についても話していました。