1977年
第1回沖縄県産業まつりで、馬天製菓(瀬底正毅社長)の「黒糖飴」が知事奨励賞を受賞する。
●「黒糖飴」は1974年8月から、お土産品として観光客を対象に販売されていた。
【コラム】「黒糖飴」
馬天製菓の瀬底正毅社長は、逆境の中で、創意と工夫により「黒糖飴」を開発し、ヒット商品に育てあげました。ここでは、その足跡と「黒糖飴」に関する詳細について説明します。
「逆境」とは、離島地域と比べて不利な状況にあったということです。当時、離島城域の工場に対しては、補助金で振興が図られていましたが、沖縄本島唯一の黒糖(含密糖)生産工場であった馬天製菓は補助金の対象外となっていたのです。
そこで、瀬底社長は、黒糖を用いつつ、「純粋な黒糖」以外の製品を開発することを思いつきました。その結果誕生したのが、「黒糖飴」でした。
「黒糖飴」は、1974年8月、みやげ品として観光客を対象に市販されるようになりましたが、結果は良好で、年々、消費量は伸びるようになりました。県外から直接注文を受けるようにもなりました。
観光客を対象とした点は、目の付け所がよかったと言えます。なぜなら、以下の表の通り、1972年の本土復帰以降、沖縄を訪れる観光客数は増加していったからです。
1974年から1975年にかけて観光客数が急増していますが、その原因は、①国際海洋博覧会の開催に向けて、道路や空港など沖縄全体の社会インフラが整備されたこと、②①と関連して、県の魅力が国内外に発信されたことです。翌年の1976年には、反動により、観光客数は同イベント開催の前年に近い数に戻りました。たしかに、このような乱高下はありましたが、復帰年の1972年以降、観光客数が増加傾向にあったということは言えます。
なお、「黒糖飴」が『広報さしき』第50号で紹介された1978年の観光客数は、「黒糖飴」の販売開始年(1974年)のそれから、1.87倍にも増加しています。「黒糖飴」はこの観光ブームに乗ることができたと言えるでしょう。
しかし、たとえ観光ブームが到来しても、製品そのものが優れていなければ、売り上げは増加しません。当然、「黒糖飴」には強みがありました。この製品の特長は、次の2点です。
・黒糖本来の味を楽しめる。
・既在の黒糖と比べて、保存が効く。
「黒糖飴」は、「かん(150グラム)に詰めたもの」と「袋詰め(200グラム)」の2種類で販売されていました。なお、1日の生産量は、缶用が2千缶、袋ものが1千5百袋でした。
以上の話は次のようにまとめることができるでしょう。
・馬天製菓は、創意と工夫により新製品を開発し、逆境を跳ねのけることができた。
・復帰後の観光客の増加が、「黒糖飴」の売上増に貢献した。
参考資料:
写真1.『広報さしき 第50号』より
写真2. 佐敷町商工会 1991『設立15周年記念誌 佐敷町商工名鑑 商工会のあゆみ』より
佐敷町商工会1991『設立15周年記念誌 佐敷町商工名鑑 商工会のあゆみ』
広報さしき 第50号(1978年1月)PDF
「調査レポート「本土復帰後の県内観光の動向」PDF
http://www.ryugin-ri.co.jp/wp-content/uploads/2023/01/2301hondofukigonookinawakankou.pdf(2024年7月3日閲覧)
「Ⅱ 沖縄観光に関する統計・調査資料」
https://www.pref.okinawa.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/026/887/2_1-5r4kankouyouran.pdf(2024年7月3日閲覧)
【用語解説】含蜜糖
糖蜜を含んだ砂糖の総称。黒砂糖もその1つ。サトウキビの汁を搾り、その汁に石灰を加え、煮詰めて作ったのが黒砂糖。用途は、①直接食べる、②調理に利用、③かりんとうなどの菓子黒糖酒の原料として利用、などである。
参考資料:
沖縄大百科事典刊行事務局編1983『沖縄大百科事典』上巻 沖縄タイムス社
琉球新報社編集局編1992『現代沖縄事典』琉球新報社