調査執筆者・たまき まさみ
はじめに
バスや車が行き交う大通り(国道331号)から離れて、海に向かって歩いていくと、住宅街に入っていきます。すると、どこからともなく子どもたちの元気な声が聞こえてきます。その声に向かって進むと、三角屋根の一軒家に掲げられた新開保育園の看板が目に入ります。
筆者・たまきまさみ(南城市教育委員会「戦後史 上 産業」専門部会委員)は、2024年2月11日と3月2日、南城市佐敷新開にある新開保育園の園長・嘉数光子さんと津波博美さん(光子さんの長女)に、保育園の創業から現在に至るまでの話を聞かせていただきました。
〈話者プロフィール〉
嘉数光子さん
嘉数光子さんは1939年10月20日、長女(9人きょうだいの一番上)として、愛知県名古屋市で生まれました。佐敷村手登根出身の両親は、当時、同市に出稼ぎに来て、三菱の工場で戦闘機を造る仕事をしていました。
しかし、家族は、アジア太平洋戦争の一時期、岐阜県に疎開していました。戦後は愛知県知多郡河和へ移動しましたが、1952年、光子さんが13歳の頃に佐敷村手登根に引き揚げました。
光子さんは、1954年に佐敷中学校を卒業すると働き出しました。那覇の親戚が経営していた洗濯屋や、小禄商店という小売業の店で、住み込みで働きました。1964年、25歳になると、宜野湾市大山でアメリカ2世の宮地さん宅にメイドとして住み込みで働くようになりました。
1969年、光子さんの父親は、名護の獣医・宮里さんから豚の卵巣摘出や不妊去勢手術のノウハウを学び、その技術を活かした仕事をするようになりました。当時、両親の出身地・佐敷村一帯では養豚がさかんで、その仕事の需要があったので、両親の生活は経済的に落ち着くようになりました。やがて、光子さんは、佐敷村手登根の実家に戻り、父の仕事を手伝うようになりました。
光子さんは、31歳の時、大工の男性(佐敷村新里出身)と結婚し、それを機に、新里へと移り住みました。しかし、数年後の1972年(本土復帰年)、夫は親戚のつてにより大阪で働くことになり、家族で移住することになりました。その頃には、2歳の長女(博美さん)と1歳の長男がいました。
大阪で、3人目となる次男が生まれましたが、夫が働かなくなったこともあり、1976年に37歳で協議離婚をすることになりました。その後、光子さんは、子供を連れて、沖縄の実家に戻りました。
光子さんは、実家で肩身の狭い思いをしました。働かねばならないと思いましたが、勤めに出るにも、自分の子供を預ける所を見つけることができませんでした。そこで、光子さんは自分の子供の面倒を見ながら働ける方法はないだろうかと考えました。そして、自分の子供もよその子供も同時に世話をすることのできる託児所を経営するということを思いつきました。
光子さんは、1978年、39歳の時に、託児所を開所しました。その後、運転免許と調理師免許を取りました。また、泊高校(定時制)に入学し、卒業後は、沖縄学院で学び保育士の資格を取得しました。
光子さんは、それ以来今日まで46年間、新開保育園の園長を続けています。また、今もなお現場に出て、給食作りなどを行なっています。
津波博美さん
津波博美さんは光子さんの長女で、1970年3月16日に佐敷村新里に生まれました。2歳ごろに大阪へ移り住み、1976年に佐敷村に戻ってきました。博美さんは佐敷小学校、佐敷中学校、知念高校で学び、高校卒業後は保育士の資格を取るためキリスト教短期大学に進学しました。卒業後、1996年に語学と美術の勉強のため、イギリスに留学しました。
博美さんはイギリスで学業を修めた後も、同地で生活を続けましたが、2019年の夏に日本に戻りました。そして、同年11月から保育士として新開保育園で働くようになりました。
博美さんは、アーティストとしての技能と外国暮らしで得た語学力を職場で活かし、園児たちにアートや英語を学ばせています。また、博美さんは、園児たちが園外で地域の人やアーティストと触れ合う機会もつくるようにしています。
新開保育園の1日
午前7時、住居も兼ねている保育園は開園となります。博美さんは1階で園児たちを出迎えながら、担当の先生が来るまで2歳から4歳までのキリン組の子たちに絵を描かせたりおもちゃで遊ばせたりします。一方、光子さんは台所に立ち、給食の用意を始めます。1歳児のヒヨコ組担当の先生は、出勤すると、1歳児たちを連れて2階へ移動します。なお、2024年4月頭の時点で、新開保育園には、4名の先生(光子さん、博美さん含む)と15人ほどの園児(1~4歳)がいます。
午前10時頃になると、「設定保育」が始まります。「設定保育」では、①英語を学ぶ、②散歩する、③リズムを学ぶ、④制作する(アートを学ぶ)などを行います。
午前11時からは給食の時間となります。食べ終えた園児から順に、着替えて、自由に遊びます。そして、お昼寝をします。
15時からはおやつの時間になります。光子さんは、給食とおやつの前、それらの準備のため台所に立つことが多いです。光子さんの作る料理は多彩です。たとえば、カレー、マカロニをケチャップで味付けしたもの。さらに、ジューシー、スブイの汁など沖縄の家庭料理もあります。園児たちは、これらの料理をおいしいと言って食べるそうです。また、かつて、光子さんは「大根や昆布の入ったてびち汁」を出したことがありますが、その後、「(子供が)てびちを好きになったのは光子さんのおかげ」という母親の声を聞くようになりました。
さて、おやつの時間が終わると、園児たちは迎えを待つことになります。かれらは待っている間、自由に遊びます。
18時には閉園となります。その時間が近づくにつれて、迎えに来る親の姿が増えていき、園内の園児の数が減っていきます。筆者はその様子を見学しましたが、その日、いろいろな園児を目にしました。例えば、迎えに来た母親に泣きつく子、そして、はにかんだ様子で筆者に手を振る子などです。最後の1人が帰ると、ようやく長い1日が終わります。
光子さんと新開保育園のこれまで
今から46年前の1978年、新開保育園は佐敷村字新開で託児所としてスタートしました。光子さんが39歳の時のことです。離婚して2年が経っていました。8歳の長女と3歳の次男を抱えて働きに出ることはできなかったため、「自分の子どもを見ながら働く方法はないだろうか」と思い、それがきっかけで、自ら託児所を開所したいと考えるようになりました。
そこで、光子さんは、弟に「子供相手の仕事をしたい」と言って、託児所建設のための支援を求めました。弟は、彼が持っていた土地に一軒家を建ててくれました。また、妹も協力してくれました。彼女は、光子さんとともに、歩いて近所の家を一軒一軒回り、園児募集のチラシを配ってくれました。その他、親戚からはピアノを譲り受けました。何もかもが手探りのスタートでした。
託児所がオープンした頃、子供を預ける親は、現在とは異なり様々でした。当時は、看護師や学校の先生、会社員に加えて、夜間バーで勤める女性、西原町から預けに来る人、ゴルフ場で勤務する人(キャディー含む)などがいました。
光子さんは、夜勤の人が多かったことを思い出しながら、こう言います。「子供を夜に預けて、朝に迎えに来くる人がいました。私は子供たちと一緒に寝ました。24時間体制というか、生活と仕事が混ざっていました。当時は、食べるのに必死でしたからね。自分の生活の中で自分の子供を育てるように、よその子たちに接していましたね」
また、光子さんが託児所を始めた頃は、子供を預ける場所(同業他社)が少なかったので、園内の見学もせずにすぐに預ける親や、孫を連れて来て「どこでもいいから寝かせてちょうだい」と言う人(近所の顔見知り)もいたといいます。
とにかく、当時、光子さんは、預ける側の様々な要求に応えるために、努力をしました。「お母さん方が働きやすいようにとの思いから、日曜以外は休みなく園を開けていました」と光子さんは言います。
預かる子供は、多い時には、0歳から学童に通う年齢までの子供が50人ほどいました。先生は1番多い時で7人いました。なお、先生の採用には困りませんでした。募集のチラシを見て来る人、知人からの紹介で来る人、飛び込みで来る人などがいました。
創業から7年ほど過ぎた頃、光子さんは託児所を保育園に切り替えようと思うようになりました。時代の変化に気付いたからです。1980年代までは、夜の飲食店で働く母親が多かったのですが、それ以降、店が減り、夜間に預ける人が減っていったのです。
そのような事情があり、光子さんは保育園をスタートさせましたが、この仕事を長く続けるためには幾つかの資格が必要であると思うに至り、まず、運転免許と調理師の資格を取得しました。そして、46歳になった1985年、定時制で泊高校に通うようになりました。保育士養成学校に入学するには高校を卒業しなければならなかったからです。ちなみに、当時、長女の博美さんも高校生でした。
光子さんは保育園を経営しながら泊高校で学び、4年間かけて卒業しました。その間、次男を高校へ連れて行っていっしょに授業を受けたこともあります。また、よその子供を授業に連れて行ったこともあります。理容業を営む女性から「お客さんが入っているので、うちの子を預かってほしい」と頼まれたからです。
光子さんは、高校卒業後、浦添市にある沖縄学院に通い、3年後、保育士の資格を取得しました。ついに、保育園経営に必要な資格をすべて手に入れたのです。それは1992年、光子さん53歳の時でした。
光子さんは、保育士の資格を取って少し落ち着いた頃、住居兼保育園の自宅の2階部分を増築しました。光子さんは託児所を弟の力を借りて建設しましたが、その増築は自分の力で行うべきであると思いました。光子さんは当時を振り返ってこう言います。「子供たちが大きくなってきて、家が狭く感じられるようになり、増築が必要と考えるようになったのです。弟からの勧めもあり、弟の名義で銀行からお金を借り、弟に毎月決まった額を返しました」
増築後、「自分たちの生活の場」と「保育園としてのスペース」を分けて使えるようになり、使い勝手がよくなりました。
しかし、当時、良いことばかりがあったわけではありません。近所に保育園が増え、保育ビジネスの競争が激しくなってきていたのです。しかも、ただたんに子供を預かるだけでは認められなくなってきたのです。例えば、運動会やお弁当会などの行事を目玉にしたサービスも求められるようになってきたのです。
そこで、新開保育園でも、週1回のお弁当会を始めることになりました。そのきっかけとなったのは、よその保育園で勤務した経験のある先生の、次のような言葉でした。「お弁当会はしたほうがよいですよ。園児たちが普段家庭で何を食べているのかがわかるので、園児に食を提供する我々にとっては、お弁当会は勉強になります」
お弁当会を開くようになってから、年間を通して様々な行事を行うようになりました。それらは、運動会、ハロウィン、敬老の日の慰問、クリスマス会、お別れ遠足、作品展示会などです。そのように、光子さんは、時代の流れに合わせて、経営を行ってきました。また、忙しい母親たちのために、できるだけ保育園を休みにしないように、休日は日曜日だけにしてきました。
しかし、公立学校などの公共機関や、多くの民間企業が、「土日休みの週休2日制」を導入するようになると、光子さんは新開保育園も土・日曜日を休みにしました。次の2つの理由で、土曜日の需要が減ったからです。①小学生以上の兄や姉が、弟や妹といっしょにいられるようになった。②親が土曜日に子供の世話ができるようになった。
光子さんは、最近、歳を重ねてきたせいか、体の衰えを感じるようになりました。また、光子さんは「かつて託児所を立ち上げた頃より、運営しづらいことが増えきましたね」と言います。その理由は2つあります。1つは競合する他の保育園の数が増えてきたこと、もう1つは社会事情や教育事情の変化により規制が増加したことです。
そこで、光子さんは新開保育園を認可保育園にすることを考えました。そして、それを実現させるために、コロナ禍の前に、一度南城市に相談しました。しかし、光子さんは、認可保育園の制度などに関する説明を受け、ハードルが高いと感じました。例えば、移転先の確保やそのための費用を考えると、新開保育園を認可保育園とすることは現実には難しいことがわかったのです。また、資本金や経営者の年齢制限、後継者の確保など、いろいろな条件が定められていることもわかりました。光子さんは「意欲が削がれました」と言います。そして、「今は半分諦めながらも、運営を続けています」とさびしそうな表情で話します。
博美さんの帰国と新たな試み
長女の博美さんは、イギリス滞在が23年間になっていた頃、光子さんから「家業を手伝ってほしい」と頼まれました。博美さんは、帰国し、2019年11月から新開保育園で働くようになりました。
博美さんはキリスト教短期大学保育科出身で、光子さんが保育士の資格を取得するまで、保育園業務を手伝っていたこともあります。渡英後は大学院でアートを学び、イギリスを拠点に多くの国を旅しながら創作活動を行いました。
博美さんが新開保育園に戻った当時、園児は30人ほどいました。博美さんは、排泄、着替え、食事の世話といった基本的な保育業務をこなすことに加え、イギリスでの経験を活かした企画にも取り組みました。それは、週に1度園児が英語に触れる時間をつくること、そして、アートを学ぶ時間を取り入れることでした。なお、英語の時間は、その前にもありました。週に1回、外国人の先生に英語の授業を行ってもらっていました。しかし、その先生が辞めたために、英語の時間は中断されていたのです。博美さんはそれを再開させたのでした。
博美さんの活躍で、新開保育園に活気が出てきました。しかし、すべてが順風満帆に進んだわけではありませんでした。大きな問題が発生したのです。それは、新型コロナウイルスの感染拡大でした。これにより、世の中の多くの活動が停滞または阻害され、社会の隅々にまで変化がもたらされるようになりました。
コロナ禍においても、新開保育園が休むことはありませんでした。学校が休みになった時でさえ、新開保育園は開園しました。同園は、運営停止という最悪の事態に陥ることはありませんでした。しかし、運営に関する様々な、判断の難しい問題に直面することになりました。例えば、マスクの着用ひとつとっても、判断が容易ではありませんでした。園児にマスクの着用を強制するのは厳しいので、園児はマスクを着用しないということになりました。その代わり、園は、細心の注意を払って、換気や消毒を行いました。それでも不安はありました。子供たちの健康を考える立場にある博美さんたちは、新型コロナウイルスが子供に深刻な影響を与える可能性は低いとわかっていたものの、「もし感染により重症者が出たらどうしよう」と、心配を払拭しきることはできなかったのです。そのように、運営に携わる全員が、常に気を張りつめながら業務を行っていました。かれらは、次第に、精神的に疲れるようになりました。
また、コロナ禍は、新開保育園に別の問題をもたらしました。それは、園児数の減少による減収でした。コロナ禍の混乱は出生数を減少させました。その結果、入園する3,4歳児の数が減少しました。この影響は大きく、園児の総数が半分になってしまいました。
そのように、新開保育園は経営面で大きな打撃を受けましたが、博美さんは、苦しい中でもできることをやろうと思い、新たな試みを行うことにしました。それは、新開公民館で、園児たちのアート作品の展示を開催することでした。結果は良好で、園児たちは展示会を楽しみました。その様子は、博美さんがイギリスから帰国した年とは異なっていました。その当時の園児たちは、展示会にまったく興味を持たなかったのです。「展示会? やらない」といった素っ気ない反応を見せました。ところが、公民館での展示会の後、園児たちの態度は一変しました。かれらは、何かを描くたびに「はい! 公民館に!」と言うようになったのです。
博美さんは、2024年3月22、23日の展示会では、開催に関する手伝いを依頼したり、展示会への参加を求めたりするために、地域の多くの人々に声をかけました。
例えば、次のような人々に声をかけました。デイサービスの人々、公民館の絵画サークルの人々、写真撮影を趣味とする近所に住む女性などです。なお、博美さんは、手作りの招待状を家々の郵便受けに投函するということも行いました。博美さんは、園児たちといっしょに「郵便屋さんごっこ」と称して、公民館に向かって歩きながら、道沿いの家々に招待状を配っていったのです。
その展示会は2日間開催されました。たくさんの地域の人々が公民館に集まりました。オープニングでは、博美さんの友人のアーティストと飛び入り参加の近所の人々が、歌三線を務めて「かぎやで風」を演奏しました。子供たちはそれに合わせて歩きました。また、子供たちは、歌も披露しました。近所の97歳の男性は、その歌に合わせてハーモニカの演奏をしました。
博美さんは、この経験について次のように振り返ります。「地域の人と子供たちのつながりができました。地域の方々がみんなで子供たちをみる。そういう感じがして、いいなと思いました。今年は、子供の数が少ないですが、その分、地域の方々に展示の手伝いをしていただきました。子供を介して、いろいろな出会いの機会を得たことを嬉しく思っています」
母と娘、それぞれの思い
光子さんは、46年間の保育園の運営を振り返りこう語ります。「もう何もかも兼務ですよ。園長先生をしながらご飯を作るのは、昔からずっと続いています」
また、光子さんは、多忙な中でも保育の仕事をやってこられたのは、自分の力だけではないと、次のように言います。「ある日、保健所の方がみえて、『できたら調理師の資格を取ったほうがいいよ』と言ってくれました。何もわからなかった私は、そのようにして助けられてきました。今あるのはみなさんのおかげだと思っています」
人生に苦労は多々ありました。きょうだいが多かったので、光子さんは、家計を助けるために、中学を卒業すると働くようになりました。住み込みの仕事も含めて、職を転々と変えながら、31歳で結婚するまで働き続けました。そして、出産、離婚を経て、再び、働かねばならなくなりました。託児所の仕事を始めたのも、そもそもは生活のためでした。光子さんは、そのような大変な人生を歩んできましたが、「人が大好きですからね。それに、人に恵まれてもきましたよ」と言って、人懐っこい笑顔を見せます。しかし、人が好きとはいえ、心ないことを言われることもありました。例えば、「(光子さんは)よその子の面倒はみているが、自分の子には何をしているのかわからない」とか「あの保育園には、(保育士の)資格を持った人がいない」といったことです。しかし、光子さんは、こう自分に言い聞かせて耐えてきました。「踏まれるほどいい。麦といっしょ。踏まれるほど強くなるからいいさ」
心ないことを言う人がいた一方で、優しい言葉をかけてくれる人もいました。そのうちの1人は、遠い親戚のおばあさんです。光子さんは、彼女を思い出し、こう話します。「私の子供が小さかった頃、そのおばあさんは、この近辺に来るたびに、わが家にも足を伸ばしてくれました。彼女はある日、私にお金を渡してこう言いました。『今、(子育ては)一番苦しい時期だと思うけど、大変なのは一時のことだから、(我慢して子供たちを)大事に育てなさいよ』と。私は心苦しくなって『どうお返しをしたらいいの』と尋ねました。すると、彼女は『ヌーンイランサ。私がね、カーマカイチーネー、ウムティトゥラシ』と仰いました。それは、『何もいらない。私が亡くなった時に(葬儀に来て)見送ってくれればいい。(その時)思い出してちょうだいね』という意味だと思います」
その他にも、心の支えになることはありました。例えば、園児の親御さんがお雛様の人形を贈ってくれました。光子さんは「いろいろな方の気持ちで、(この保育園は)成り立っています。感謝感謝です」と言って、笑顔になりました。そのように、温かい気持ちを持つ人々によって、光子さんは支えられてきました。
筆者が「どのような時に、保育園を続けてよかったと思いましたか」と尋ねると、「うちで預かっていた子が親になって、子供をうちに預けるようになった時です。また、うちで育った子供が会いに来て『学校の先生になったよ』と言ってくれた時もそう思いました。普通の主婦は、こういう経験をしないですよね」と光子さんは言って、目を細めました。
また、光子さんは園児のことについて、次のように話します。「子供のいいところは、怒られても、嫌なことがあっても、すぐに機嫌を直して、笑わせてくれるところです。子供から元気をもらうことは多いですよ」
ただ、元気に見える光子さんも、先のことを考えると少し深刻な表情になり、こう言います。「自分の体と相談しながら、台所での調理業務も含めて、運営のバトンタッチをすることも考えています」
なお、筆者が、博美さんが戻って来たことについて尋ねると、光子さんはこう答えました。「やっぱり1人では何事もできないと思います。家族が揃って1つのことをまとめてやっていくこと、団結っていうのは大事だと思うのです。それに、家族だから無理も利くと私は思っています」
一方、博美さんは光子さんについて、次のように話します。「母は、給食やおやつのためにずっと調理を行ってきましたが、それと同時に、経営もいろいろと考えながらやってきました。母は、保育士の資格を持っていますが、保育士というよりは経営者という感じがします。そもそも、生活のために、この道に入ったということもありますし」
このように、博美さんは、光子さんを保育士というよりは経営者とみなしていますが、光子さんの保育士としての面については、こう語っています。「母は子供を産んで育てた経験を持つので、子供の扱いには慣れています。さすが、母親経験者だなと思います。私は、彼女にはなれません。私は私ができることをするしかないですね」
これが、現在の博美さんから見た「光子さん像」です。では、博美さんは、子供の頃、光子さんの仕事や保育園についてどのように見ていたのでしょうか。博美さんはこう回想しています。「子供の頃、よい思い出はなかったです。園内で、知らない子供がずっと泣いていたりしていましたので。それに、子供の数が多かったため、私はなかなか母に話を聞いてもらえませんでした。その状況がとても嫌でした。保育園はそういう所だったので、私はずっと外で遊んでいました」
しかし、やがて、気持ちの変化が生まれてきました。それは、短大で保育の実習に行った時のことです。博美さんは、「せんせーい」と言って寄って来る子供たちを見て、かわいいなと思ったのです。
とはいえ、博美さんは短大卒業直後に保育士として働き出したわけではありません。1996年にイギリスへ渡り、23年間同地で暮らしました。博美さんが光子さんからの要請で帰国して保育の仕事をするようになったのは2019年です。博美さんは、帰国した当時の心境をこう語っています。「保育の通常業務は大切です。しかし、それを毎日くり返して行うことが、私に耐えられるのだろうか。その心配もあり、私は自分だからできることをやらねばならないと思いました」
通常業務の反復では飽き足らない。自分の個性を活かした保育をすることで、やりがいを感じられるようになりたい。博美さんはそのように考えたのでしょう。
博美さんにはやりたいことがあります。それは、キリスト教短期大学の卒業生やアーティストによる新開保育園の活用です。具体的な構想を、博美さんはこう語ります。「学校を卒業して間もない若い保育士さんにはワークショップの場として、アーティストには練習や発表の場として、ここを使ってもらいたいです。さらに、外国人のアーティストの受け入れ先としても、ここを活用したいのです。このように、場を提供することで、新開保育園の名を広げることができると思います。また、アーティストは、ここでの活動実績をかれらの履歴に加えることができるようになるでしょう。それに、子供たちにとっても、これは新たな経験になるでしょう。実は、この構想を帰国する前から考えていました。まだ、構想段階にあり、迷いもありますが、そのような希望を持っています」
この構想がまだ実現できていない理由について、「園児の数が足りていないし、保育園の今の業務で手一杯だし、キリ短大との人脈もありません」と、博美さんは説明します。
さらに、博美さんは、園児数の減少の問題に絡んで行政の問題についても、こう述べています。「3、4歳児があと5人いたら助かります。しかし、うちの園児数は逆に減っていく可能性があります。認可園に空きが出ると、年度の途中でも、園児がそこに移ることがあるからです。行政側が、認可・認可外問わず、均等に園児を振り分けてくれたらよいのですが……。今の状況では、やりたいことはなかなか実現できませんね」
このような悩みがある中でも、希望はあります。博美さんは希望を子供たちの中に見出しています。博美さんはそれについてこう語ります。「子供たちは、幼いからか、外国人のアーティストに対しても、物怖じせずに喋ります。また、私が、子供たちを地域のおじいちゃん・おばあちゃんの所へ連れて行くと、かれらは喜びます。子供は外部の人たちとつながることができるのです。子供を通して、我々と地域の輪を広げることができると思っています」
このように、地域のネットワークの重要性を感じ始めた博美さんは、2023年5月から、新開保育園のInstagramを開設しました。博美さんは、その写真プラットフォームを使って、毎日のように、保育園で園児たちが過ごす光景を発信しています。例えば、音楽や美術を楽しむ姿、散歩する姿などです。園児の後ろ姿や小さな手、かれらが描いた絵などがはっきりと写されています。これらの写真は、新開保育園の活動内容だけでなく、その場の雰囲気もよく伝えています。なお、博美さんは、プライバシーを考慮して、園児たちの顔ははっきりわからないように撮影しています。
終わりに
筆者が生まれた1978年から46年も続く新開保育園は、これまでたくさんの子供たちが過ごし、巣立った場所です。この長い歴史の中で、社会は変化し続けました。時代に合わせて経営を続けることは容易ではありませんでした。そのため、光子さんは様々な苦労をしてきました。しかし、彼女は、努力と前向きな性格で荒波を乗り越えてきました。筆者は、そのたくましさに感銘を受けました。また、様々な取り組みを行う博美さんのチャレンジ精神にも感動しました。
これからも、光子さんと博美さんは、力を合わせて、新しい世代に合った保育の在り方を探していくことでしょう。
今回、取材をさせていただくことができてよかったと思っています。今後も、新開保育園を定期的に訪ねたいと考えています。
新開保育園
1978年に南城市佐敷新開で託児所として創業。80年代に新開保育園となる。保育士4人、1歳から4歳までの園児15人(2024年度)。設定保育(英語やリズム、アートの制作、散歩などを通した情操教育)を行っている。
住所:南城市佐敷新開1−55
電話:098-947-1424
インスタグラム:アカウント「shinkai_hoikuen」 https://www.instagram.com/shinkai_hoikuen