1976年 11月
佐敷村がサヤインゲンの本土出荷を開始する。
1976年 12月
約500㎏のサヤインゲンが、週3回、佐敷村農協を通じて東京市場へ出荷される。
1991年 12月 18日
サヤインゲン選別機の試動式が、佐敷町農協の野菜集出荷場で行われる。
●佐敷町農協が、農協共同選別を推進するため、1990年度重点事業の1つとして導入した。
●6人の女性が、ベルトコンベアで運ばれるインゲンの選別作業に従事した。
●栽培農家の重労働緩和、産地面積の拡大、品質向上が期待された。
1991年 5月 25日
佐敷町農協の1991年度通常総会が開催される。年度事業の1つとしてサヤインゲンの栽培面積拡大に取り組むことを宣言する。
●佐敷町老人福祉センターで開催され、組合員や関係者約700人が参加した。
●その他の事業として、自己資本の充実、花卉農家の育成、貯蓄、共済事業の推進などに取り組むことを宣言した。
【コラム①】サヤインゲンの始まり
参考文献:広報さしき 第46号(1977年1月) PDF
不況の波をかぶっていた農家は、サヤインゲンをキビに代る換金作物の1つとして導入しました。佐敷村でサヤインゲンが軌道に乗りつつあった頃、伊原区、仲伊保区を中心とした15戸の農家が、毎日200ケース(400㎏)前後のサヤインゲンを出荷していました。当時、キロ当たり700円(農家手取り250円)前後の値段で取引されていました。
【コラム②】農家に求められる「考える農業」
参考文献:広報さしき 第73号(1983年2月) PDF
佐敷町内では、本土の端境期をねらった野菜の本土出荷をめざして、サヤインゲンやピーマンなどの野菜が栽培されるようになりました。
沖縄県の冬期は1~2月を中心に曇り空であり、降雨も多く、水分調整が問題とされ、栽培方法の改善が求められていました。『広報さしき』では、効率的に栽培するための方法が、次のように記されています。
(1)高うね、マルチ(土壌表面を麦わらなどで覆うこと)を努めて行なうこと
(2)降雨量、気温、日照時間等を考慮して、施肥量、カン水量を調整すること
(3)沖縄は冬場の日照時間が少ないので、過繁茂にならないよう、整枝摘葉に注意すること
(4)雨が多くなり、病害発生が多くなるので、殺菌剤などで予防に努めること
このように、地域の特色も考慮した「考える農業」が求められるようになっていきました。
【コラム③】一辺倒の農業からの脱却と課題
参考文献:広報さしき 第69号(1982年3月) PDF
さとうきび一辺倒の農業から脱却するため、佐敷町ではサヤインゲンの他にもオクラや花卉などの生産を行うようになりました。これらの作物は順調に生産され、都市近郊農業が着実に進められていきました。
しかしながら、地力の低下による減収が目立っていました。その原因は①化学肥料主体の農業が長い間行われて来たことと、②土壌がジャーガル土壌(沖縄県本島中南部一帯と宮古島の一部にある)で粘度が高く、保水力が高いということ、でした。
当時の山城時正佐敷町長は、これらについて、「地力の回復をはかるためには、畜産農家から排出される家畜ふん尿を利用して推きゅう肥を作り、農地へ還元し、ジャーガル土壌の欠点である重粘度性を改良しなければなりません」と施政方針のなかで示しました。(『広報さしき』第69号、第15回町議会定例会において)
沖縄総合事務局「沖縄の自然環境 3 土壌」
https://www.ogb.go.jp/nousui/nns/c1/dozyou