琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 澤岻南々帆
1. はじめに
私たちのグループは、南城市冨祖崎の知念進さんにインタビュー調査の協力をしてもらiいました。知念さんは1938年愛知県名古屋市生まれで、幼少期は大阪で育ちました。大阪の地で終戦を迎え、冨祖崎出身の両親とともに戦後沖縄へ引き上げてきたとおっしゃっています。途中那覇などに仕事で出たものの、ずっと冨祖崎に住んでいるそうです。多岐にわたる活動を通じて地域貢献に取り組み、現在は南城市老連の副理事を務め、また佐敷支部の支部長も務めています。私たちは、6月19日、24日、7月7日の計3回の聞き取り調査の中で、知念さんの戦争体験や地域の活動、老人クラブの事、字誌編集の事などたくさんの話を聞くことができました。私はその中でも特に地域の防災についての興味が湧きました。冨祖崎は、海抜が0~1mで非常に浸水しやすい地域です。話を聞いている中で、防災への取り組みや地域の団結力の高さを聞くことができました。「自分の身は自分で守れ」という言葉もあり、それはとても大切な事であはありますが、地域皆で防災に取り組むこともまたとても重要です。時代や環境の変化で地域との結びつきが弱まっていく中で、冨祖崎がどのように地域の力を一つに団結しているのかも考察していきたいと思います。
1-1. テーマと写真
テーマ:地域の団結力の秘密と防災の取り組み
1-2. 文献調査
この章では、2023年7月に発刊された字誌『ハマジンチョウの里 冨祖崎』を用いて調査したものを記します。
〇地域の環境
字冨祖崎の位置する場所の地形は平坦で、字津波古から字冨祖崎、字仲伊保まで馬蹄形で佐敷平野の東側に位置しています。冨祖崎公園から南西側海岸に沿って砂浜が300~350mほどの遠浅が続いています。字冨祖崎は海抜1m程度で、浜崎川、冨祖崎川、苗代川の3本が冨祖崎の海岸に流入しています。低地あるため、台風、津波、大雨時には水害対策が必要とされています。
〇自治組織
冨祖崎には「融和・協調・団結」という区民のモットーがあります。1983年に知念進区長が就任したころから盛んに使われるようになりました。区長をはじめ3役を中心に、有志会(評議員)が結束して民主的な区の運営を行っています。冨祖崎は5班に分かれており、各班から1名ずつ、全部の班から5名ずつ計10名で評議員が成り立っています。
〇吊るし鐘
1935年頃から酸素ボンベを利用した鐘が用いられています。赤ペンキで塗装し、4班の外間家裏の道路沿いと2班屋比久家入り口交差点沿いに設置しています。
合図内容と打数で合図の内容が分かるように決まっています。
1、有志会 3回
2、青年会 5回
女子青年会 2回
3、婦人会 4回
4、小中学生 3回
5、警防団 不明
6、共同作業 不明
7、火事発生(災害避難)連打
8、泥棒部落侵入時 連打
9、葬儀、葬式 1回
また、公民館の屋上と浜側にスピーカーが設置されていて区内全域に聞こえるようになっています。
佐敷冨祖崎区自主防災組織が平成22年5月に設立されています。自主組織としては、南城市の中で最も早い設立です。自主防災組織とは、地域住民が協力・連携し、災害から「自分たちの地域は自分たちで守る」ため活動することを目的に結成する組織のことです。日頃から災害に備えた様々な取り組みを実践するとともに、災害時には、災害による被害を最小限にくい止めるための活動を行っています。南城市では、地域住民などによる自主防災組織の設置を積極的に推進し、その育成強化を支援しています。
1-3. 新聞調査
この章では、冨祖崎が防災関係で新聞に掲載されたものを紹介します。
①2015年9月2日 沖縄タイムス
タイトル:【心肺蘇生法「身に付けて」 南城・冨祖崎で体験会】
8/16、夏季防災訓練が公民館で行われ、約50人が消火器の使い方を学び、心臓マッサージと人工呼吸を体験した。2011年以降、夏冬に実施され、夏は消火や救急が中心で、冬は津波・地震対策を学んでいる。
玉寄勉区長は「もう飽きたと思っても訓練することで、いざというときに対応できる。小学生からお年寄りまで、積極的に心肺蘇生に挑戦していた。」と、区民の熱心さに感心していた。
(新聞記事を引用)
②2012年11月26日 沖縄タイムス
タイトル:【津波避難150人訓練 海抜1㍍南城佐敷冨祖崎】
防災意識の向上と避難経路の安全性確認を目的に、区民約150名が大津波を想定した避難訓練に参加した。昨年(2011年)、東日本を襲った大津波を教訓に積極的な自主防災組織作りに努めている。区防災委員会が準備したリヤカーや車いすを使用しての訓練も行われた。
玉寄勉区長は「区民の防災意識に変化が出てきた。また、区民同士のきずなが深まり、介助の精神が芽生えてきた。」と避難訓練の手ごたえを語った。
(新聞記事を引用)
2. 聞き取りした事「地域で一つに災害対策」
この章では、インタビューしたものをまとめて記述します。
防災訓練は、火災予防の訓練が通常8月頃、津波を想定した避難訓練が11月頃実施されています。公民館の前の道路から道路に面した住宅街はかつてよく海水により浸水することが多かった場所です。現在字冨祖崎では、浸水対策として地面より1m50㎝ほど土台をあげて家を建てている。これによって、最近では被害はほとんど出ていません。
防災訓練では、東部消防団を呼び、蘇生法や消火器の使い方、バケツリレーなどを教わっています。消防車が来るまでの、初期消火を地域一丸でできるようにしています。
避難訓練では、逃げる場所を確認します。また、自力での避難が難しい住人を把握し、地域の人が彼らをサポートできるように連携の姿勢が見られます。5班に分かれており、各班では住人の家族構成やサポートの有無などが分かるように情報共有されています。
災害はいつ起こるか分からない。そのため、毎回の訓練で災害のテーマを決めて行っている。夜、街灯は停電しない限りともされているといいます。
避難場所は、冨祖崎公民館から600mほど離れた屋比久の高台にある屋比久児童公園広場です。
吊るし鐘は、地域では「鐘」と呼ばれています。葬儀の時は、朝6時ごろに「ゴーン」と1回、悲しげな音が流れます。間をおいて何回かならされるといいます。
3. 考察
海抜1mという地形や東日本大震災の被害を目の当たりにして、冨祖崎地区の人々が自治会を中心に熱心に防災・避難訓練に取り組んでいることが分かりました。また、過去の教訓から学び、現在は土台を地面より1m50㎝あげていることからも強い減災意識がうかがえます。私は、実技だけではなく公民館で防災に関する勉強会を行っていることに着目しました。災害に見舞われたときに、実技でやったことはもちろんいきてくるであろうし大切です。しかし、冨祖崎ではどの班にどのような人が住んでいて、災害の際にどのように介護が必要なのかを把握しているそうです。私が経験してきた避難訓練では、自力で逃げることが困難な人達の事を考える機会がなかったし、自分も正直考えたこともありませんでした。もし災害が起こった時に、自力での避難が難しい人を見捨てる人はいないだろうが、家に取り残されたままで救助が手遅れになってしまう事も考えられます。しかし、あらかじめ地域で情報供給をしておけば助けられる可能性が上がるでしょう。この防災教育というのを、もっと他の地域にも広めていきたいと考えます。
文献調査や聞き取りの中で、具体的な災害の記録をすることができませんでした。さらに知念さんの記憶の範囲で大きな災害はないと言います。少し浸水することがあっても、そこまでの被害を出さないのには、冨祖崎の人々の長年培われてきた防災意識や地域の取り組みがあるからではないかと考えます。
4. おわりに
今回、冨祖崎地区でのインタビュー調査を通じて沖縄の一地域のかつ個人の歴史に触れることができました。また、18年かかった字誌の発刊にも立ち会う事が出来てよかったです。文献資料を読むことはもちろん大切であるし、より濃い質問をすることもできると思うが、初めは冨祖崎に関する資料はほとんど読めていませんでした。しかし、だからこそ個人のライフヒストリーや先入観を持つことなく聞き取りができたように思います。3回聞き取り調査を行って、信頼関係も築くことができたと思います。話を聞いている中で、地域の結束は人々の安全な暮らしや健康維持に大きく関わっていると思いました。冨祖崎では毎週スポーツをやっていて時間があるときに誰でも来やすい工夫があります。もし将来自分がどこかの地域に住むとしたら地域とのかかわりを大切にしていきたいです。
参考資料
南城市防災ポータルサイト 自主防災組織 – 南城市防災情報ポータルサイト
冨祖崎字誌編集委員会(2023)
「ハマジンチョウの里 冨祖崎」