琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 澤田微羽
1. はじめに
1-1 冨祖崎の戦争とその中で見られた人々の助け合い
本稿では、戦争を幼いときに経験したある一人の男性のライフヒストリーの聞き書きから、「冨祖崎の戦争とその中で見られた人々の助け合い」を考察する。私が戦争時代の冨祖崎をテーマに設定したのは、事前学習で『佐敷町史4 戦争』を調べていたことがきっかけだった。今回の聞き取り調査にご協力いただいた楚南さんのお話からは主に疎開、米軍による沖縄住民の本島北部収容所への強制送還、そして戦後の冨祖崎の暮らしについて伺った。聞き取りを行う中で、冨祖崎の人々が難民として久志村大川の収容所に収容されていたことや、他の字から茅を分けてもらう代わりに塩を製塩して交換したという話を聞いた。私は、楚南さんの語りから疎開、強制送還、戦後などを冨祖崎の人々がどう生きていったのか、また助け合ってきたのかについて関心を持った。そこで、本稿では冨祖崎の戦争とその中で見られた人々の助け合いについて考察する。
*聞き取りした話者について
楚南幸明さん(昭和17年12月9日生)
インタビュー日時
・第1回:2023年6月17日(土) 10:30-11:30
・第2回:2023年6月27日(火) 15:00-17:00
・第3回:2023年7月11日(火) 15:00-17:00
・第4回:2023年7月20日(木) 10:00-12:00
・第5回:2023年8月3日(木) 15:00-15:35
1-2 選んだ写真の説明
これは、昭和32(1957)年8月13日に完成した「忠霊之塔」(現在は「慰霊之塔」)の除幕式の写真である。「忠霊之塔」は当時の区長と字冨祖崎の「有志会」(字の評議委員会)の協力の下で建設された。写真を見ると、「慰霊之塔」の後ろには馬天と新里の風景が広がっている。周りには花飾りが置いてある。これは、楚南さんによると、冨祖崎の人々の手作りであるという。よく見ると、花飾りの名札には「成人会」や「青年会」という文字が書かれているのがわかる。
昭和60(1985)年頃に「忠霊之塔」から「慰霊之塔」に建て替えられ、東向きから南向きになった。当時の区長は楚南さんの父親の従兄弟だったが、「慰霊之塔」の向きを変えた理由は楚南さんが本人に聞いてみても不明であるという。「忠霊之塔」から改名したのは、「君に忠、親に孝」という戦時中の軍国思想が現れており問題とされたためであった。
現在、「慰霊之塔」は字が管理している。第1回目のフィールド調査で「慰霊之塔」周辺は綺麗に清掃されていた。楚南さんによれば、それは字の給仕(1)の方が毎朝「慰霊之塔」を清掃しているためだった。
(1) 楚南さんによれば、給仕というのは有志会などの集まりの時にお茶やお菓子を用意したり、公民館の清掃を担当したりする人であるという。『ハマジン
チョウの里 字誌 冨祖崎』によれば、「冨祖崎区規約」の1968年に制定施行したものと2016年に改正施行したものにおいて、それぞれ区の役職員の一人と
して「給仕」が記述されている(冨祖崎区字誌編集委員会<編>2023「冨祖崎区規約の変遷」『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区, pp.68-79)。
楚南さんによれば、写真中央の男性が誰であるかは特定できないという。楚南さんによれば、この写真が撮影された年は塩田が廃止された後であり、男性は塩田の作業をしているわけではないという。『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』(冨祖崎区字誌編集委員会, 2023)にも掲載されているが、撮影時期は不明である(2) 。写真左奥の舟は漁業をするためのサバニ(くり舟)である。写真左手の家屋の隣には散髪屋があったという。
『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』によれば、塩田は戦前から玉城村船越の通称船越上門(フナクシイージョー)(3) の個人所有であった(4) 。楚南さんによれば、戦後は「糸数嘉平」(元々は川崎姓だったが、戦後直後は糸数姓になった)から、冨祖崎の字共有地として、字が塩田を買い取ったという。
楚南さんによれば、戦前の冨祖崎(年代は不明)では全体の3分の1である36世帯が製塩業に従事していたという。いくつかの団体が土地代を支払いながら製塩業を行っていた。戦後、冨祖崎では家の屋根を葺くための茅が必要だったため他の字から分けてもらった。そのお礼として塩を作って配ったという(5) 。楚南さんによれば、茅は山にしかないもので、もし冨祖崎にあったとしてもヤギの草に使わなければならなかったという。海側の地域である冨祖崎には山の茅はあまりなかったため、他の地域から茅を分けてもらっていた。その代わりに、自分たちの地域でできる製塩業によって塩を交換した。このことから、戦後の冨祖崎と他の地域とは足りないものを補い合っていたこと、つまり助け合っていたことがわかった。
(2)冨祖崎区字誌編集委員会(編)2023「冨祖崎集落の全景」『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区, p.10より参照.
(3)上門家(イージョー家、戸主:川崎智久)は、船越第一の門中の宗家として栄えているが、その何代目かが財産を築いて、「富名腰富豪」(フナクシウェー
キー)と呼ばれる島尻有数の大地主となった(船越誌編集委員会<編>2002「第6章 文化 14,船越の文化遺産」『玉城村 船越誌』玉城村船越公民館, p.348)。
(4)冨祖崎区字誌編集委員会(編)2023『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区, p.153より引用.
(5)佐敷町史編集委員会(編)1984『佐敷町史2 民俗』佐敷町役場, p.181より参照.
2. 冨祖崎の人々が経験した疎開、強制送還、戦後
2-1 県外への疎開
『沖縄県史(各論編 第六巻 沖縄戦)』によれば、「1944年6月25日のサイパン島放棄とマリアナ諸島の陥落という事態を踏まえ、政府は同年7月7日に緊急閣議を開いた。『沖縄に戦火が及ぶ公算大』として沖縄県民の県外疎開(引揚)の方針を決定した。この決定に基づいて、本島、石垣島、宮古島、奄美大島などから老幼婦女子を本土(九州)へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を疎開させる計画が指示された」という(6) 。
楚南さんによれば、当時は学童疎開が主で一般疎開はなかなか認められなかった。また、学童疎開も沖縄県民からは「嫌がられた」という。その理由は、「どうせ死ぬのであれば沖縄で死にたいと考える人が多かった」からだという。『佐敷町史4戦争』によれば、佐敷村の学童疎開では引率者家族・世話人を含め342人が宮崎県の高千穂町と日之影町、一般疎開では412人が熊本県、宮崎県、大分県などに疎開した(7) 。楚南さんによると、冨祖崎からは40人ぐらいが学童疎開に出された(8)が、一般疎開では2世帯しかいなかった。そのうち1世帯は楚南家で、もう1世帯は傷痍軍人とその家族だった。楚南家は、祖父が佐敷村の役人で疎開命令を受けていたという。当時1歳だった楚南さんは、母と兄弟3人で疎開した。父と祖父母は、そのまま沖縄に残ったという。
沖縄県民の多くは熊本県や大分県、宮崎県に疎開していた。1944年10月、楚南さんたちは「コウシュウ丸」(9)に乗船し、宮崎県の山田町(現都城市)に疎開した。そこには1年半滞在した。楚南さん自身はまだ幼かったため、疎開先のことは記憶にない。しかし、先輩の体験談によると、疎開先でも戦時下で食糧が不足していた。学童疎開の代名詞として「やーさん、ひーさん、しからーさん」(ひもじい、寒い、寂しい)(10)という言葉がある。疎開した学童はとにかくひもじいために、道に落ちている果物を取って食べたり、他の家の垣根から柿を採って泥棒扱いされたりしたという。
戦後、楚南さんは、母親にいつか山田町でお世話になった家にお礼しに行くように言われていた。そのため、2016年か2017年、姉や奥さんと一緒に観光も兼ねて恩返しをしに行ったという。また、学童疎開から帰ってきた人々は、疎開先の宮崎県高千穂町の人々との会を作り、交流を続けていた。2009年1月19日、高千穂町と南城市が姉妹都市盟約を結び(11)、児童の交流などを続けている。また、「さしき健走会」(12)が高千穂町へ行くと町役場の人々が夕食会でおもてなししてくれるという。一方、高千穂町の人々が、南城市を訪れた時には南城市がおもてなししなければいけないのだが、基本は「さしき健走会」が行っている。
(6)沖縄県教育庁文化財課史料編集班(編)2017『沖縄県史(各論編 第6巻 沖縄戦)』沖縄県教育委員会, p.373より引用.
(7)佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.35を参照.
(8)佐敷町史編集委員会(編)1999「表1-② 沖縄戦当時の佐敷の人口分布」『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.36を参照、冨祖崎では学童疎開が40人、一般疎開が
37人だった。
(9)楚南さんとともに一般疎開で疎開した叔父の楚南幸徳さんの手記より参照した(楚南幸徳2023「楚南幸徳の一般疎開」冨祖崎区字誌編集委員会(編)『ハマジ
ンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区, p.308)。「船の名前はコウシュウ丸と覚えている」とあった。楚南さんによれば、カタカナ表記である理由は船名に
ついての記憶が曖昧だからであるという。
(10)方言の共通語訳は、”琉球新報DIGITAL,「飢えをしのぐために盗んだ 学童疎開の体験語る」2019年6月13日午前11時28分, 閲覧:2023年8月6日午前7時58
分.”を参照.
(11)高千穂町と旧佐敷町は、1944年の学童疎開を縁に幅広い交流を続け、1995年には戦後50年を記念して、姉妹都市契約を締結していた。2006年に市町村合
併により南城市が誕生したため、改めて2009年1月19日に高千穂町と南城市が姉妹都市盟約を結ぶに至った(南城市「高千穂町・南城市姉妹都市盟約調印
式」『2009年2月号 広報誌』, p.2, 2009年2月5日発行, 閲覧:2023年8月23日午後23時39分)。
(12)楚南さんによれば、この組織は平成2年に結成されたという。基本は月に1回、マラソンの合同練習を行っており、沖縄県や県外のマラソン大会に参加し
ていた。資金集めのためにサトウキビの植え付けや収穫、ゴミ拾いなどのボランティアも行っていた。現在は新型コロナの関係であまり活発に活動してい
ない。元々は佐敷町役場の職員だけが会員となっていたが、その後佐敷町の住民は誰でも参加可能となった。2006年の町村合併で南城市が誕生してからは
玉城村や大里村の人々も「さしき健走会」に入会することができるようになった。しかし、名称は「さしき健走会」のままであるという。楚南さんも平成3
年に入会しており、10年以上副会長を務めていたという。南城市の「なんじょう日記」によれば、「さしき健走会」は2022年11月6日に「第19回尚巴志
ハーフマラソンin南城市大会」に出場した県外のランナーのために歓迎会を開いたという。歓迎会に集結したのは宮崎県高千穂町、熊本県芦北町のラン
ナーや、福岡県のマラソンチーム「ミズホ」のメンバー、その他千葉県や岐阜県、大阪府からのランナーも参加した(南城市「さしき健走会が県外ランナー
を歓迎。3年ぶりの交流会(2022/11/06)」『なんじょう日記』, 最終更新日:2022年11月17日, 閲覧:2023年8月24日午後12時53分)。
2-2. 米軍による北部への強制送還
『南城市の沖縄戦』によれば、米軍は1945年の6月初旬から中旬にかけて、佐敷村内では屋比久と新里、伊原に民間人収容所を設置し、知念半島や本島南部で捕虜になった大勢の避難民をこれらの収容所に入れた(13)。その他、冨祖崎、仲伊保、手登根の焼け残った民家にも避難民がいたという。北部に送還される前、楚南さんの祖父は佐敷村の役人を辞職しており、他の避難民とともに冨祖崎で暮らしていた。当時の冨祖崎はほとんど焼け野原であり7世帯の家が辛うじて焼け残っているという状態だった。
楚南さんによると、日本軍第32軍の高級参謀である八原博通陸軍大佐が避難民に紛れて楚南家に滞在していたという。八原博通の手記によれば、八原は「避難民に混じって、北方に脱出する」(14)つもりでいたという。また、八原は1945年の6月中旬に摩文仁の洞窟にいた頃、鈴木少将から「残存の部下を率いて、敵線を突破し、国頭地区に転進して、同方面にある旧部下第二歩兵隊主力をあわせ指揮し、戦闘を継続したい考えである。貴下の考えを聞きたい」(15)との手紙を受け取っていた。これらのことから、八原は避難民に紛れて沖縄の北部に脱出することで米軍との戦闘の継続を狙っていたのではないかと考える。
『宜野座村誌(第1巻 通史編)』によれば、米軍は沖縄上陸作戦と同時に本土進攻に備えて基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯は無人地帯とした(16)。このため、米軍の管理下に入った中南部の住民は北部東海岸(現在の金武町中川、宜野座村全域、旧久志村の大浦崎から瀬嵩)の収容所へ移動させられた。『佐敷町史4 戦争』によれば、佐敷村内に収容された村民も、1945年7月13日から8月10日の間、北部の旧久志村に移動させられ、二見以北の7か所の村落で生活することになったという(17)。冨祖崎の人々は佐敷、外間、津波古の人々とともに、旧久志村大川に送還された(18)。楚南さんの父や祖父母も大川に送還されたという。大川ではマラリアの蔓延や、川の水を口にして感染症にかかるなど衛生状況も悪かった。大川に収容された人々の1日の食事量は、おにぎり1、2個であった。米軍の配給で缶詰や乾パンが手に入ることはあったが、食料は全く足りなかった。楚南さんが先輩から聞いた話によれば、夜は家族の食糧を確保するために大川から本島中部まで行って畑から芋を盗った人もいるという。
本島北部に送られた佐敷村民5,600人のうち703人がマラリアで死亡した。マラリアで死亡した冨祖崎出身者は24人であった。楚南さんの祖父母も、マラリアに感染し、亡くなられた。このような大川の環境を楚南さんは「地獄だ」と述べている。マラリアの死亡者は大川にて埋葬され、人々はその埋葬作業に追われたという。当時墓を作ることができなかったため、その後、骨を掘り起こしに行くこともあったという。もし埋葬した場所がわからなかった場合、遺骨はそのまま見つからなかっただろう。楚南さんは、4、5歳の頃に祖父母の遺骨を収集しに大川に行った。二人を埋葬した場所には、父親が石を置くことで目印を付けていたため見つけることができたという。そして、遺骨は厨子甕に納められたという。
冨祖崎の人々は収容所のあった大川において、一度村芝居を行ったことがあるという。演目は「伊江島ハンドー小」や「貞女と孝子」である。当時、大川には「与座のタンメー」という、沖縄芝居の役者「与座一行(与座兄弟)」の叔父に当たる人がいた(19)。楚南さんによれば、彼はそこで冨祖崎の人々に「馬山川」(20)という踊りを指導したという。戦後の冨祖崎では、文化祭や公民館建設、改装などの集落行事があれば「馬山川」を披露するようになった。そして、その地域芸能は冨祖崎の名物となった。
(13)『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会(編)2021『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会, p.523より引用.
(14)八原博通2015「第4章 脱出」『沖縄決戦―高級参謀の手記』中央公論新社, p.462より引用.
(15)八原博通2015「第3章 戦略持久戦」『沖縄決戦―高級参謀の手記』中央公論新社, p.414より引用.
(16)宜野座村誌編集委員会(編)1991『宜野座村誌(第1巻 通史編)』 宜野座村役場, p.443より引用.
(17)佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.40より引用.
(18)佐敷町史編集委員会(編)1999「表1-③ 久志村に送られた佐敷村民」『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.40より参照.
(19)冨祖崎区字誌編集委員会(編)2023「第10章 文化、スポーツ」『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区, p.273より参照.
(20)大正・昭和期の沖縄芝居で完成した舞踊喜歌劇である。沖縄芝居の役者・伊良波尹吉の作品の一つである(琉球新報DIGITAL「馬山川」,更新:2003年3月
1日午前0時00分, 閲覧:2023年8月24日午後13時43分)。
2-3. 戦後の冨祖崎
1945年10月以降、米軍は北部の難民収容所から中南部の住民の帰村を許可した(21)。佐敷村民の帰村はそれより遅れ、1946年1月7日から移動を開始し14日までに終了した。しかし、津波古を始め新里、小谷一帯が米軍基地になっていたため、佐敷村民はすぐには郷里に帰ることができなかった。佐敷村民は知念、玉城、大里各村に分散させられた。楚南さんによれば、冨祖崎の人々も米軍の基地建設のために入村できず、1946年1月5日(22)に大里村大城へ移動させられたという。戦後はまず一部の人々が選抜されて冨祖崎に入村し、住まいを作り人々に住まわせるという役目を果たした。これは1946年1月22日に佐敷や手登根、冨祖崎への派遣を許可された入村準備農耕隊である(23)。冨祖崎の人々は大城で2ヶ月滞在してから、3月25日にようやく冨祖崎に戻ることができた。同年10月に小谷を最後に全ての村落の移動が終了した頃、学童疎開の一行も帰ってきた(24)。宮崎県に疎開していた楚南さんたちも、同じ時期に冨祖崎へ戻ったという。
楚南さんによれば、戦後でまず大事なのは住まいだった。家を作るための茅(チガヤ、沖縄では”まかや”という)が必要だったが、それは山にしかなく海側の冨祖崎にはあまり自生していなかった。そのため、茅は他の字と交換することになり、そのお礼として塩を作って渡したという。また、冨祖崎に戻っても農作物はほとんどなく畑を耕して芋を植えていたという。芋を育てている間は米軍からの配給物資でなんとか生活していたが、それでも食糧不足の問題からは抜け出せなかった。当時の食事はおにぎりが1個だったが、その後芋が育ってからは生活ができるようになった。楚南さんによると、芋は命の恩人だった。戦後は各家庭に豚も3、4頭おり、母豚を養豚して子豚を売りに出していた。戦後の混乱期においては、定職がなく稼ぐことができたのは軍作業のみだったという。
1954年6月19日、琉球政府によって戦後初めての計画移民である南米ボリビアへの初回移民272人が送られた(25)。楚南さんの叔母夫婦もボリビアへ開拓事業をするために渡航した。しかし、叔父が風土病に倒れ、叔母は子供とともにボリビアからブラジルへ渡った。その後、叔母は恩納村の喜瀬武原に帰郷した。そして、そのまま沖縄で生活した後亡くなったという。楚南さんの従兄弟は移民先でも「コロニア」(26)の学校で日本語を学んだため、「何とか日本語教育は受けていた」という。2003年頃、従兄弟は沖縄に戻るが、高学歴ではなかったため仕事探しに苦労した。
(21)佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.40より引用.
(22)『佐敷町史4 戦争』と書かれていた佐敷村民の移動期間の日付とは異なる。
(23)佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.555より参照.
(24)佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場, p.40より参照.
(25)佐敷町史編集委員会(編)2004『佐敷町史5 移民』佐敷町役場, p.7より参照.
(26)琉球政府により、1954年の第1次入植者から1964年の第19次入植者まで11年間に送り出された場所が「ボリビア・コロニアオキナワ」(サンタクルス州)と
いう。その入植者の数は3231人(他説あり)だった(佐敷町史編集委員会<編>2004『佐敷町史5 移民』佐敷町役場, pp.7-8)。
3. 考察
冨祖崎の人々は、疎開や北部への強制送還、マラリアの感染や戦後の生活苦といった出来事に翻弄されながらも懸命に生きてきた。疎開先においては、食糧不足によって学童が他の家の柿を取って食べたという語りから見るように、戦時下では誰もが自分の生命を守るのに精一杯な状況だった。南城市と宮崎県高千穂町との交流には、食糧事情などが厳しい戦時下でも疎開を受け入れてくれたことへの感謝が表れていると考える。
北部収容所への強制送還について、宮崎へ一般疎開をしていた楚南さん自身は送還されていないにも関わらず、語られるお話からは当時の大川の過酷な環境を想像することができた。戦争の語りは、私たち若者に「戦争は人を地獄に突き落とす」ということを再確認させる。そして、その語りは私たちが現在起こっている戦争と今後起こり得る戦争に対して、平和を訴え続ける土台になるのだと考える。大川でマラリアの感染症に苦しめられた人々だったが、そこでは一度村芝居が行われた。これが実行できた理由は不明であるが、村芝居という娯楽によって疲弊していた冨祖崎の人々を元気付けようとしていたことが考えられる。
聞き取り調査によって、戦後復興期において、冨祖崎の人々が住まい作りから畑仕事へと生活基盤を整えていった様子がわかった。「1. はじめに」で先述したように、冨祖崎の人々が家の屋根を葺くため他の字と茅と塩を交換していた。海側の地域である冨祖崎には茅があまり自生しておらず、あったとしてもそれは山羊の餌にされていた。そこで、陸側の地域など茅が自生している他の字に分けてもらった。冨祖崎の人々はそのお礼として、自分たちの地域にある塩田において製塩し、塩を配った。戦後復興期、自分たちが持っているものによってお互いの足りないものを補い合う「助け合い」がみられた。
冨祖崎の人々は、戦争によって食糧不足や感染症の流行などの過酷な状況に追い込まれた。しかし、そのような状況下でも人々がお互いを支え合い、助け合う場面を見ることができた。
4. おわりに
「慰霊之塔」(当時は「忠霊之塔」)が完成した時に、冨祖崎の青年会や成人会から手作りの花輪が贈られたという話が印象的だった。「慰霊之塔」の建設は当時の区長や有志会だけでなく、冨祖崎全体にとって喜ばしい出来事だったと考える。現在は字の給仕さんが毎朝掃除をなさっていたり、冨祖崎の人々が正月拝みの時に拝んだりしている。このことから、慰霊之塔は今でも冨祖崎の人々の心の拠り所であり、大切にされていることがわかった。
楚南さんのお話から戦争によって何もかもが破壊され、冨祖崎の人々の多くが苦境に追い込まれたことがわかった。戦後でも戦争の影響で多くの人が生活苦に陥り、海外に移民として渡った人も風土病によって死亡するなど、苦難は避けられなかった。戦争は人々が築き上げた生活などの全てを破壊し奪い去ること、その影響は戦争終了後も続くことは忘れてはいけない。
楚南さんは終戦時3歳だった。このため、お話ししてくださったことはほぼご両親か先輩方からお聞きになったお話だった。そのため、楚南さんの戦争時代の記憶について伺うのはとても難しいと感じた。しかし、『沖縄県史』や『佐敷町史』などの文献資料では知ることのできない冨祖崎の歴史について伺うことができた。冨祖崎の歴史の至る所に知られざる人と人との出会いがある。楚南さんの祖父が日本軍の高級参謀と同じ楚南家で暮らした話や、与座兄弟の叔父に当たる人が大川の収容所で「馬山川」を冨祖崎の人々に教えた話などがそうである。先人の語りから地域の歴史を受け継ぐことで、人々は自分たちの住む地域に対してその歴史の深みを感じ、愛着と誇りを持つことができる。そして、そのことは地域の今後を担う世代が地域社会をさらに発展させていくことにつながるのだと考える。お忙しい中大変貴重なお時間を割いてくださった楚南さんに感謝を申し上げたい。
参考文献・資料
<文献>
沖縄県教育庁文化財課史料編集班(編)2017『沖縄県史(各論編 第6巻 沖縄戦)』, 沖縄県教育委員会.
宜野座村誌編集委員会(編)1991『宜野座村誌(第1巻 通史編)』, 宜野座村役場.
佐敷町史編集委員会(編)1984『佐敷町史2 民俗』佐敷町役場.
佐敷町史編集委員会(編)1999『佐敷町史4 戦争』佐敷町役場.
佐敷町史編集委員会(編)2004『佐敷町史5 移民』佐敷町役場.
『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会(編)2021『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会.
冨祖崎区字誌編集委員会(編)2023『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区.
八原博通2015『沖縄決戦―高級参謀の手記』中央公論新社.
<資料>
南城市「さしき健走会が県外ランナーを歓迎。3年ぶりの交流会(2022/11/06)」『なんじょう日記』, 最終更新日:2022年11月17日,
閲覧:2023年8月24日午後12時53分.
琉球新報DIGITAL,「飢えをしのぐために盗んだ 学童疎開の体験語る」, 更新:2019年6月13日午前11時28分,
閲覧:2023年8月6日午前7時58分.
琉球新報DIGITAL「馬山川」, 更新:2003年3月1日午前0時00分, 閲覧:2023年8月24日午後13時43分.