1.はじめに
前回は、玉城村文化協会及び玉城芸能協会の組織形態や活動内容、両協会の中での湧上さんの活動を説明しましたが、今回は、玉城文化協会と南城市文化協会連合会、南城市文化協会について同様の説明をします。
ここで少し前回のおさらいをしておきます。玉城文化協会の前身は、玉城村文化協会(旧玉城村時代)および玉城芸能協会(南城市誕生後)です。玉城村文化協会は、南城市誕生と同時に一度休会となるも、玉城芸能協会として再組織化し、後に、芸能部門以外の活動が復活したことで玉城文化協会となりました。湧上さんは、玉城芸能協会で2代目会長に就任し、玉城文化協会でも会長職を務めました。
一方、2006年の南城市誕生にあわせて、あらたに南城市文化協会連合会が発足しました。同会は、旧4町村(佐敷町、知念村、大里村、玉城村)の協会から派遣された会員により運営され、4協会が参加する文化事業を実施することになりました。旧4町村の協会は、南城市文化協会連合会の事業と並行して、各々の事業も実施することになりました。
南城市文化協会連合会は後に、改称され南城市文化協会となります。南城市文化協会と玉城文化協会は併存した状態が続きますが、2017年に旧4町村の協会が南城市文化協会に統合されることになり、玉城文化協会も解散することになりました。
玉城文化協会が解散するまでの流れをまとめると次のようになります。
1996年 玉城村文化協会
2006年 南城市文化協会連合会芸能部玉城支部
2007年 玉城芸能協会(南城市文化協会の下部組織)
2011年 玉城文化協会(南城市文化協会の下部組織)
2017年 南城市文化協会に統合され解散。
本稿では、赤文字の部分の歴史を扱います。
なお、本稿で紹介する情報のほとんどは、前回同様、当時の各協会の事務資料および湧上さんへの聞き取り調査で得た情報で構成されています。
2.玉城文化協会
(1)組織
2011年5月7日の総会で、玉城芸能協会は玉城文化協会となり、玉城村時代の玉城村文化協会と同等の組織に復活することができました。一時は、会長不在のために休会状態となった組織が、完全に元に戻ったのです。本節では、復活した時点の組織について説明します。『くむこ玉城 玉城文化協会のあゆみ』[玉城文化協会2017:91-92]によると、2011年度の役員は、次の通りです。
この体制の特徴は次のようにまとめることができます。
・芸能部に所属している役員は9名で、学術文化部3名、美術華道部1名、書道部1名と比べると多い。
・研究所・老人クラブ・道場・練道などに所属している役員は、7名いる。全役員(15名)の約半数を占めている。
・学術文化部から副会長を出している。
このように、玉城文化協会では、設立時点で、芸能と学術文化の両部門の会員が役員として配置されていることがわかります。これは、もはや、組織体制上も芸能協会ではないということを意味しています。
(2)活動内容
玉城文化協会が復活できたとはいえ、大きな課題が残っていました。それは会員を増やすことでした。2012年4月21日に開催された総会の会長挨拶で、湧上さんはその課題について次のように語りました。
知念・佐敷・大里の三つの地域文化協会は、共に会員数が200名以上であるのに対し、玉城文化協会の会員数は100名ほどであります。(中略)玉城文化協会の活動の活性化には、会員を増やすことが必要であります。私たちの周辺には、文化に関心のある方々が大勢おられます。また、玉城に文化協会が無かったことから、他地域の文化協会に入会して活動している方々もおられます。そういう方々に対し、玉城文化協会に入会するよう、会員の皆様から呼び掛けをして頂きたい。
会員を増やすには、活動内容を充実させる必要がありました。そのため、玉城文化協会は、様々な活動を行っていくようになりました。以下に、主な活動を紹介します。
【芸能公演・文化作品展】
・2011年11月27日 第5回芸能公演・第1回文化作品展。
・2012年6月17日 小谷園慰問公演。
・2012年12月2日 第6回芸能公演・第2回文化作品展。
・2013年9月15日 小谷園慰問公演。
・2013年11月17日 第7回芸能公演・第3回文化作品展。
・2014年9月14日 小谷園慰問公演。
・2015年2月22日 第8回芸能公演・第4回文化作品展
・2015年9月25日 仁愛療護園慰問公演。
・2015年12月13日 第9回芸能公演・第5回文化作品展。
・2016年9月2日 仁愛療護園福祉交流公演。
・2016年11月13日 第10回芸能公演・第6回文化作品展
【視察研修(史跡・戦跡・歌碑廻り】
・2011年9月4日 史跡廻り:大里地区(大城按司眞武公の墓、ほか5か所)。講師:新城啓八。
・2013年6月16日 史跡廻り:南城市佐敷地区(外間子の墓、ほか10か所)。講師:新城啓八。
・2013年9月22日 戦跡巡り:嘉数高台、シュガーローフヒル、バックナー中将の碑、平川壕出土カノン砲、前川の住民避難壕等。ガイド:座波次明。
・2014年6月22日 史跡廻り:南城市知念地域史跡(ティダ御川、斎場御嶽、知念城跡等)。ガイド:新城啓八他6名。
・2014年9月28日 歌碑廻り:国頭(許田の手水、豊年口説の碑、伊野波節の碑等)。ガイド:座波次明。
・2015年8月30日 歌碑廻り:読谷・恩納方面(特牛節の碑、恩納ナビーの琉歌碑、仲間節の碑等)。ガイド:座波次明。
・2016年7月30日 東御廻りの拝所をたずねて:琉球王府主祭のルート。ガイド:新城啓八他7名。
・2016年9月3日 歌碑廻り:国頭(えんどうの花の歌碑、国頭サバクイの碑、謝敷節の碑等)。ガイド:座波次明。
【文化講座】
・2011年6月26日 「琉歌からみた《恩納ナビーの生涯》」講師:湧上洋
・2012年9月8日 「琉球王府と玉城間切の関わり」講師:輝広志
・2013年8月11日 「琉歌雑学」講師:幸喜徳雄(学術文化部)
・2014年2月22日 「島中のおもろ」講師:照屋理・名桜大学講師(当時)
・2015年8月16日 「尚巴志の三山統一について」講師:山里昌次・南城市教育委員会文化課係長(当時)
・2015年3月30日 「玉城間切と玉城朝薫」講師:照屋理・名桜大学上級准教授(当時)
これらの活動のポイントをまとめると次のようになります。
・芸能公演と文化作品展は同日・同所で開催された。これは、①来場者が様々な文化に触れることができるということ、②単独開催の文化作品展よりも展示物が多くの目に触れられるようになるということ、を意味している。
・視察研修(史跡・戦跡・歌碑廻り)が年に1~2回開催され、芸能協会から文化協会への脱皮がなされた。
・視察研修には、講師やガイドとして学術文化部員が活躍した。
・歌碑廻りは、琉歌に関する知識を増やすことだけが目的で実施されたのではなかった。芸能部門の会員が歌碑の傍で「その琉歌と関係のある芸能」を披露した。
・文化講座では、外部講師だけでなく、会員(湧上さん含む)も講演した。
なお、湧上さんは、芸能公演では歌・三線で参加し、文化作品展には写真や琉歌を出品していました。
(3)解散および南城市文化協会への統合
湧上さんは、2015年の総会後の懇親会で「会長を引き受ける方がいなく引き続き1年間頑張って会長を務めることになりました」と述べましたが、その翌年から、各地域の文化協会を解散して南城市文化協会に統合することが検討されるようになりました。そして、慎重な議論を経て、4地域が統合されることが決定しました。その結果、玉城文化協会の活動は2016年度でもって終了することになりました。これで、自動的に湧上さんは会長職から解放されることになりました。
玉城文化協会の解散時、それまでの収入(会費、補助金、事業収入、繰越金)から支出(運営費、消耗品費、事業費)を引いた残金は、芸能公演の開催と解散総会、記念誌の発行の費用に充てられ、最終的に収支差し引きゼロとなりました。
記念誌『くむこ玉城 玉城文化協会のあゆみ』は、次のような構成の内容の濃いものとなっています。
第一部 沿革(総会や評議委員会、行事などの履歴)
第二部 部活動・部の紹介(各部門の部長による回想録)
第三部 講演会・文化講座・視察研修(講師・演題・視察地・実施日と記録写真)
第四部 総合文化展(記録写真)
第五部 各地に残る琉歌(玉城の各地に残る琉歌の解説)
第六部 文化協会賞(受賞名・受賞者名・受賞部門・受賞年の一覧)
第七部 年度別収支決算書(収入と支出の細目が記された年度別の決算書)
第八部 歴代役員(年度別の役職・氏名の一覧)
第九部 平成28年度会員名簿(氏名と研究所・道場などの所属組織名)
第十部 玉城文化協会会則(2011年4月1日以降施行の会則)
第十一部 作品集(会員の創作による琉歌集)
第十二部 資料集(玉城村時代から発刊された会報の選集)
この通り、同記念誌は、これまでの協会の歩みを俯瞰できる充実した内容を持っています。しかも、約170頁もある大作となっています。ところが、大作にもかかわらず、同記念誌は短期間で制作されました。その点について、編集委員長の幸喜徳雄氏は、編集後記で次のように記しています。
本冊子は、平成29年2月6日~7月末日まで、約5ケ月間という超短期決戦で刊行するという評議委員会の命を受け、編集委員に会長湧上洋、副会長新城啓八、副会長座波次明、阿嘉広雄、平良幸泉、幸喜徳雄という編集作業に長けた逸材に恵まれ、校正は3回までという時間的制限のなかで刊行致しました。(中略)短期間に刊行できた大きな要因は、長年玉城文化協会の中枢で活躍なされた湧上洋氏所有の膨大な資料を提供されたことに尽きる。
南城市玉城文化協会2017『くむこ玉城 玉城文化協会のあゆみ』
湧上さんは、この記念誌についてこう語っています。「編集委員長の幸喜さんが中心となって、短期間で編集しました。膨大な情報を整理して、章立てに合わせて原稿を作成する作業は大変でした。幸喜さんの能力と努力によるところが大きかったです。内容の濃い記念誌が出来上がったので、文化協会の最後の事業として、記念誌を制作したことは、よかったと思います。私も、保管していた資料を提供することで編集に貢献できたことを嬉しく思っています」
また、湧上さんは、玉城文化協会が解散するまで会長を8年間続けましたが、「体調の問題もあり、途中で辞めたくなったりもしましたが、多くの有能な方々に助けられ、良い形で幕を下ろすことができたので、今となれば、最後まで続けてよかったと思っています」と話しています。
(4)インタビュウ
本節では、インタビュウ形式で玉城文化協会時代を振り返ってみます。
――玉城芸能協会を発展的解消して、玉城文化協会を復活させたというのは、湧上さんの功績の1つだと思います。
これについては、市の文化協会連合会も熱心でした。市のほうから呼びかけがあって、会合を持ちました。そこで、市の文化協会会長・高良さんと事務局長・浦崎さんから「なんとかして、玉城芸能協会を、元の文化協会の形に戻してくれないか」と依頼されたのです。高良会長は「玉城には、芸能以外の分野でも優秀な人はたくさんいるのだから、このままではよくない」と力説なさりました。この時、すでに、私も、芸能部だけの活動ではなく、その他の文化活動も行わねばならない(つまり、玉城村文化協会の活動に戻さねばならない)と考えていたので、高良会長と浦崎事務局長に同意しました。
――その後、文化協会復活に向けてどのようになさりましたか。
芸能以外の文化活動を行う玉城地域住民に声をかけることにしました。自らが声をかけるだけではなく、会員にも協力を依頼しました。しかし、すぐに玉城村文化協会の元会員の方々が戻ってくることはなく、芸能以外の新たな会員を増やすことは簡単ではありませんでした。ところが、しばらくすると、造詣の深い強力なメンバーが次々と学術文化部に入ってくるようになりました。また、盆栽を趣味とする方々が入会してくれるようになりました。かれらは、玉城の文化作品展に加えて、南城市の総合文化展という、規模の大きい文化展で発表できるようになるということを知ると、入会に前向きになってくれました。
――1人でも多くの人に、自分の盆栽を見てもらいたいという思いがあったのでしょうね。
そういうことだと思います。出品する人は、皆、自分の作品をより多くの人に知ってもらいたいと思っています。その思いを汲んで、創意工夫をしていく必要がありました。芸能公演と文化作品展の同時開催は、その工夫の1つです。
――玉城芸能協会から玉城文化協会となり、芸能以外の部門が充実するようになりましたが、役員構成の変化からもそれがわかります。2011年度には、学術文化部の座波次明さんが副会長に就任なさりました。また、学術文化部の幸喜徳雄さんと美術華道部の新城啓八さんが評議委員になりました。
学術文化部、美術華道部には素晴らしい方々が入会しました。座波さん、新城さん、幸喜さんには会の役員にも就いてもらいました。また、歌碑廻り・戦跡巡り・史跡巡り・文化講座の講師としても活躍してくれました。かれらのような会員に助けられて、会長を続けることができたと思っています。
――歌碑巡りでは、ただたんに歌碑を訪れその歌や作者にまつわる歴史を学ぶだけではなく、そこで、歌碑に関連する曲の演奏や舞踊を行うのですね。
そうです。歌が詠まれた歴史の舞台で演奏し踊ることには、ホールで大勢の客の前で披露するのとは異なる面白さがあります。この企画は、南城市文化協会でも採用されることになりました。
――文化講座や戦跡巡り・史跡巡りに参加する芸能関係者もいたのですか。
けっこういました。学術文化部では、歴史文化にそれほど明るくない人でも楽しめるように、親しみの持てるわかりやすい企画を目指していました。
――湧上さんご自身も、文化講座で1度講師をなさっていますね。演題は「琉歌からみた恩納ナビーの生涯」でした。
十数首の歌を解説しました。恩納ナビーに関する資料はほとんど残っていないので、彼女の生涯や歌の成り立ち、歌の歴史的背景についての情報はあまりありません。よって、歌には様々な解釈がなされています。私は、多くの解釈を学び、自分が妥当と思えるものを選び、さらに自分自身の考えも加えて、講演しました。
――当日配布されたレジュメには、恩納ナビーの歌は「素朴であり、豪放であり、またおおらかである」と書かれていますが、私もそのレジュメを見てそう思いました。彼女の歌には、物理的制約から解放されたロマンを見出すことができます。①桶の水に映っている月をお土産として持って帰るとか、②山を押しのけてそこに恋人のいる村を引き寄せたいとか、③村を覆いつくすほどの雨が降って愛する人が首里に行けなくなればよいのにと願ったり、④首里王の前では畏れ多いので波の声も風の声も止まれと念じたり……、発想が自由で豊かです。
【解説】
これら①~④の歌と意味は、同レジュメには次のように記されています。
①潮汲みゆんすりば 月も汲み移ち わが宿のつとに なるがうれしや
歌意:潮水(海水)を汲もうとしたら、月影までも桶に汲み移してしまった。わが家へのおみやげになるのがとっても嬉しい。
②恩納岳あがた 里が生まれ島 もりもおしのけて こがたなさな
歌意:恩納岳の向こう側は私の恋しい人の村である。邪魔な山(森)を押しのけて、恋人の住んでる村をこちら側に引き寄せたいものだ。
③あちやからのあさて 里が番上り たんちゃ越す雨の 降らなやすが
歌意:明日から明後日にかけて、愛する夫が番上り(※)で首里に行くことになっているが、谷茶邑を越すくらいの大雨が降ってくれればいいのに。そうすれば、出発の日が延びるのに。
※番上り:地方の若者が当番で首里の大名家の奉公に出ていくこと。
④波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし みおんき拝ま
歌意:波の声もとまれ、風の声もとまれ、あらゆるものすべて静まれ、恐れ多い国王のお顔を謹んで拝みたいものだ。
1番目の歌(①)は、「桶を頭にのせて、潮水を汲みに行ったら、海面に映る月影が綺麗だったので、それを潮水ごと汲み取り、家に持って帰ろう」という意味の歌です。この歌は、島袋盛敏・翁長俊郎共著の『琉歌全集』では、「詠み人知らず」となっていますが、地元の恩納では、ナビーが12、3歳頃に詠んだ歌とされています。この琉歌には、豆腐づくりに必要な潮水を汲みに行く、働き者で優しい少女ナビーの心情が偲ばれます。
――私は、その歌(①)を見た時、真っ先に万葉集の東歌の1つを思い出しました。「信濃なる 千曲の川の 細石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」(信濃の千曲川の小石であっても、好きなあの方がお踏みになった石であるなら、美しい玉思って拾いましょう)という歌です。自然科学的に考えれば、石は誰かに踏まれて金や銀に変わるものではないので、石を価値のある玉と思って拾うというのは愚かな行為です。それと同様に、海に映る月影を桶で汲むという行為も、馬鹿馬鹿しい行為です。しかし、自然科学を超えたロマンの世界に価値を見出すことは、人間には必要だと思いますし、ナビーのように琉歌などの文学でロマンを楽しむことができることは素敵なことだと思います。
そうですね。その点においてナビーは特に優れた感性を持っていたように思えます。しかも、発想のスケールが大きいのです。2番目の歌(②)では、それがよく出ています。邪魔な恩納岳を押しのけて、そこに里(恋人)の住む村を引き寄せるというのは、実に雄大です。ちなみに、その恋人は地元の恩納では松金と言われています。松金の父親は金武間切から恩納邑に赴任してきた役人で、妻と息子の松金と一緒に恩納邑に住んでいましたが、1673年の間切編成の変更により、ナビーと松金は離ればなれになりました。つまり、恩納間切が新たにできてナビーは恩納間切内で住み続けましたが、松金の家族は金武間切で住むようになったのです。
この歌の里(恋人)とナビーが恋仲であったかは明らかでありません。彼は、当時の恩納邑に住む娘たちの憧れの人(松金)であったといいます。憧れの松金は生まれジマの金武村へ帰ってしまい、その悲しみから、ナビーはこのような歌を詠んだのです。
その頃のナビーの詠んだ歌には、情感豊かな素晴らしい歌があります。次の歌もその中の1つです。
恩納岳のぼて おし下し見れば 恩納松金が 手振りきよらさ
歌意:恩納岳に登って、ふもとの方を見ると、恩納の松並木の枝振りが綺麗で、それは恩納松金の踊りの美しさを思い出させるものがある。
松の枝が、踊りの手振りに見えるとは、感性豊かです。
――枝を見て手振りを想像できるというのは、やはり歌心があるということですね。また、高所から広い視界の中で枝振りを見るというのも素晴らしい。大きなスケールを感じさせます。スケールが大きいと言えば、3番目の歌(③)もそうですね。
ええ。「たんちゃ越す雨」は「滝鳴らす雨」とも伝わっていますが、とにかく、道が閉ざされる程の大雨が降ってくれたらよいのにと、大自然さえ動かそうとする大胆な考えを抱いたのです。なお、当時、田舎の男性にとって、首里の大名屋敷(御殿殿内)の奉公に行くことは、出世を意味していました。2、3年の番上りは当番制だったので、断ることもできませんでした。
――「大自然さえ動かそうとする大胆な考え」は、4番目の歌(④)にも当てはまりますね。大自然に対して「静まれ」と命じるように歌っています。
ナビーの歌はどれも構想が雄大ですが、この歌にはとりわけ荘厳で豪放な趣が大きく出ています。この歌は、尚敬王が国頭巡視の際、恩納間切の万座毛に立ち寄った折に、詠まれたものです。万感をこめて詠った最高の歌です。伝承によると、国王を慰労する宴会が開かれることになり、恩納邑、瀬良垣邑、谷茶邑に出しものが命じられました。恩納邑のナビーたちは臼太鼓を踊って王を迎えたとのことです。
――その歌では、国王を讃えていますが、当時の国のあり方に不満を述べている歌もありますね。「禁止の碑」の歌(⑤)と、「シヌグの禁止」の歌(⑥)がそうです。なにかと禁止されることに、自由な心を持つナビーは憤りを感じていたようですね。
【解説】
この⑤と⑥の歌と意味は、同レジュメには次のように記されています。
⑤恩納松下に 禁止の碑の立ちゆす 恋忍ぶまでの 禁止やないさめ
歌意:恩納番所の松の下に、いろいろの禁止事項を書いた掲示板が立っているけど、その中に恋をするなという禁止まではあるまい。
⑥あねべたやよかて しのぐしち遊で わすた世になれば おとめされて
歌意:お姉さんたちは良い時代に生まれ合わせてよかったね。「シヌグ(神遊び)」を舞い踊ったというが、私たちの時代にはそれが禁止されてしまい、大変残念である。
それら2首とも、抗議の意味を込めた歌ですね。青春真っただ中にあったナビーは、若い仲間と一緒に恋を語り、歌をうたい、あるいは夜な夜な誘い合って毛遊びをして、青春の楽しい日々を送っていました。しかし、突然、首里王府は「毛遊び」や「シヌグ」などの、男女の風紀を乱すおそれのあるものは一切禁止するという通達を出したのです。
――宮城栄昌著の『沖縄女性史』にも、こう書かれています。「歌と踊りのなかで育つ沖縄女性にとって、毛遊びは農村でのたった一つの娯楽であった。(中略)シノグはウシデークという舞踊の一種で、稲の繁殖を祈る意味での男女の交わりを象徴する呪術的な舞踊とみられている。それが風俗壊乱を理由に禁止されてしまった。人民支配の手段として、儒教道徳を強制した三司官蔡温の禁止令の一つであった」[宮城1967:155]。
シヌグという神遊びは、ムラの御神森で、女ばかりが裸身のまま、その身と心を神に捧げる踊りですが、これは男たちと遊ぶきっかけにもなったので、風紀を乱すとされたのです。
――型破りなまでに自由な発想ができるナビーは、若者の唯一の娯楽を奪う禁止令にはかなり立腹したでしょうね。しかし、そうなると、国王を讃える歌があるのが不思議です。国王を恨んでもよいはずなのに。矛盾を感じます。
たしかに、若くて多感な頃のナビーは、唯一の楽しみであるシヌグ遊びが禁止されることに不満を覚えたようです。その頃の歌には、首里王府の厳しい掟に抗議する歌があります。しかし、それは、ナビーが若かりし頃の歌であって、中年から晩年にかけての歌には、王府や王に抗議するような歌は見当たりません。先に紹介した4番目(④)の歌「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし みおんき拝ま」は、晩年の歌です。この歌では、ナビーは真心を込めて王を讃えています。
――晩年には、王府や王に対する気持ちが、若い頃と真逆になっていますね。少し違和感を覚えます。
実は、晩年の歌にも、王への批判が込められていると解釈ができる歌があります。こういう歌です。
首里天がなし 自由に拝まれめ 按司がなし拝で 拝だごとさ
歌意:国王のお顔を拝もうとしても、容易に拝めるものではない。按司のお顔を拝すれば、国王の顔を拝んだのと同じ気持ちになれるものなんですよ。
この歌には、表向き賛美のかたちをとりながら、皮肉が込められているとする説があります。我々百姓には、按司の顔を拝むだけで充分で、国王の顔を拝む必要はないといった気持ちが込められているといいます。このように皮肉を込めるには理由があります。王を迎えるにあたり、地元では多額の出費や多くの難儀・苦労があったのです。それに、国王の移動にも多額のお金を要しました。そうなると、ナビーはじめ百姓たちは、国王はなぜわざわざ恩納の田舎にまで来る必要があるのか、首里天加那志(国王)の顔なんて拝みたいとは思わないし、拝んだところで自分達の生活が楽になるわけでもない、と考えるようになったのです。実際どうだったかは、誰も確かめることはできませんが、そういう解釈も成り立つのではないでしょうか。
――その解釈はありえますね。しかし、やはり、晩年は、若い頃の反抗心を失い、国王を心から崇高な存在と認めるようになったのかもしれません。もし当時の支配のシステムがしっかり機能していたのであれば、ナビーは本当に心から国王の顔を見ることは恐れ多いと考えていたとも解釈できます。当時、思想統制ができていたとしたら、その可能性も否定できません。何が正しいのかは誰も断言できないでしょう。その頃のナビーの心情については、われわれが想像を膨らませて、様々な解釈を試みるしかないようです。『沖縄女性史』にも、「歌を通じてのほかは、彼女の生涯を知るための資料はほとんどない。その歌も詠んだ量は多かったらしいが、書き綴る手をもたなかったのか、人の口に愛吟された十数首が伝わっているだけである」[宮城1967:158]と書かれています。資料が少ないのは残念ですが、それによって誰もが自由に解釈できるのは、ある意味面白いと思います。
私も、文化講座の準備中に、恩納ナビーについて、様々な説や意見があることを知りました。百姓がこのような歌を詠めるはずがないとか、複数名により詠まれた歌がナビーの歌として今日伝わっているとか、様々な説がありますが、文化講座では事実に迫るというテーマで話をせず、歌の素晴らしさや面白さを伝えることに力を入れました。
――彼女の歌の自由奔放さがわかれば、それで十分かと思います。彼女の歌の中に、現代人にはない心の自由さを感じました。法や決まり事、文化、空気など、同調圧力だらけで、現代人は窮屈に生きていて、貧弱な発想しかできなくなっています。ナビーのように常識にとらわれない壮大な発想ができるしなやかな心を持ちたいと思いました。琉歌はじめ文学を学ぶことで、ナビーに近づけるのではないかと思います。
心を豊かにできることが文化活動のよいところですね。吉屋チルーや恩納ナビーは、その点では特筆すべき存在ですね。
――多くの人と刺激を受けあって文化活動ができる文化協会の存在は、大きいと思います。ただ、運営となると簡単ではないのですね。
会長を続けることは大変でした。でも、有力なメンバーに助けられ、会の運営はスムーズにやっていけたと思います。
――湧上さんが会長の頃、結局、会長を引き継いでくれる人が見つかりませんでしたが、それはなぜでしょうか。やはり責任が重いからでしょうか。
それもあります。しかし、それぞれ、引き継ぎができない事情があったのだと思います。
3.南城市文化協会連合会
佐敷町、知念村、大里村、玉城村が2006年1月1日に合併して南城市が誕生した後、南城市文化協会連合会が、同年7月24日、4地域の文化協会を統括する上部組織として設立されました。合併前の各文化協会は解散したわけではなく、南城市文化協会連合会と併置されることになりました。ただし、この時点で、玉城文化協会だけは、会長不在のため休会状態になっていました。その結果、玉城村時代からの文化協会の芸能部の会員は南城市文化協会連合会の芸能部玉城支部に所属することになりました。
なお、南城市文化協会連合会は、2010年5月8日には改称されて、南城市文化協会となりました。本章では、2010年5月8日までの南城市文化協会連合会の組織の概要と活動内容を紹介します。
(1)組織
南城市文化協会連合会の立ち上げ時(2006年)の会員数は829人(佐敷280人、知念187人、玉城134、大里228人)でした[南城市文化協会連合会(以下、南文連と表記)2007:1]。玉城の会員数はもっとも少なく、佐敷の半数以下となっています。2009年8月28日時点では、南城市文化協会連合会の会員数は微増し837人となりました。しかし、内訳をみると、佐敷253人、知念247人、玉城109人、大里228人となっています。玉城の会員数が少ない原因は、芸能関係以外の人が入会しなかったことです。
初年度の予算額は4,170千円で、「収入の部」の各科目は、会費331千円、事業収入994千円、補助金2,843千円、寄付金千円、雑収入千円となっています[南文連2007:3]。補助金が半額以上となっているので、市からの補助がないと組織が成り立たないということがわかります。
会の目的は、「会員相互の交流を深め、会員の文化活動を促進するとともに、地域文化の振興・創造に寄与することを目的とする」(会則第2条)となっています[南文連2007:3]。
役員構成は、会則第5条によると、会長1名、副会長3名、理事15名以内(各文化協会代表3名、知識経験者若干名含む)、監事2名となっています[南文連2007:4]。初年度の会長・副会長は、高良武治会長(知念)、知念昌徳副会長(大里)、宮城繁副会長(佐敷)、岸本善吉副会長(玉城)でした[南文連2007:5]。
会則第16条によると、5つの専門部会(郷土芸能部、一般芸能部、体育武術部、学術文化部、美術園芸部)が置かれることになっています[南文連2007:4]。
会則第11条によると、総会(次年度の予算や事業内容などを決定するための会合)は「理事及び代議員で構成し、代議員の過半数を以って成立する」[南文連2007:4]となっています。また、代議員は各文化協会から6名が選出されることになっています[南文連2007:4]。湧上洋さんは、当時、玉城の代議員の1人でした。
(2)活動
以下に、主な会の活動を紹介します。湧上さんは、歌・三線で芸能公演に出演したり、展示会向けに琉歌と写真を出品したりしました。
【芸能発表】
・2006年11月26日 第1回芸能公演。
設立記念事業。「東方四間切りすりてぃ御祝え」と銘打って、昼夜二部にわたって上演。
総勢330人の会員が出演[南文連2007:2]。
・2007年11月25日 第2回芸能公演。
・2008年10月26日 第3回芸能公演。
・2009年9月27日 第4回芸能公演。
【展示会】
・2007年11月7-11日 第1回総合文化展。
展示品は、絵画(油絵・水墨・水彩・アクリル等)、彫刻、工芸(陶芸・漆工芸・木工)、写真、書道、フラワーデザイン、文芸(琉歌・俳句・川柳・文芸誌・協会誌)、盆栽、トールペイント、知念文化協会の活動状況のパネル展示等、全195点。芳名録に記入した参観者は722人[南文連2008:1]。
・2008年11月28日~30日 第2回総合文化展。
4年に1度行われる第1回南城市まつりとの共催として開催。延べ1千人が市の内外から訪れた。絵画・書道・写真・陶芸・工芸・盆栽・華道・茶道・学術文化・行政のコーナーが設置された。斎場御嶽で発見された「金の勾玉」や本市の小中学生の絵画作品も展示された[南文連2009:4]。
・2009年11月6日~8日 第3回総合文化展
美術工芸(盆栽・花卉園芸・絵画・デザイン・華道・手工芸・書道・工芸・写真)や学術文化(俳句・琉歌・川柳・文芸誌・調査研究・久高島のイザイホーの写真 他)の作品が展示された。イザイホーのビデオ映像や千本木智美氏の「世界の仮面と民族衣装」も展示された。参観者は約千名[南文連2010:1]。
【史跡巡り】
・2009年10月11日 市内史跡めぐり(佐敷地区)
宮城喜久蔵氏が案内。18名参加(湧上洋さん含む)。
活動内容をまとめると次のようになります。
・芸能公演は毎年1回開催された。湧上さんは歌・三線で参加していた。
・総合文化展も毎年1回開催された。湧上さんは写真や琉歌を出品していた。
・総合文化展の展示では、毎回、展示品の種類が多かった。これは、南城市の文化・学術に関わる人が多様な形で存在していることを意味している。
・総合文化展の参観者は約千名である。千名もの人が足を運ぶということは、住民の文化・学術への関心が高いことを示している。
4.南城市文化協会
南城市文化協会連合会は、2010年5月8日南城市文化協会連合会総会で改称され南城市文化協会となりました。その総会の様子は、次の通り、2010年6月20日付の『琉球新報』の記事「松田さんを新会長に選出 南城市文化協会」で報じられました。
南城市文化協会連合会(高良武治会長)の2010年度定期総会が8日、南城市文化センター2階であった。会則の一部改正が行われ、協会の名称から「連合会」が省かれ「南城市文化協会」に改められた。役員改選の結果、新会長に大里出身の松田竹徳さん、幹事に上原政明さん、事務局長には山田つたえさんが選出された。2期4年を務めた高良会長と浦崎みゆき事務局長に松田会長から感謝状と花束が手渡された。
『琉球新報』2010年6月20日付
組織名称とともに、会長と事務局長が変わりました。ただし、この時点では、組織体制は特に変わりませんでした。つまり、大里・佐敷・知念・玉城の4地域の文化協会は存続し、南城市文化協会は同4地域の文化協会の上部組織として存在していました。この体制は、2017年に同4地域の文化協会が解消され南城市文化協会に統合されるまで続くことになります。
なお、2010年5月8日時点では、湧上さんは理事(副会長)兼広報委員会の委員でした。湧上さんは、玉城文化協会が解散するまで同会の会長および南城市文化協会の副会長を続けました。
本章では、主に次の4点について説明します。
・大里・佐敷・知念・玉城の各文化協会の解消と、南城市文化協会への統合。
・現在の南城市文化協会の組織の概要。
・南城市文化協会になって以降の主な活動。
・湧上さんの回想(インタビュウ形式)。
(1)南城市文化協会への統合
当時、市町村単位の文化協会の中で下部組織の文化協会を有する会は、南城市文化協会だけでした。そのこともあり、大里・佐敷・知念・玉城の4地域の文化協会を発展的に解消して南城市文化協会に統合したほうがよい、という声が2015年頃から出るようになり、統合の気運が高まりつつありました。
2016年度に入ると、総会において、統合検討委員会が発足。統合に向けての動きが始まりました。「南城市文化協会統合検討委員会発足について」と題する、総会の資料には、次の通り、同委員会発足までの経緯が書かれています。
平成18年1月1日に旧4町村が合併し南城市誕生に伴い各種団体も統合への方針が示されました。平成18年7月24日に「南城市文化協会連合会」が発足。その後「南城市文化協会」へと名称変更し今日に至る。佐敷、玉城、大里、知念の4つの各地域文化協会においては、それぞれの地域特性を活かした活動を継続して行って参りましたが、合併後10年の節目を迎え、今後の会運営、組織改編等について話し合いを持ち方向性を確認する上で、統合検討委員会を発足し審議を図りたい。
1.統合検討委員会発足
平成28年6月30日付 南城市文化協会統合検討委員会を発足する。
2.委員選出
南城市文化協会会員を代表し、佐敷、玉城、大里、知念の文化協会からそれぞれ5名を推薦し検討委員とする。
この議決後、4地域の文化協会は、それぞれ5名の検討委員(計20名)を決め、解消・統合に至るまで多くの話し合いを持つようになりました。
統合検討委員会では、①4地域が抱える各々の課題、②統合のメリット、③統合のデメリット等について話し合われました。
第1回目統合検討委員会(2016年8月16日開催)の資料には、次の通り、役員会で出た課題がいくつか紹介され、統合検討委員会でそれらの課題も含めて議論されることが促されています。
役員会においては、各地域文化協会での会員数の減少や、役員の後継者不足などの課題が出された。統合への意志を提示する地域がある一方で、芸能公演などは継続して(地域単位で)行いたいと意見する地域もあった。今後、検討委員会にて十分な話し合いがもたれることを希望する。
※明らかな誤記は筆者により修正した。意味を変える修正は行なっていない。なお括弧内の文言は筆者により追記した。
統合検討委員会は計5回、さらに各地域の会合も5回開催されましたが、最後まで1つの課題が残っていました。それは、「これまで地域単位で実施されてきた芸能公演は統合後どうなるのか」という課題でした。
しかし、第5回目の会で、この課題について意見の一致を見ることができました。その意見とは、①各地域の芸能公演は実行委員会形式で実施可能、②南城市文化協会は各地域の芸能公演を予算的な面で補助する、③各専門部が中心になって各地域をまとめる、というものでした。
こうして、第5回目の統合検討委員会で、ようやく統合検討委員会の総意が形成され、会長に答申できるようになりました。
なお、南城市文化協会の統合についての意思決定は民主主義的に行われたと言えます。それは、次の理由によります。
・上部組織の南城市文化協会の会長・副会長だけで、統合を決めたのではなかった。統合検討委員会が設置され、各地域の文化協会から5名ずつ委員が選ばれた(計20人)。
・議論をしつくすことが目指され、各地域の文化協会で5回、統合検討委員会で5回と、多くの話し合いがもたれた。
・議論の結果、課題の克服につながる建設的な意見が生まれた。
第5回目の会議の後、統合検討委員会は、南城市文化協会会長からの諮問に対する答申書(2017年2月13日付)を同会長へ提出しました。
そして、2017年2月28日、臨時総会が行われ、統合についての決議がなされました。
南城市文化協会が4地域統合組織となることにより、湧上さんは玉城文化協会の会長及び南城市文化協会の副会長を同時に退任することになりましたが、「南城市文化協会副会長辞任挨拶」で次のように話しました。
このたび、私は、副会長を退任させて頂きました。
ふり返ってみますと、私の副会長としての務めは、初代の高良会長に始まり、二代目の松田会長、三代目の安里会長、四代目の與那嶺会長と続き、4名の会長の下でそれぞれ2年ずつ計8年間と、長期になっております。
今回は、副会長を引き受けることが困難である個人的な事情もあり、副会長を退任させて頂いた次第であります。
副会長在任中、私は会員の皆様のご指導・ご支援・ご協力の下で、副会長としての務めを大過なく無事に果たすことが出来ました。大変感謝している処であります。誠に有り難うございました。
今後は、50年ほど以前から趣味として続けている古典音楽・カメラを通して、一会員として皆様と共に文化活動を、体の動く限りやっていきたいと考えております。よろしくお願いいたします。
このような形で、湧上さんはようやく重責から解放されることになりました。
(2)組織
沖縄県文化協会のウェブサイト(南城市文化協会-沖縄県文化協会 2023年2月1日閲覧)の南城市文化協会の紹介ページによると、現在、所属部会は18あります(①古典音楽(三線・笛・胡弓)②琉球舞踊③琉球箏曲④太鼓⑤琉球民謡⑥日本舞踊⑦八重山芸能 ⑧ハワイアンカルチャー⑨詩吟⑩歌謡⑪体育武術⑫盆栽⑬写真⑭書道⑮華道⑯美術工芸⑰文化学術⑱総合)。
同ウェブサイトによると、現在の会員数は519名となっています。この10年間の会員数の資料はありませんが、次の通り、2006年から2012年までの会員数の推移をみると、すべての年度で800名を超えています。この時期からみると、会員数は大幅に減少したと言えるでしょう。
2006年度:829人(佐敷280人、知念187人、玉城134人、大里228人)
2007年度:858人(佐敷319人、知念205人、玉城118人、大里216人)
2008年度:883人(佐敷310人、知念248人、玉城117人、大里208人)
2009年度:837人(佐敷253人、知念247人、玉城109人、大里228人)
2010年度:843人(佐敷247人、知念249人、玉城116人、大里231人)
2011年度:866人(佐敷269人、知念249人、玉城120人、大里228人)
2012年度:859人(佐敷278人、知念249人、玉城112人、大里220人)
(2012年8月16日付「配分金の支払い及び会員会費納入について」を基に作成)
会員数の減少について、湧上さんはこう述べています。「コロナ禍がその一因だと思います。その影響は大きいです。1日も早くコロナウイルスが消滅し、感染の影響が出なくなることを望みます。また、南城市文化協会だけでなく、各種団体の会員数も減少傾向にあると言います。会員数の減少により、老人クラブがなくなった集落(区)もあります。様々な団体で会員数が減少している原因は、コロナ禍だけでなく、時代の流れでもあるかもしれません」
(3)活動
ここでは、「南城市文化協会連合会から南城市文化協会に改称された年度」から「4地域が統合された年度」までの活動内容をみてきます。なお、湧上さんは、歌・三線で芸能公演に出演したり、総合文化展向けに琉歌と写真を出品したりしました。
【芸能発表】
・2010年10月3日 第5回芸能公演。
「100人余の地謡による「かぎやで風」斉唱で幕開け。琉舞、民謡、ハワイアンフラ、日舞、空手古武道が披露された。合唱、オカリナ、琉舞、古典音楽独唱、日舞、民謡などもあり、14研究所から参加。(中略)空手古武道では八重瀬町の道場から参加した小学2~5年生が大人の会員に交じって元気よく技を演じた」(2010年10月28日付『琉球新報』「南城の芸能集結 「東四間切」で総勢300人出演盛大に」)。
・2011年7月2日 鵡川アイヌ民族芸能公演(南城市文化協会は創立5周年の記念事業)。
中井弘事務局長によるアイヌ民族芸能の歴史と文化についての講話の後、2009年ユネスコ無形文化遺産に登録された「ウポポ」(古式舞踊・座り歌)などが披露された[南城市文化協会2012:7]。
・2011年10月2日 第6回芸能公演。
「総勢100人余による幕開け古典音楽斉唱の後、詩吟や古典独唱、琉舞、日舞、ハワイアンフラなど16の教室や道場が芸能を披露」[南城市文化協会2012:1]。
・2012年10月7日 第7回芸能公演。
古典音楽斉唱、琉舞や日舞、器楽合奏、民謡、武道のほか、詩吟、大正琴、手話ダンス、オカリナ、ハワイアンフラなどが披露された[南城市文化協会2013:7]。
・2012年10月13日、14日 第2回南城市まつり。
13日のオープニングセレモニーで「かぎやで風節」「恩納節」「揚作田節」を披露。[南城市文化協会2013:5]。
・2013年10月6日 第8回芸能公演。
・2014年10月26日 第9回 芸能公演。
・2015年10月25日 第10回 芸能公演
・2016年10月9日 第11回芸能公演。
・2016年10月22日 南城市まつり。
・2017年1月22日 南城市人間国宝特別公演。
照喜名朝一氏、宮城能鳳氏、眞境名正憲氏による公演。組踊「執心鐘入」、独唱「二揚仲風節」、古典女踊り「諸屯」、組踊「人盗人」舞踊「かぎやで風」が披露された。
【コンテスト】
・2012年10月13日 第1回南城市かいされー大会。
第2回南城市まつりのプログラムの1つとして開催。
・2013年9月22日 第2回南城市かいされー大会。
・2014年9月13日 第3回南城市かいされー大会。
・2015年9月26日 第4回南城市かいされー大会。
・2016年9月17日 第5回南城市かいされー大会(南城市制施行10周年記念)。
【シンポジウム】
・2017年3月28日 「シマdeシンポジウム 南城市の芸能×しまくとぅば」。
県文化協会主催、南城市文化協会共催。
【展示会】
・2010年11月5日~7日 第4回総合文化展。
・2012年2月10日~12日 第5回総合文化展。
「約200名の会員が出展。(中略)生け花や盆栽(中略)、書道のほか、絵画・写真・陶芸・工芸・琉歌など個性豊かな作品約1000点が展示された。市内中学生による生け花のほか(中略)小学生の絵画や版画、書道の作品を展示」[南城市文化協会2012:6]。
・2012年10月12日~14日 第6回総合文化展。
会員による多数の作品や尚巴志三山統一歴史年表、市内小中学校児童生徒の工作・書道などが展示された。斎場御嶽内から発見された「金の勾玉」特別展示コーナーや盆栽実習コーナー、茶道コーナー、食育コーナーも設置された[南城市文化協会2013:4]。
・2013年11月29日~12月1日 第7回総合文化展。
・2014年12月5日~7日 第8回総合文化展。
・2015年12月4日~6日 第9回総合文化展。
・2016年10月21日~23日 第10回総合文化展。
これらの活動は、次のようにまとめることができます。
・「南城市かいされー大会」が年に1度開催されるようになった。なお、湧上さんは、2022年度までに3回審査員として参加している。
・総合文化展が年に1度開催されている。特別展示を行ったり、体験コーナーを設けたりと、毎年新しい工夫がみられる。市内の小中の児童生徒も出品に参加するなど、教育委員会との連携も見られる。
・芸能公演が年に1度開催されている。
・毎年の芸能公演とは別に、「鵡川アイヌ民族芸能公演」や「南城市人間国宝特別公演」など、斬新な企画の公演も不定期に開催している。
・湧上さんは、芸能公演に参加している(歌・三線)。
・湧上さんは、総合文化展向けに写真や琉歌を出品している。
(4)インタビュウ
湧上さんは、以下のインタビュウで、玉城村文化協会時代から振り返って、文化協会の活動について回想しています。また、文化学術全般に関わる様々な考えについても述べています。
――会長職を終えた時どのような気持ちになりましたか。
無事に終えてほっとした。それだけですね。
――会長時代には、どのような苦労がありましたか。
体調を壊した時期などはしんどい思いをしましたが、会長として苦労をしたということは、特になかったです。人材が豊富だったからです。芸能関係の方々のみならず、芸能以外の分野でも優秀な方々が次々に入会したこともあり、簡単にいろいろなことができました。
――南城市文化協会の副会長の仕事と玉城文化協会の会長の仕事があったので、忙しかったのではないでしょうか。
たしかに忙しかったです。会長は、すべての会議や催し物に参加しなければならなかったですし、会議前の準備も行わねばなりませんでした。
――毎年、事業計画を作るのはたいへんだったと思います。
そうですね。毎年同じことを繰り返すだけならば楽なのですが、そうはいきませんでした。反省会で出た意見などを参考にしながら、次年度の事業計画案をつくりました。その叩き台を基に、各部の部長と話し合いをして、修正を加えていきました。様々な意見が出ましたが、話し合いでもめるということはありませんでした。
――会長に必要な能力とは何ですか。
特に必要な能力はないです。その気されあれば、誰でも会長をやれると思います。
――会長として組織運営で心掛けていたことはありますか。
会長には、組織全体をみる責任があったので、より多くの会員が楽しめるにはどうするべきか、協会全体が発展するにはどうすればよいかということだけを考えていました。
――副会長の役割について教えてください。
副会長の役割は、会長が体調を崩したりしたときに会長職を代行することです。
――文化協会の役割や機能についてどのようにお考えですか。
そのようなことを深く考えたことはありませんが、郷土の歴史や文化を学ぶ機会を提供することによって、地域の活性化に寄与できていると思います。また、人的交流を深める場を提供するということもできているのではないでしょうか。
――定年退職すると活躍する場を失い、さみしい思いをする人も多いと思います。その後の人生を充実したものにするために文化協会の活動に参加するのはよいと思いますが、どうでしょうか。
私個人について言うと、退職後の人生を充実したものにするために、文化協会の活動に参加したことはよかったと思います。
芸能にしても、作品制作にしても、活躍する場があるということは素晴らしいことです。また、人的交流を通じて、歴史や文化を学んでいけることは、楽しいことです。ここ数年は、コロナ(新型コロナウイルス感染症)のために、芸能公演や展示会が開催されなかったので、発表する場があることがいかに有難いことか、今、よくわかります。そう考えると、文化協会が発表する場を提供することの社会的意義は大きいと思います。
――コロナのせいで活動が停滞しているのは残念ですが、会員の方々は、1人でも練習や制作、勉強ができます。趣味があるだけまだましです。しかし、無趣味な人にとっては、自宅で引きこもる生活はかなりつらいでしょう。
ええ。コロナで外出を制限しなければならなくなっている現在、趣味のない人はつらい思いをしているでしょうね。自分は、幸い、三線や写真、琉歌で、心を癒すことができています。趣味を持つことは大切だと思います。
【解説:コロナ禍】
南城市文化協会の会誌『なんじょう文化 特集号』の「令和二年度総会は中止 コロナ禍で評議員決裁」と題する記事で、コロナ禍で活動ができなくなった状況について次のように記されています。「この一年、コロナ禍のために文化団体の事業が悉く中止になった。南城市文化協会の令和二年度の総会も中止せざるを得なかった。議案書は評議員による書面での議決となった。予定していた新年度の第十五回芸能公演、第十四回総合文化展など期待された多くの事業も軒並み中止になったことは残念でならない」[南城市文化協会2020:1]。芸能公演は2020年、2021年、総合文化展は2020年~2022年中止となった。
――文化活動は、芸術活動と言い換えてもよいと思いますが、ここで「芸術とは何か」ということについて考えたいと思います。千住博さんという日本画家は、「芸術とは、イマジネーションのコミュニケーション」と言っています。自分の考えや感情、感覚を何とかして誰かに伝えたいと思いその行為をすること、それが芸術であると言っています。これまでの話を振り返ると、千住博さんのその言葉を思い出しましたが、この言葉についてどう思いますか。
たしかにそうだと思います。芸術に限らず、すべての文化的な活動は、ほかの人がどう反応するのかを考えて、自分の持っているものを形にすることだと思います。庭で一人で行う盆栽の手入れでも、誰かに見せるという前提があるから、がんばれるのではないでしょうか。よその誰かがその盆栽を見て喜ぶことを想像しているに違いありません。
――常に、誰かの目を想像しているということですね。見られている、もしくはいつか見られるという意識があるということですね。社会があるから、つまり人間同士の切れない関係が存在しているから、芸術や文化活動は存在するのではないか、と私は思います。誰かに見られていない状態にあっても、社会関係を心のどこかで意識して、誰かに向かってイマジネーションのコミュニケーションをしているのでしょう。
そうですね。完全に世界でたったひとりになったら、何もやる気が起きないような気がします。
――もし地球で自分が最後のひとりになったら、芸術など行わなくなるし、そうする意味もなくなる。そのような気がします。
たしかに、誰もいない場所で、ひとりで踊る時でも、誰かが見てそれをどう評価するのかということを心のどこかで意識しています。そういう意識があるからこそ、踊ることができるのだと思います。
――芸術や文化はコミュニケーションの道具の1つと言えますね。また、自分は、芸術や文化には、感性を豊かにする力があるという面も忘れてはならないと思います。ロジックだけの事務的な言葉のコミュニケーションでは、人間としての平衡感覚は保てません。人間は半分、感情の生き物なので、感性を豊かにする情操教育は、人間社会には絶対必要であると思っています。
その通りだと思います。私の場合、三線や写真などの趣味を活かした活動で、自分の感性を露わにしています。それらの活動で感性を豊かにすることができるというのは正しいと思います。しかし、その一方で、写真には、感性とは真逆の、別の面白さがありますね。
――それは、どのような面白さでしょうか。
それは、客観的な情報を伝えるということです。写真は、芸術活動でもあり、記録伝達の知的活動でもあります。例えば、私の住む船越で2002年に『船越誌』を発刊しましたが、その字誌には、私が記録伝達用として撮った多くの写真が掲載されています。それらの中には、重要な歴史情報が含まれているものもあります。
その他、かつて、「写遊」フォート知念という写真サークルの活動で、「公民館への道」というテーマで写真撮影を行いましたが、その際、できるだけ記録価値のある情報をフレームの中に入れることを試みました。字堀川の公民館の写真では、「新生字堀川記念碑 平成2年6月29日」と書かれた石碑をフレーム内に入れています。また、仲村渠の公民館の写真では、「“稲作発祥の地壁”仲村渠区自治会祭祀行事」の説明板と田植えの壁画、綱引きの壁画をフレームに入れています。
――写真も奥が深いですね。
そうですね。しかし写真撮影は好奇心と体力さえあれば、誰でもできます。私は、体力の続く限り、写真を撮り続けたいと思っています。
――玉城文化協会で活躍した方は、みな、玉城地域の出身者でしたか。
玉城出身でない方もいました。7~8名ほどいました。
――玉城文化協会は南城市文化協会に統合されてなくなりましたが、土地の人の感覚からすれば、玉城文化協会のほうが親しみを持てるのではないかと思います。玉城地域の人々は、南城市の文化に愛着や誇りを持ってはいるでしょうが、やはり、玉城の文化に対する愛着や誇りのほうをより強く持っているのではないでしょうか。
そうかもしれません。しかし、私個人について言えば、そうだとばかり言えません。大里、佐敷、知念、玉城の4地域は、昔から「東方四間切」といって、深いつながりがありますが、私も4地域とつながりを持っています。私の5代前の先祖は、大里稲福から船越にやってきました。ウマチー(稲穂祭)の時は、今でも稲福之殿を拝み、稲福区民との交流を続けています。また、4代前の女性の先祖が佐敷新里に嫁いでいます。さらに、近い親戚の女性が知念に嫁いでいます。そういうことで、私は玉城以外の3地域とも深いつながりをもているので、大里・佐敷・知念の文化にも、玉城に感じるのと同等の愛着や誇りを持っています。いずれにしても、玉城の文化に対する愛着と誇りは強く持っています。
――文化協会の活動を通じて、玉城の文化に対する愛着や誇りを感じるようになっていったのでしょうか。
そうではありません。小さい頃からそのような思いはありました。
――ある程度年齢が経ってから、たとえば、高校生くらいの年齢になってから、玉城に引っ越して来た人は、いくら玉城のことが好きになっても、玉城で生まれ育った人とは、同じ感覚で玉城に愛着を覚えるようにはならないような気がしますか?
そういうことはないと思います。それに、たとえ玉城で生まれ育った人でも、生活環境などが理由で、玉城に対する愛着が薄い方もいます。愛着を感じる強さには個人差があります。玉城に引っ越して来た人でも、時間の経過とともに玉城への愛着を深めていき、玉城で生まれ育った人と同じ感覚で玉城に愛着を覚えられるようになれると、思います。
――自分の親、祖父母、またそれより前の祖先たちが、玉城で生まれ育ち死んでいったという歴史があるから、玉城に愛着を感じることができる。そのような考え方もあると思いますが、どうでしょうか。
そのような理由で、郷土に愛着を持てるとも言えるかもしれません。たしかに、先祖がこの地でどのように生きてきたのかは、興味がありますし、その歴史を学ぶことで、郷土に対する愛着を膨らましているかもしれません。一方で、私は、自分の先祖がどのような流れで玉城や船越に来たのかということにも関心があります。
――脈々と続いてきたことへの尊敬の念や愛情があるからこそ、歴史や文化を大事にしようという思いが沸き上がってくるのでしょうか。
そういう考えもあると思います。ルーツを大事にしたいという気持ちがありますからね。例えば、私が所属する門中は、門中の全体像を把握できるようにするために、手間暇かけて、バラバラに存在していた情報を集めて、系図を作成しました。長く続いてきたものを大事にしたい、伝えていきたいという思いはたしかにあります。
――しっかりした門中ですね。
門中で墓を1つもっています。現在、生きている門中構成員は、4,50名ほど。毎年、ウマチー(稲作祭)と東御廻りをやります。門中の融和を図るのに役立っています。
――湧上さんは、玉城船越で生まれ育ったとはいえ、琉球政府・沖縄県の職員として活躍なさりました。よって、県民というアイデンティティーも強いと思います。また、市町村合併後、南城市での仕事もやってこられました。沖縄人、南城市の人、玉城の人、船越の人というアイデンティティーがあると思いますが、「あなたはどこの人か」と聞かれたら、反射的にどう答えますか。
さあ、どうでしょうか。確かに、船越の人間であるというアイデンティティーは強くもっています。
――だからこそ、字誌(『船越誌』)をつくることができたと言えるかもしれませんね。
そうですね。ところが、今は、出身地が船越でない船越区民も増えていっています。半分近くがそうです。本当に人口状況は一変してしまいました。今後、『船越誌』の続編をつくることができないのではないかと危惧します。とはいえ、歴史はずっと続いていくので、誰かが、『船越誌』に新しい歴史を継ぎ足していってほしいです。
――船越への思いはやはり強いですね。では、沖縄人という感覚はあまり強くはないのですか。
そうではありません。状況によって、アイデンティティーは変わるのではないでしょうか。たとえば、本土の人と話す時は、自分はウチナーンチュであると意識します。沖縄の人と会って自己紹介をする時にはまず自分は南城市の玉城の者だと言います。相手が、南城市内の字について知識があることがわかれば、自分は船越の者であると言います。
【コラム】沖縄県文化協会賞
南城市文化協会は、沖縄県文化協会の加盟団体の1つで、毎年、沖縄県文化協会賞の表彰の候補者・候補団体を決めて、沖縄県文化協会に申請しています。賞には次の3種類があります。
・沖縄県文化協会功労賞(文化活動、振興に著しく功労のあった個人を対象)
・沖縄県文化協会奨励賞(地域で文化活動に参加し、文化の向上に尽くした個人を対象)
・沖縄県文化協会団体賞(文化活動に実績を持つ団体を対象)
湧上さんは、玉城文化協会会長時代、多くの会員の推薦文を作成しました。それについて、湧上さんはこう述べています。「できるだけ多くの玉城地域の人が表彰されてほしいという気持ちがありました。表彰されると自信がつきます。そうなると、意識が上がり、技能の水準も上がってきます。そういうことを期待して、できるだけ多くの推薦文を書いていました」
湧上さんによる推薦により表彰されることになった個人と団体は次の通りです。
・功労賞:大城好枝氏(琉舞)、知花昌誠氏(古典三線)、岸本マツ子氏(箏曲)、知花初子氏(箏曲)、金城善徳氏(古典三線)。
・奨励賞:仲地岩雄(民謡)、吉元キミエ(太鼓)、八幡幸秀(盆栽)、津波ミヨ(琉舞)、新城啓八(芸能)
・団体賞:東綾雲会(歌舞劇)、志堅原伝統芸能保存会(醜童)、奥武ウシデーク保存会
なお、湧上さん本人も、2015年沖縄県文化協会功労賞で表彰されました。沖縄県文化協会に提出された湧上さんの「功績概要」は次の通りです。幅の広い活動が見て取れます。
湧上洋は、若い頃から地元船越区に伝わる伝統芸能の歌・三線を先輩達から伝授され、市内外の各種芸能イベントに出演するムラの伝統芸能の地謡を務めるなどして活躍し、ムラの伝統芸能の継承・発展に大きく貢献しています。
平成2年、野村流音楽協会の教師免許を取得。以後、ムラの公民館および地元小学校において三線教室を開き、多くの後継者を育成中である。
平成8年玉城村文化協会の結成来、芸能部の役員となり、文化協会の主催する事業や「たまぐすくまつり」、「公民館まつり」など村行事では、自らの三線出演をこなしながら率先して出演者の指導にあたり、その熱意と協力姿勢は高く評価され、地域の芸能文化の振興と発展に大きく貢献しております。
また、南城市文化協会(平成18年)設立に当初から参画し、文化協会主催の芸能発表会等に斉唱および地謡として積極的に出演し、老人施設等への慰問公演や福祉活動チャリティー公演にも積極的に参加しております。
さらに、米国やカナダへの沖縄芸能親善公演にも積極的に参加し、沖縄の芸能文化の紹介に大きく貢献しております。
現在、玉城文化協会会長・南城市文化協会副会長として、文化協会の会運営に携わっております。
【コラム】湧上さんの『なんじょう文化』への寄稿
湧上さんは、南城市文化協会連合会および南城市文化協会の会誌『なんじょう文化』に、次の4本の原稿を寄稿しました。タイトルをクリックすると見ることができます。
・「玉城夏至祭に参加して」(第3号掲載)
・「我が地域を訪ねる」(第4号掲載)
・「東綾雲会 沖縄県文化協会団体賞受賞!!」(第8号掲載)
・「何故〈アジンビラ〉か」(第9号掲載)
5.さいごに
さいごに、本稿の内容を簡単にまとめます。
湧上さんは、玉城文化協会で会長として活躍しました。また、南城市文化協会連合会および南城市文化協会では副会長職を8年間務めました。湧上さんは、会長・副会長としての仕事を行いながらも、芸能公演では歌・三線で活躍し、文化展には写真や琉歌を出品し続けました。また、文化講座で講演も行いました。
湧上さんは、幾度か、会長の任期中に体調を壊しましたが、結局、玉城文化協会の解散まで会長を務めました。
旧4町村地域の文化協会は、多くの議論を経て2017年に発展的解消をし、南城市文化協会に統合されました。その後、湧上さんは役職のない一会員となりました。
湧上さんとの会話の中で、南城市文化協会の存在意義については幾度も確認できました。同協会は芸能や作品を発表する機会を与えてくれます。そして、その機会を通じて、様々なジャンルの多くの人と交流することができるようになります。南城市文化協会は、南城市の社会教育組織としてなくてはならない存在と言っても過言ではないでしょう。
とはいえ、時代の流れなどもあり、会員数の減少など、課題も残されています。ここ数年は、コロナ禍の影響も受けました。2020年および2021年は、芸能公演を開催できませんでした。また、2020年~2022年は、総合文化展が開催できませんでした。その間、発表する場がなかったため、会員の制作意欲が減退したのか、2023年3年ぶりに復活した総合文化展では、出品点数は200余にとどまりました(それまでは300点ほどあった)。ただ、それでも、「展示規模は小さいながら、すばらしい作品が多く見られました。質が落ちたということはありません。やはり、発表する機会があることはすばらしい。このことが、文化の発展につながると思います」と湧上さんは感想を述べています。
これからの南城市文化協会の活躍に期待したいです。
文責:堀川 輝之
参考文献
玉城文化協会編2017『くむこ玉城 玉城文化協会のあゆみ』玉城文化協会
南城市文化協会連合会2007『なんじょう文化』1南城市文化協会連合会
南城市文化協会連合会2008『なんじょう文化』4南城市文化協会連合会
南城市文化協会連合会2009『なんじょう文化』6南城市文化協会連合会
南城市文化協会連合会2010『なんじょう文化』8南城市文化協会連合会
南城市文化協会2012『なんじょう文化』10南城市文化協会
南城市文化協会2013『なんじょう文化』11南城市文化協会
南城市文化協会2020『なんじょう文化 特集号』南城市文化協会
宮城栄昌1967『沖縄女性史』沖縄タイムス社
写真資料
以下、芸能公演及び展示会当日の写真と、湧上さんの出品作品を紹介します。