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湧上洋さんオーラルヒストリー(9)「文化協会①」

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湧上洋さんオーラルヒストリー(9)「文化協会①」
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1.はじめに

 2023年1月6日、筆者は、湧上洋さんの自宅で聞き取り調査をしていましたが、話の最中、1本の電話が入りました。電話に出た湧上さんは「私はすでに退会してはいますが……わかりました。2作品は出品できます」と言いました。
 電話をかけてきた人は、南城市文化協会の会長でした。電話の趣旨は、第14回南城市総合文化展(2023年1月27日~29日開催)への写真の出品の依頼でした。展示作品が不足しているので、出品できそうな人に依頼することになった、とのことです。展示作品が揃っていない原因は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染が拡大した3年の間に、総合文化展が開催されなかったために会員の制作意欲が減退したことです。
 湧上さんにわざわざ出品依頼があった理由は、3つあると想像できます。1つは出品実績が多い、2つ目は質の高い作品が期待できる(湧上さんは南城市制施行十周年記念第1回南城フォトコンテストで最優秀賞を受賞したことがあります)、そして3つ目は頼りにできる、です。「頼りにできる」というのは、それだけの実績があるということです。湧上さんは玉城芸能協会及び玉城文化協会で8年間会長職を務めたので、文化協会事業において常に頼りにされる存在でありました。
 さて、現在、南城市では南城市文化協会が様々な文化事業を実施していますが、文化協会は、旧4町村(佐敷町、知念村、大里村、玉城村)が合併する前から存在していました。玉城村では、1996年に玉城村文化協会が設立されました。湧上さんは玉城村文化協会の時代から文化協会に参加してきました。本稿では、文化協会の組織の変遷やその活動内容、湧上さんの文化協会への関りについて明らかにします。
 本稿で紹介する情報は主に、聞き取り調査で得た情報と、湧上さんから見せていただいた紙資料です。後者は、数千枚の分量があり、その内訳は①会合(総会、評議会など)で配布された資料、②会員向けの各イベントの案内文、③各イベントの当日配布資料(パンフレットなど)、④会員誌となっています。本稿では、これらの資料を「紙資料」と表記します。
 以下、玉城村文化協会、玉城芸能協会、玉城文化協会、南城市文化協会連合会、南城市文化協会の順に、2回に分けてそれらの歴史について説明していきます。今回は、玉城村文化協会、玉城芸能協会について説明します。

2.玉城村文化協会

(1)組織概要
 玉城村文化協会会則によると、会の目的は、「地域の芸術文化及び有形、無形文化財に関心をもつ人々の相互親睦を図り、村の文化の継承と村民の文化の創造振興に努め、郷土文化の向上に寄与すること」(第3条)となっています。換言すれば、親睦と芸術文化の向上が目的とされています。芸術文化の具体的な分野は、多岐にわたっていて、同会則の第14条によると、7つの専門部(芸能部、美術部、文化部、花き園芸部、体育武術部、学術部、食文化部)が置かれています。
 同会則第4条によると、玉城村文化協会は「目的」を達成するために、次の6つの事業を行うとされています。「(1)各種文化活動の推進と奨励に関すること。(2)文化事業の調査、研究、発表に関すること。(3)会員相互の連絡提携に関すること。(4)文化施設等の設置促進及びその活用に関すること。(5)資料の収集及び刊行に関すること。(6)その他第3条の目的を達成するために必要なこと」
 玉城村文化協会は、玉城村社会教育課が設置した玉城村文化協会設立準備委員会により、1996年に結成されました。初代会長は湧上元雄氏(元琉球大学教授。2015年逝去)で、2代目会長は喜舎場米子氏(2001年就任)でした。会員数は約180名(解散時は約160名)で、芸能部の会員が100名を超えていました。会員資格は特に厳しくありませんでした。同会則の第5条には、「本会は、本村に住所を有する者又は村外の住民で本会の趣旨に賛同し、所定の入会手続きをした者を以って組織する」と記されています。要するに会の趣旨に賛同する者であれば誰でも会員になれました。

(2)事業内容
 「紙資料」に記されている各年度の事業実績を見ると、ほぼ例年実施される事業とその年特別に行われる事業があることがわかります。前者は①芸能発表(玉城村文化協会主催の芸能公演など)、②講演会、③会報誌『くもこたまぐすく』発刊です。後者は、①上映会、②祝賀会、③作品展示などです。以下、主な事業実績を紹介します。

【芸能発表】
 玉城村文化協会の会員の過半数は芸能部に所属していました。それゆえに、芸能を発表する事業は、同協会の中心事業でした。主なものを次に紹介します。

・芸能発表会(1996年・2003年玉城村文化協会主催で開催)
・「伝統芸能INフェスティバル」(1997年玉城村文化協会主催で開催)
・慰問公演(1998年字屋嘉部の仁愛療護園にて)
・玉城村まつりに参加(1998年、2001年、2004年)
・公民館まつりに参加(1999年、2002年)
・福祉チャリティー公演(1999年玉城村文化協会主催で開催)
・沖縄県文化協会主催イベントで後援(2001年組踊り「女物狂」、2002年邦舞公演、1998年・2002年芸術祭)
・交流会(1996年読谷村文化協会来訪、2001年三重県玉城町教育委員会来沖、2004年三重県玉城町文化協会発表会に参加)

【講演会】
 学術文化関係の講演会はほぼ毎年開催されていました。湧上さん曰く「初心者向けというよりは、すでに一定の知識を持つ人向けの講演会が多かったように記憶しています」とのことです。以下に実施例を挙げます。

・1998年波照間永吉氏「玉城村のおもろ/島中おもろ」
・1999年板谷徹氏「女踊りのかたち」
・2000年神里常雄氏「中国の新しい漢字」
・2000年もろさわようこ氏(女性史関係の講演)
・2001年八木政男氏「うちなーぐち畳語」
・2002年上原直彦氏「島唄のある風景」
・2003年崎間麗進氏「行事の中に見る沖縄の心」
・2004年湧上元雄氏「玉城村の初期移民の苦難と栄光」
・2005年黒島善次氏「湧上聾人とその時代」

【上映会】
・1997年平和学習の一環として、映画「月桃の花」(大城将保氏制作)を上映(小中学生一般含め1,268名が鑑賞)

【祝賀会】
・1997年 大城将保氏文化優秀映画作品賞受賞祝賀会
・1998年 湧上元雄氏県文化功労者賞祝賀会
・1999年 中山俊彦氏、湧上元雄氏南部振興会表彰祝賀会

【作品展示】
・1998年・2001年玉城村まつりにて花卉園芸部・美術部が作品を展示
・2002年公民館まつりにて花卉園芸部・美術部が作品を展示

 これらの事業を俯瞰すると、やはり、会員数の多い芸能部の活躍が目立ちます。芸能部の活動の特徴の1つは、玉城村内の事業(同会主催の芸能公演、玉城村まつり、公民館まつり、慰問公演)に限定せず、沖縄県文化協会の事業の後援を行ったり、三重県玉城町と交流したりしたことです(玉城村は三重県玉城町と「姉妹都市提携」を結んでいた)。
 次に、目立つのは講演会です。初代会長が元琉球大学教授(民俗学研究者)湧上元雄氏であったこともあり、高い水準が求められ、著名な研究者・文化人が講師として招かれました。

(3)湧上さんの回想(インタビュウ)
 本節では、湧上洋さんの玉城村文化協会時代の回想をインタビュウ形式で紹介します。

――湧上さんが玉城村文化協会に入会しようと思ったきっかけは何ですか?

 これといったきっかけがあったわけではありませんが、郷土の歴史や文化を学びたいという思いは前々から持っていました。学生時代は理系分野の学問を学び、社会人になってからも、技術関係の仕事に携わっていたので、歴史や文化を学ぶ余裕はありませんでした。定年退職してから、独自に学んではいましたが、文化協会のような組織で学ぶことで得ることは多いと思い、会が設立されてまもなく、会員になったのです。

――ほかの会員を見てどのように思いましたか?

 「できあがっている人」つまり、すでに実力を備えている人が多いという印象を受けました。なので、やや「敷居が高い」という雰囲気がありました。

――玉城村文化協会が設立されるようになった経緯をご存じですか?

 たしか、玉城村社会教育課の呼びかけで、玉城村文化協会設立準備委員会が設けられ、1996年に村主導で玉城村文化協会は設立されたと思います。当時すでに、大里村や佐敷町、知念村、東風平村(現八瀬町)、糸満市、豊見城市には文化協会がありました。また、与那原町や南風原町には芸能協会がありました。村は、その流れに乗って、文化協会の設立を支援したと思います。

――一般の村民がそのような組織をつくるのは簡単ではないと想像できます。

当然、村民の手だけで、文化協会のような団体を立ちあげることは容易ではありません。ですので、文化協会の顧問として、当時の村長、議会議長、教育長など、役場のしくみに通じている方々を迎えることになりました。また、事務局長には役場職員に就いていただくことになりました。役所との連絡や運営事務を円滑に行うために、そのような人材が必要だったのです。それと、村は、資金面での援助も行いました。

――湧上さんは、玉城村文化協会では、なにか役職に就いていましたか?

 いいえ。村文化協会の時代は、会員として、講演会に参加して学習することが多かったです。芸能公演へは、歌・三線の演者として参加していました。

玉城村文化協会設立総会(1996年7月14日開催)の式次第
玉城村文化協会会員申込書付協会設立案内のチラシ
第1回玉城村文化協会主催芸能発表会(1996年10月26日開催)のプログラム(1枚目)。祝辞をのべた知念信夫村長・井上能春村教育委員会教育長・大城晃村議会議長は、当時玉城村文化協会の顧問でもあった。
第1回玉城村文化協会主催芸能発表会(1996年10月26日開催)のプログラム(2枚目)。
第1回玉城村文化協会主催芸能発表会(1996年10月26日開催)の資料の一部。進行管理表(1枚目)。
第1回玉城村文化協会主催芸能発表会(1996年10月26日開催)の資料の一部。進行管理表(2枚目)。
第1回玉城村文化協会主催芸能発表会(1996年10月26日開催)の資料の一部。進行管理表(3枚目)。
第3回公民館まつり(1996年10月26日・27日開催)のパンフレット表紙。主催は、玉城村中央公民館、玉城村教育委員会、玉城村生涯学習まちづくり推進本部。
第2回玉城村文化協会主催芸能発表会(1997年11月16日開催)のチラシの裏面。プログラムが記載されている。
玉城村文化協会総会(1998年5月24日開催)資料の一部。式次第。
講演会(神里常雄氏「中国の新しい漢字」。2000年5月11日開催)のレジュメの表紙。
玉城村文化協会総会(2005年6月19日開催)の資料の一部。日程。
玉城村文化協会総会(2005年6月19日開催)の資料の一部。2004年度の事業経過報告書。

3.玉城芸能協会

(1)玉城芸能協会が誕生するまでの経緯
 2006年に南城市が誕生し、同時に佐敷町と知念村、玉城村、大里村は消滅しましたが、各地域の文化協会は解散しませんでした。つまり、各地域での文化活動は継続されることになりました。しかし、変化はありました。各地域の文化協会を統括する南城市文化協会連合会が新たに発足したため、4地域の文化協会はこの連合会の事業も運営するようになったのです。
 町や村の消滅にともない、4地域の文化協会の名称は変わりました。組織名から町や村がなくなり、佐敷町文化協会は佐敷文化協会、知念村文化協会は知念文化協会、大里村文化協会は大里文化協会となりました。では、玉城村文化協会は、玉城文化協会となったでしょうか。そうなりませんでした。なぜなら、南城市誕生と同時に会長不在の状態に陥り、組織そのものが休会状態になったからです。とはいえ、旧町村の連合体を目指す南城市文化協会連合会に、玉城地域だけが参加しないわけにはいかず、なんらかの形で参加することが求められました。幸いにして、旧玉城村文化協会の芸能部会員は南城市文化協会連合会に参加することを希望しました。かれらの多くは、舞台で発表する機会を必要としていたからです。かれらは、芸能部玉城支部の形で、南城市文化協会連合会に所属することになりました。
 芸能部玉城支部は玉城勢の意見をとりまとめて同連合会と相対しなければならなかったので、役員会を組織しました。役員会での民主的な話し合いにより統一見解を出すという形で組織運営を行うことになったのです。湧上さんは、この役員会の構成員となりました。
 また、芸能部玉城支部は、同連合会の副会長(1名)と理事(2名)、代議員(6名)を玉城から派遣する義務を負っていました(同連合会は、4地域から派遣されたメンバーにより運営されていました)。派遣する役員を選ぶために、2006年6月24日、南城市文化協会連合会芸能部玉城支部役員会が開催されました(出席者:岸本善吉氏、金城善徳氏、仲地岩雄氏、屋宜宣吉氏、知花昌誠氏、山内昌明氏、湧上洋氏)。
 そして、2006年8月19日、総会と発足式が開催され、南城市文化協会連合会芸能部玉城支部は正式に発足しました。支部長は岸本善吉氏、副部長は大城好枝氏、事務局長は安次富勲氏となりました。湧上さんは監事となりました。なお、この総会には、南城市総務企画部の仲宗根正昭部長、南城市文化協会連合会高良武治会長が、来賓として参加しました。

 同支部は、無事発足となりましたが、組織としては不十分でした。会則がなく、組織の目的や事業内容、会員の条件などが決められていなかったので、組織としての発展の見込みはありませんでした。そこで、会則を作成し、支部を協会に格上げすることになりました。その頃、部員のほとんどは芸能関係者だったので、「玉城文化協会」という名称をつけることはできず、「玉城芸能協会」という組織名をつけることになりました。2007年8月4日玉城芸能協会は設立総会を開催しました。役員の湧上さんは、同総会で、玉城芸能協会会則(案)を審議するために、参加者に同会則の説明をしました。
 なお、湧上さんは、後に、玉城芸能協会設立の経緯を記した文を作成しています。その一部は次の通りです。

 玉城の文化協会は、南城市文化協会連合会発足以来、協会本体が休会しているため芸能部だけ市文化協会連合会に加入して芸能活動を行っている。
 ところが、芸能部には芸能部を運営するための明文化された規約もなく組織体制が弱いため、芸能部の運営や市文化協会連合会との連絡調整等に色々と支障を来している状況にある。このままで推移すると、芸能部員の活動の弱体化、部員の減少を招くことが懸念されます。
 と言うことで、あくまでも玉城文化協会が復活するまでの暫定措置として、去る8月4日、芸能部の組織体制を強化するための玉城芸能協会を新たに設立させた。

「紙資料」内の「2007年8月4日玉城芸能協会設立総会資料」から抜粋

 ここにある「芸能部」は、芸能部玉城支部のことです。この文でも、「規約」(会則)のない軟弱な体制では、組織が弱体化すると述べられています。また、芸能協会の設立は、あくまで「玉城文化協会が復活するまでの暫定措置」と述べられています。これは、将来、芸能に特化した組織から、学術や美術、工芸なども含んだ組織へ発展させる必要があるということを意味しています。

(2)組織の概要(創立時)
 ここでは、2007年8月4日開催の玉城芸能協会設立総会で決定した会則の内容や人事などについて説明します。
 会の目的は、玉城芸能協会会則第2条によると、「玉城地域の芸能活動を促進すると共に、会員相互の交流と親睦を図り、併せて地域文化の向上に寄与する」となっています。そして、その目的を達成させるための事業は、第3条で「(1)芸能発表会の開催(2)歌・三線、筝、舞踊、器楽の後継者育成(3)南城市の文化事業への協力(4)会員相互の親睦交流に関すること(5)その他必要な事業」と記されています。
 役員構成は、玉城芸能協会会則第5条によると、会長1名、副会長3名(歌・三線、箏曲、琉舞)、事務局長1名、会計1名、評議員8名(琉球古典音楽、琉球民謡、箏曲、琉舞、日舞、器楽)、監事2名、伝達員各研究所に1名・各字に1名(評議員から選出)となっています。8月4日の総会で会が発足した時点の役員(伝達員は除く)は次の通りです。湧上さんは監事となっています。

 会長:岸本善吉(琉球古典音楽)
 副会長:仲地岩雄(歌三線)、知花ハツ子(筝曲)、大城好枝(琉舞)
 事務局長兼書記会計:安次富勲(琉球民謡)
 ※2008年度より、事務局長安次富勲、書記会計大城妙子(日舞)
 評議員:神谷博和(琉球古典音楽)、知花昌誠(琉球古典音楽)、屋宜宣吉(琉球古典音楽)、新垣世達(琉球民謡)、宮里初子(筝曲)、津波ミヨ(琉舞)、仲里辰枝(日舞)、知花勇(器楽)
 監事:湧上洋(琉球古典音楽)、金城善徳(琉球古典音楽)

 この時点での会員名簿をみると、会員数は121名となっています。なお、同名簿の「備考欄」には所属する芸能研究所・サークル名が記されていますが、空欄となっているのは7名(個人会員)だけです。ほとんどの玉城芸能協会の会員が、芸能研究所・サークルに所属しています。
 また、同名簿の住所蘭を見ると、12名の会員の住所は南城市以外(那覇市、八重瀬町、与那原)となっています。これは、玉城芸能協会が、玉城村文化協会時代の会則(玉城地域以外の在住者でも会員になれる)を踏襲していることを意味しています。実際、玉城芸能協会会則第4条でも「本会は、本会の趣旨に賛同した芸能(歌・三線、筝、舞踊、器楽)に携わる者(研究所開設者及び門下生、個人)を以って組織する」と記され、在住地に関する決まりは特に記されていません。

(3)湧上さんの会長就任
 湧上さんは、岸本善吉会長から依頼され、2009年5月2日の総会で、会長に就任することになりました。以後、岸本さんは相談役となりました。なお、南城市文化協会連合会から高良武治会長が総会に出席し、湧上洋さんの会長就任を祝いました。
 この総会で、湧上さんは次のような就任の挨拶をしました。

 私は芸能についてはまだまだ未熟者であり、正直なところ芸能協会会長のお話が最初にあった頃は会長をお引き受けすることに対し、一抹の不安が御座いました。
 幸いなことに、仲地岩雄さん・大城好枝さん・知花初子さんのご三方には副会長に留任していただき、また岸本先生には新しく設けられた相談役に就任していただきました。そして安次富勲さんが引き続き事務局長を引き受けていただきました。

「紙資料」内の「玉城芸能協会芸能協会長就任挨拶」より抜粋

 「一抹の不安」があったというのは本当で、湧上さんは筆者にこう述べています。「2006年以降支部長と会長を歴任なさった岸本さんが相談役となり、また、その間ずっと副支部長・副会長をなさった仲地さんと大城さん、知花さんが残留してくれたおかげで、私は会長としてやっていけると思えました。また、2007年以降事務局長の安次富勲さんが事務局長を続けて下さることになったのも、心強かったです。事務局長は、総会の準備など、会の運営がスムーズにいくように様々な事務を行うので、慣れた人でないと困ると思っていました。副会長や事務局長が総入れ替えとなるのであれば、到底、会長職を受ける気にはならなかったでしょう」
 なお、相談役となった岸本さん、副会長の仲地さん・大城さん・知花さんは、それぞれ岸本善吉古典音楽研究所・仲地岩雄民謡研究所・大城好枝琉舞道場・知花初子箏曲研究所の代表を務めていたので、芸能イベントを企画していくうえで知恵を出すだけでなく、門下生の参加に関する調整ができました。
 そして、同総会の直後に開催された懇親会で、新会長となった湧上さんは、次のような挨拶をしました。

 会長から会員の皆様に2つだけお願いがあります。
 その1つは、会員を増やすことに対するお願いであります。平成20年度の玉城芸能協会の会員数は、大人会員102名・児童会員41名の143名でありますが、もっと会員を増やしていきたいと考えています。私たちの周辺には、芸能関係者や芸能に関心のある方で未加入の方がまだまだおられると思いますので、そういう方々の勧誘をお願いします。
 その2つは、個人会員のグループ化を図るためへの協力願いであります。今後個人会員の増加が考えられますので、事務局長からの会員への連絡する負担が増加します。その負担を緩和するために、個人会員を地域ごとに、或いは友人ごとにグループ化していきたいと考えております。

「紙資料」内の「懇親会での会長挨拶」より抜粋

 ここで、湧上さんは、会長就任早々、会員に2つのお願いをしています。それらは、「会員を増やすこと」と「個人会員のグループ化」です。前者について少し補足説明をします。この挨拶では、2008年度の会員数が143名となっています。この人数はほかの3地域と比べて少ないです。2008年度の佐敷・知念・大里の「会員決定数」は、それぞれ319人・205人・216人となっています。「会員を増やすこと」が目指されたのは、そのような背景もあったと考えられます。

(4)会則改定
 湧上さんは、2009年の8月、会員数を増やすために会則の改訂を行うことにしました。
玉城芸能協会設立時の会則は芸能関係者だけを対象としていましたが、湧上さんは、芸能関係者以外の人も対象とする内容に変えようと考えました。
 その改訂に向けた話し合いが、その年の8月にもたれましたが、その会合の案内文の題は、「玉城文化協会復活(再結成)に向けての話し合い」となっています。湧上さんは会長に就任して数カ月後に、文化協会復活に向けて動き出したのです。同案内文には、会合の趣旨が次のように書かれています。

玉城地域に在住する芸能部門以外の学術、美術、武術、盆栽等文化活動に携わる方たちの南城市文化協会連合会への加入を図るため、当面玉城文化協会復活が困難であるところから、玉城芸能協会に窓口機能をもたし、学術、美術、武術、盆栽等文化活動に携わる方たちの玉城芸能協会加入を促進するための会合とする。

「紙資料」内の「玉城文化協会復活(再結成)に向けての話し合い」より抜粋

 湧上さんの考えは、まず、玉城芸能協会のまま芸能関係者以外の会員を増やし、次に、その会員が増えた時点で玉城文化協会に改称するというものでした。
 会則の主要な改定内容は次の通りです。下線の箇所が追記されました。

(目的)第2条
本会は、玉城地域の芸能活動及びその他文化活動を促進すると共に、会員相互の交流と親睦を図り、併せて地域文化の向上に寄与する。

(事業)第3条
(1)芸能発表会の開催
(2)歌・三線・筝・舞踊・器楽の後継者育成
(3)南城市の文化事業への協力
(4)会員相互の親睦交流に関すること
(5)その他必要な事業(学術、美術、武術、盆栽等を含む

(役員)第5条
(1)役員
 会長1名
 副会長3名(歌・三線、筝曲、琉舞)
 事務局長1名
 会計1名
 評議員12名(琉球古典音楽、筝曲、琉舞、日舞、器楽、学術、美術、武術、盆栽
 監事2名
 伝達員 各研究所及び居住する部落に1名

 なお、改定後の会則には「附則」が加えられ、そこには「この会則は、平成21年8月22日に一部改正して施行し、玉城文化協会が復活するまでの期間限定とする」と記されています。
 こうして、2009年8月22日に会則が改定されました。

(5)玉城文化協会結成に向けて
 会則改定後、芸能関係者以外の会員が増えました。しかし、文化協会復活への道は険しいものでした。当時の状況について、湧上さんは、2010年5月30日「玉城芸能協会総会における会長挨拶」の中で次のように述べています。

昨年(2009年)6月に、南城市文化協会連合会の高良武治前会長の指示により、玉城文化協会の復活に向けて、関係者を集めての会合を2~3回程持ちましたが、結論として会長を引き受ける方が無く、玉城文化協会の再結成は不発に終わりました。ただ、そういう状況の中においても、盆栽部門15名、書道部門2名、写真部門2名、武術部門1名及び華道部門1名の方々が、新たに私たち芸能協会に入会して、文化活動をしておられます。しかし、芸能部門以外の方々が、いつまでも芸能協会員では、おかしな話でありますので、早急に玉城文化協会を復活させることが必要であります。(略)平成23年(2011)度には、現在の玉城芸能協会を発展的に解消し、新しい南城市玉城文化協会を立ちあげて行きたいと考えております。

「紙資料」内の「玉城芸能協会総会における会長挨拶」より抜粋
※括弧内の文言は筆者による。

 たしかに、改定後、芸能関係者以外の会員は、盆栽部門を中心に順調に増えていきました。しかし、玉城文化協会の復活は容易ではありませんでした。会長を引き受ける方がいなかったからです。まず、湧上さん自身が芸能協会の会長から文化協会の会長に移行することに難色を示しました。その点について、湧上さんはこう語っています。「文化協会となると、芸能以外の様々な部門も含めた大所帯となるので、荷が重い気がしました。より学識のある方に会長になってもらいたかったのです。横滑りのような形で安易に私が文化協会の会長になるのには抵抗を感じたのです」
 そのような湧上さんの意向もあって、湧上さん以外の会長を探すことになりました。玉城芸能協会は、5人ほどの会長候補を決め、南城市文化協会連合会の高良会長に推薦しました。南城市文化協会連合会側はそれを受けて、それらの候補に会長就任の依頼をしました。しかし、全員から辞退の回答を得るという結果になりました。そのままでは、芸能協会から文化協会へ移行することは出来ません。話は振り出しに戻ることになりました。
 しかし、その結果を知った湧上さんは、自身が玉城文化協会の会長に就任することはやむを得ないと思うようになりました。あとは、文化協会の復活に向けて努力するだけであると、考えを切り替えました。
 そうして、湧上さんは文化協会の復活に向けて動き出すようになりました。2010年12月5日に開催された第4回芸能公演(玉城芸能協会主催)のパンフレットに書かれた挨拶文に、湧上さんはこう書いています。

私たちは、この舞台発表と盆栽・絵画・書道・写真・華道等の文化展を通して会員相互の交流と連携を図りつつ、今後の文化活動に頑張る所存であります。そして、多くの文化活動者の結集を得て、一日も早く「玉城文化協会」の復活を実現させたいと考えております。

第4回芸能公演用パンフレットの挨拶文

 そして、翌2011年、湧上さんは、玉城文化協会復活に向けて本格的な動きを見せました。まず、1月16日の新年会及び反省会で、湧上洋さんは「今年は(中略)是非とも玉城に文化(むら)を再建して、文化の華を咲かせたいと考えております。そのためには、現在の芸能協会を発展的に解消し、玉城文化協会を復活させることが必要であります」と挨拶しました。
 次に、湧上さんは、同年2月12日、第1回玉城文化協会再建準備委員会(拡大評議委員会)を開催しました。同会開催のための案内文(2011年1月31日付)で、会長湧上洋さんは「さて、現在の玉城芸能協会を発展的に解消し、休眠中の玉城文化協会を復活させるための玉城文化協会再建準備委員会(拡大評議会)を下記に開催しますので、ご出席下さいますようお願い申し上げます」と書いています。さらに、2011年3月13日には、第2回玉城文化協会再建準備委員会を開催しました。そして、2011年5月7日の総会で、遂に玉城文化協会の復活ができるようになりました。

(6)事業内容
 ここでは、玉城芸能協会主催で実施された主な事業を紹介します。

【芸能発表・展示会】
・2006年9月22日 粟国島慰問公演
 32名(古典音楽・舞踊・箏曲・民謡・太鼓)が粟国村の敬老会で15演目を演じる。粟国島は岸本善吉氏の故郷。
・2007年12月16日 第1回芸能公演
・2008年12月14日 第2回芸能公演

「第2回芸能公演を開催いたしました。(中略)三百余名の観衆がお集まりいただき、総勢100名が琉舞・琉球民謡・日舞・器楽合奏と16の演目を演じていただきました。特に今回は、児童会員の出演も多く6演目はすべて児童会員だけで演じられました」

安次富2009:7

・2009年11月22日 第3回芸能公演(ミニ展示会同時開催)

「本日の芸能公演では、南城市文化協会連合会において活動中の盆栽・絵画・書道・写真・華道の各部門の玉城出身の方々が本会へ入会し、会場においてミニ文化展を行っていただき、芸能公演に花を添えていただきました。このことは、「玉城文化協会」の復活へ一歩前進したものと喜んでおります」

「第3回芸能公演ごあいさつ」より引用

・2010年6月24日 身体障害者療護施設・仁愛療護園慰問公演(仲地岩雄民謡研究所出演)
・2010年12月5日 第4回芸能公演(ミニ展示会同時開催)

【史跡巡り】
・2010年7月11日 玉城史跡巡り(玉城城址、尚泰久王墓陵、浜川御嶽等)
 講師:新城啓八

【文化講座】
・2010年9月18日「琉歌からみた《吉屋チルーの生涯》」
 講師:湧上洋

【会員間交流】
・2008年1月19日 反省会・新年会
・2009年1月17日 反省会・新年会

「1月17日にはチャーリーレストランにおいて大人50人児童20人が参加し、芸能公演の反省会と新年会を開催いたしました。芸能公演のビデオ鑑賞や琉舞、日舞、民謡の飛び入りに始まりカラオケ大会等で盛り上がり、会員相互の親睦を深めることができました」

安次富2009:7

・2010年1月23日 反省会及び新年会
・2011年1月16日 反省会及び新年会

 玉城芸能協会時代の事業内容の特徴は次のようにまとめることができます。
・毎年、芸能公演が開催されていた。
・2009年8月22日の会則改定で、学術、美術、武術、盆栽等も同会の活動に含めるようになった結果、2010年には史跡巡り(講師:新城啓八)と文化講座(講師:湧上洋)が開催されるようになった。また、芸能公演とミニ展示会が同時開催されるようになった。
・不定期で、慰問公演が開催されていた。
・反省会・新年会が毎年開催され、全部門の会員間の交流がなされていた。

(7)インタビュウ
 本節では、玉城芸能協会時代の回想を、インタビュウ形式で紹介します。

――岸本会長はどのような理由で会長を辞めることになったのですか。

 一定の期間(2006年度から2008年度までの3年間)会長を続けたので、そろそろ一線から退いて、次の人にバトンタッチしたいということだったと記憶しています。

――湧上さんは、岸本さんから次の会長になってほしいと言われたのですか。

 そうです。しかし、その前に、岸本さんは、ほかの役員の方々に、「湧上さんに会長をやってもらいたいと思っている」とおっしゃっていたそうです。私に依頼する前に、私が次期会長になることについて、皆の意見を一致させておきたかったようです。スムーズに引き継ぎたいという思いがあったのでしょう。

――岸本さんの後を継ぐというのに、プレッシャーはありませんでしたか。

 岸本さんの存在は大きかったので、会長職は重責であると思いました。岸本さんには実力も人望もあったので、会長を退くことで、芸能関係の会員を動揺させてしまう恐れもありました。求心力のある岸本さんには、相談役という形で残っていただく必要がありました。

――岸本さんの存在は大きかったのですね。

 沖縄県文化協会賞(功労賞)や沖縄タイムス芸術選賞(琉球古典音楽賞三線の部)を受賞するだけの実力者で、玉城だけでなく、島尻南部全体の芸能関係者を束ねていくだけの影響力を持っていました。

――相談役は、具体的にどのような仕事をするのですか。

 特段、何かをするということはないのですが、総会や評議会などの大きな会合には参加していただき、ご助言等をいただいていました。

――湧上さんが会長に指名された理由は何だとお思いですか。

 よくわかりませんが、旧玉城村時代からの役場とのパイプがあるというのがその理由だったのではないでしょうか。村のいくつかの委員や審議員を経験していましたので。

――湧上さんが歌三線で師範の腕を持っているというのも、理由の1つではないかと思いますが。

 というより、私が歌三線だけでなく、琉歌や写真なども行っているということのほうが、大きかったかもしれませんね。芸能協会はいつか、芸能以外の部門も含む文化協会に戻るという目標がありましたから。

――芸能関係の会員は、芸能協会のままでもよいと思っていませんでしたか。

 いえ。そうではありませんでした。芸能部門の会員の方々は、芸能だけではさみしいと言っていました。盆栽や華道、写真、琉歌、学術、美術など、様々な分野の人が揃っているほうが楽しいと考えていました。

――湧上さんも、会長就任後、芸能以外の部門も含めた文化協会を復活させるという強い思いをお持ちでしたね。

 できるだけ早く、芸能以外の活動を加えて、文化協会として復活させたいと考えていました。玉城村時代は、芸能のみならず、書道や琉歌、写真、絵画、盆栽など様々な文化活動を活発に行なっていましたからね。元に戻さねばという思いになりました。南城市が誕生して、南城市文化協会連合会が設立された時、玉城の組織が休会状態となったため、芸能関係者だけが、南城市文化協会連合会芸能部の1地域組織(玉城支部)に所属することになりましたが、ほかの旧町村(佐敷町、大里村、知念村)は、芸能以外の部門も含めた形で参加し、佐敷文化協会、大里文化協会、知念文化協会となりました。玉城だけが取り残されているのはまずいと思っていました。なお、南城市文化協会連合会会長の高良武治さんも、その思いを強くお持ちでした。高良会長の要望に応える形で、文化協会の再結成を行ったと言っても過言ではありません。

――南城市文化協会連合会としても、いろいろと不都合があったのでしょうか。

 玉城だけが芸能以外の活動をしていないというのは、やはり不都合がありました。まず、南城市文化協会連合会は、芸能公演以外に総合文化展を開催していましたが、南城市全体のイベントにもかかわらず、玉城の展示だけが乏しいというのは看過できませんでした。総合的に文化事業を推進している南城市文化協会連合会にとっては、玉城だけ芸能に特化している状況はやはり問題であったのです。

――たしかに、4町村が合併して南城市が誕生したのに、玉城だけが、芸能以外のイベントをつくりあげていくプロセスに参加しないのは変ですし、玉城の会員数だけが少ないのも問題ですね。

 そうなのです。文化協会連合会が催す文化展などのイベントに、4地域の会員がバランスよく揃って参加するということはごく自然なことであり、それが本来の姿であると思います。玉城地域だけが極端に少ない人数で参加することに、寂しい思いをしていました。そういうこともあって、玉城の会員数を増やすことが求められていたのです。そして、増やすには、芸能以外の部門を拡大する必要があったということです。

――玉城芸能協会の芸能公演は、第3回目以降、ミニ展示会とセットになりましたね。芸能公演と展示会を同時に開催するというアイデアは、湧上さんが出したのですか。

 誰かのアイデアというより、話し合いの中で自然と出てきたアイデアです。文化展を単独で開催した場合、見学者の数はあまり期待することができません。しかし、芸能公演には、一定の数の人が確実に来ます。出演者の家族はだいたい見に来ます。そこで、同時開催という案が出てきたわけです。芸能公演の会場のロビーに展示スペースを設ければ、展示品は来場者の目にとまるようになります。絵画や書、盆栽、琉歌、写真などに元々関心のある人はもちろん、関心のない人にも、展示品のすばらしさを感じてもらえるのではないか。そう考えたのです。

――その効果はありましたか。

 ええ。実際、展示物を鑑賞する人はたくさんいました。

――湧上さんも出品なさりましたか。

 出品しました。出品数が少ないと、展示会場全体の華やかさがなくなってしまい、来観者の目を引くことができなくなるので、出品数が少なくなった時のために、私は、展示物のパネルを多めに作っていました。

――湧上さんは、2010年9月18日「琉歌からみた《吉屋チルーの生涯》」という題で講演をなさりましたが、工夫したことなど、なにか覚えていることはありますか。

 講演では、吉屋チルーの琉歌のすばらしさを知ってもらうために、彼女の作品の解説をしましたが、ただたんに歌の意味を解説するというのではなく、彼女の生きた足跡を時系列でたどっていくという形をとりました。幼い頃について詠まれた歌から紹介していきました。歌だけでなく、彼女の人生も深く知ることによって、関心の幅を広げてもらえるのではないかと考えたのです。また、敷居の高い難しい話ではなく、初めて吉屋チルーのことを知る人でも楽しめるような講演会を目指しました。

文化講座「琉歌からみた《吉屋チルーの生涯》」(2010年9月18日実施)のレジュメ(1枚目)
文化講座「琉歌からみた《吉屋チルーの生涯》(2010年9月18日実施)のレジュメ(2枚目)

――吉屋チルーは幼い頃に親によって辻に売られました。そのことが彼女の人生の起点となっているので、その悲劇を知ることは、その後の彼女の人生を深く知るのに役立ちますね。

 そうですね。彼女は、幼い頃に琉歌をつくったのではなく、遊女(ジュリ)になって芸事を学んでから、昔のことを回想してつくったのですが、辻に売られて遊女になるというのはたいへん辛かったはずです。彼女はその悲しさを歌にしています。例えば、「自分を育てることができないのにどうして私を産んだのだ、他人に弄ばれるような人間にしたのか」という内容の、親を恨むような歌を残しています。

――幼少期も可哀相ですが、その後の人生も悲しいですね。好きな男性ができても、遊女の仕事を続けなければならないというのは悲劇です。
 養ってくれているアンマー(ジュリの抱え親。貸座敷の女将)に逆らうことはできませんでした。アンマーの言われた通りに働くだけだったのです。彼女はその境遇を歌の中で、風にたなびく糸柳に例えています。

 花の身やあはれ 糸柳心 風の押すままに 馴れる心気
 歌意:遊女の身は哀れなもので、糸柳が風の押すままなびくように、いやな客にも言うままに従わねばならないのが、ひじょうにつらい。

 もし嫌な客を拒めば抱え主のアンマーから虐待されます。客を受け入れるしかないのです。なので、彼女は、風に押されるがままなびく糸柳を見て、自分の意志で何もできない不自由な彼女自身を見出していたのでしょう。

――悲しい歌が多いですね。

 ええ。悲しい歌が多いです。歌を詠むことで悲しみを浄化するしかなかったのかもしれません。また、身分の違いを嘆く歌もあります。次の歌がそうです。

 及ばらぬとめば 思い増す鏡 影やちやうもうつち 拝みぼしやの
 歌意:身分が違って、とうてい及ばぬ恋と思うと、想いはいよいよ増すばかりで、せめてあのお方の面影だけでも鏡にうつして拝みたい。

 抑えていた感情(哀傷)がほとばしり出る感があり、身分の違いにより報われない恋に苦しむ女心がよく表れています。技巧的で洗練された秀歌です。
 でも、悲しい歌ばかりを詠んでいたわけではありません。彼女は、その時々の美しい情景を感じ取って、歌にしていました。例えば、次のような歌があります。

 流れゆる水に 桜花うけて 色きよらさあてど すくて見ちやる
 歌意:山川の水に浮いて流れる桜の花の色が、あまりにも美しかったので、手にすくってみたのだ。

 この歌から彼女の境遇の悲しみを感じることはありません。

――湧上さんにとっての吉屋チルーの魅力とは何でしょうか。

 惹かれる点は、不幸な状態にあっても、自分自身の考えをしっかりと持っていたことです。自分の考えでできることが少ない、がんじがらめの生活の中でも、自由な心を持ち、独創的な歌を詠み続けたのです。しかも、彼女の歌は、今でも多くの人に愛されるほどの力を持っています。そういう点に感銘を受けます。

南城市文化協会連合会芸能部玉城支部の役員会(2006年6月24日開催)の資料(一部)。南城市文化協会連合会の代議員になる芸能部玉城支部会員として湧上洋さんの名が記されている。
玉城芸能協会設立総会(2007年8月4日開催)の式次第。湧上洋さんが中心となり「玉城芸能協会会則(案)の審議」を行った。
玉城芸能協会主催第3回芸能公演(2009年11月22日開催)のチラシ。
玉城芸能協会主催の玉城史跡巡り(2010年7月11日実施)の案内。芸能協会から文化協会へ移行する過渡期のイベント。
玉城芸能協会主催第4回芸能公演(2010年12月5日開催)の当日配布資料(プログラム)。
玉城芸能協会主催第4回芸能公演(2010年12月5日開催)の当日配布資料(ごあいさつ)。ミニ文化展の同時開催について述べられている。当時、組織は事実上、芸能協会ではなく、芸能以外の文化活動を伴う文化協会となっていたことがわかる。
玉城芸能協会新年会(2011年1月16日開催)会長挨拶。芸能協会を発展的に解消して文化協会を復活させる必要性が述べられている。
玉城文化協会再建準備委員会(拡大評議員会。2011年2月12日開催)の開催の案内。
玉城芸能協会総会(2011年5月7日開催)の会長挨拶。本総会で芸能協会から文化協会となった。「関係者を集めての会合を2~3回程持ちましたが、結論として会長を引き受ける方が無く」と記されている。湧上洋さんは芸能協会から文化協会へ移行する際に会長を退任するつもりでいたが、結局、会長を続けることになった。

4.さいごに

 これまで述べてきたことを以下にまとめます。
・文化協会には、①芸能関係者が発表する機会を提供する、②絵画や写真、琉歌、盆栽、書道、華道などの作品を展示する場所を提供する、③歴史文化を共に学ぶ機会を提供する、④文化に関する様々な分野の人々が親睦を深めることができる場を提供する、という社会的機能がある。
・芸能関係者の会員の多くは、研究所やサークルに所属していて、文化協会・芸能協会主催の公演を発表の機会としている。
・南城市文化協会連合会が発足した際、玉城の文化協会は会長不在のため休会となった。その結果、玉城だけが地域独自の組織を失い、芸能関係者は南城市文化協会連合会芸能部玉城支部に所属するようになった。これは、会長不在では組織活動ができないことを意味している。
・湧上さんは、玉城村文化協会では、歌三線の演者として芸能公演に参加しながら、歴史文化関係の講座に出席していた。玉城芸能協会では、監事となった後、岸本善吉会長から会長を引き継いだ。その後、芸能関係者以外の人が参加できるよう会則を改訂し、最終的に文化協会を復活させた。また、会長職の実務をこなしながら、文化講座(「琉歌からみた《吉屋チルーの生涯》」)で講師を務めたりもした。

文責:堀川 輝之

参考文献

安次富勲2009「第2回芸能公演を開催」『なんじょう文化』第6号南城市文化協会連合会p.7
玉城村文化協会編2005『くもこたまぐすく 会報9』玉城村文化協会