1.はじめに
湧上洋さんは1957年大学卒業後、技官として琉球政府で勤務することになりました。琉球政府内政局主税課(後、主税局総務課)で鑑定官として職業人生をスタートさせ、1969年に琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所の技術指導室長となりました。そして、1972年の本土復帰に伴い、琉球政府は沖縄県となり、琉球工業研究指導所も沖縄県労働商工部工業試験場となりました。同試験場で、湧上さんは化学室長に就任しました。
農業部門で勤務するようになったのは、1976年、沖縄県農林水産部農業試験場の化学室長になってからです。1976年以後、定年退職まで一貫して農業部門(行政と技術)で業務を行いました。1976年以降の履歴は次の通りです。
1976年4月 沖縄県農林水産部農業試験場化学室長
1977年8月 沖縄県農林水産部農産課パイン企画係長
1979年5月 沖縄県農林水産部流通園芸課課長補佐
1982年4月 沖縄県農林水産部農業試験場園芸支場長
1985年4月 沖縄県農林水産部農業試験場経営機械部長
1986年4月 沖縄県農林水産部農業試験場八重山支場長
1989年4月 沖縄県農林水産部農業試験場名護支場長
1991年4月 沖縄県農林水産部農業試験場園芸支場長
1995年3月 定年退職
湧上さんにとって農業部門の仕事は親しみやすいものでした。家庭で農業を行っていたからです。しかし、沖縄の農業全体を扱う業務に従事することは、個人で農業を営むこととは異なるので、業務を通じて新たに多くのことを学ぶことになりました。土壌の成分1つとってみても、沖縄の各地で異なります。例えば、国頭は酸性土壌で、南部はアルカリ性土壌です。どの土壌が適しているかは、作物によって異なります。よって、パインの生産になじみのない南部出身の湧上さんは、農林水産部農産課パイン企画係長となった時には、一からパインの勉強を始めなければなりませんでした。
湧上さんは約20年間農業部門の業務に携わり、そのうちの15年間は農業試験場に勤務しましたが、そのほとんどの期間、中間責任者(室長・部長や支場長)でした。組織全体の統括管理が責任者のメインの仕事になるので、責任者の時代には、自ら専門的な技術(化学分析など)を活かすことはありませんでした。具体的な仕事内容は、年間計画のスケジュール管理、部下への指導、各報告書の校正などでした。組織全体を統括管理するためには、組織内の業務全般に通じていなければなりませんでした。「専門の化学に関係しない業務が多かったので、それらを一から勉強しなければなりませんでした」と湧上さんは回想しています。
本稿では、湧上さんが定年退職するまでに従事した農業に関する仕事の一部を紹介します。また、湧上さんが現役だった時代の農業について理解を深めるために、野菜と花卉の戦後史に関するコラムを2つ挿入しています。
なお、本稿で紹介する情報は、文献情報以外はすべて聞き取り調査で得たものです。
2.本場化学室長時代
ここでは、本場(那覇市)の農業試験場化学室の室長時代に行われた地力保全基本調査について説明します。地力保全基本調査とは、農地における地力阻害要因に関する基本的な性質を明らかにすることを目的とした土壌調査のことです。『昭和50・51年度 地力保全基本調査成績書(南部・中部地域)』(沖縄県農業試験場1977)によると、本土では、地力保全基本調査は1959年以降農林省(当時)により実施されてきました。
沖縄では、1963年以降、琉球政府に対する技術援助の一環として、日本政府総理府より数次にわたり土壌調査団が派遣され調査が実施されましたが、1972年の復帰に伴い、1975年以降、沖縄県農業試験場においても農林省の助成をもとに地力保全基本調査が実施されることになりました。この調査により、前述の総理府による土壌調査の成果は、より新しく、またより精度の高いものに生まれかわりました。これにより、本土と同一基準の調査が完成することになりました。 同書の「はじめに」で、沖縄県農業試験場長の島村盛永氏は、地力保全基本調査を実施するにあたって得た協力について、次のように説明しています。
この事業を進めるに当たり、多くの機関から多大の御協力を頂いた。中でも農業技術研究所化学部および九州農業試験場環境第二部には、調査技術について懇切丁寧な御指導を賜った。また沖縄県総合事務局農林水産部には、この調査の効率的推進のために、積極的な御援助を頂いたほか、県農林水産部農産課、営農指導課、各普及所および各市町村の方々には連絡、案内、調査支援等に大変御世話頂いた。尚、(農林水産省の)農業技術研究所の松坂泰明部長には事業の当初から特別な御配慮を頂くと共に、九州農業試験場の足立嗣雄室長には数度の現地調査に加えて、特に難解な問題点を解明して頂いた。また次に掲げる方々(農業技術研究所化学部・九州農業試験場環境第二部・沖縄県総合事務局農林水産部の関係者の氏名が列挙されている)にはそれぞれ専門的な立場から、業務の進め方、現地の土壌調査、分類法、分析法等について御協力分担頂いた。
『昭和50・51年度 地力保全基本調査成績書(南部・中部地域)』(沖縄県農業試験場1977)
※丸括弧の記述は、筆者による。
この通り、県内外の多くの組織が参加しました。地力保全基本調査事業がいかに大きい事業であったかがわかります。地力保全基本調査成績書は農業振興のための必要不可欠な基礎資料となるので、この事業に力が入れられたのは当然でした。
なお、この「はじめに」では、沖縄県の復帰後の農業の状況について、次のように述べられています。
復帰後、本県は沖縄振興開発特別措置法に基づき、種々の整備開発事業が進められている。特に農業の振興は本県の第一次産業重視の施策と相まって、年々事業費も増大し、土地基盤整備・農業用水の開発・灌がい施設の整備・経営規模の拡大等、生産構造の改善が急速に推進されつつある。
『昭和50・51年度 地力保全基本調査成績書(南部・中部地域)』(沖縄県農業試験場1977)
この通り、農業は沖縄県の重要産業の1つであり、沖縄の歴史を語る上で農業の歴史を欠かすことはできませんが、農業は地力保全基本調査のような事業があってはじめて発展させることができるということを、忘れてはならないでしょう。
以下、この事業に関する湧上さんの回想を、インタビュウ形式で紹介します。
――『昭和50・51年度 地力保全基本調査成績書(南部・中部地域)』によって、本土調査と統一性のある調査成績書が初めて完成したということですか。
そうです。この事業によって初めて、本土と同等の方法で調査し、完全な統一をみることができました。それまでは、沖縄独特の基準や方法で調査されていた部分もありました。
――農家のために、この成績書はどのように活かされるのでしょうか。
土壌の性質を知ることなしに、作物を育てることはできないので、その土地の土壌を知ることは、農業の基本となります。この成績書には、それに関する詳細な情報が書かれています。
――詳細な情報ですか。
例えば、泥灰岩という情報だけでは十分ではなく、どの種類の泥灰岩であるかを把握する必要があります。稲嶺統とか安慶田統とか、泥灰岩にも様々な種類あり、それぞれ性質が異なります。この成績書には、その種類まで記されています。
――土壌の特性と作物の成長の関係について、具体的に教えて下さい。
サトウキビを例に挙げて説明します。前川区は、水はけのよい土地なので、雨が少ない年は、保水されにくくなり、サトウキビの成長が悪くなります。逆に、船越区は水はけが悪い土地なので、雨が少ない年でもさほど成長に影響を与えることはありません。
――では、農家の方々はこの成績書を参考にするのでしょうか。
個々の農家がこれを参考にすることはないです。
――農業改良普及センターの職員が、この資料を使うということですか。
そうです。農業改良普及センターでは、今でも、参考資料としてこの成績書が利用されています。JAでも、そうです。
――今は令和の時代にあります。昭和50・51年度の調査記録が、今でも利用されているのですか。
そうです。土壌は基本的に変わらないので、当時の成績書が今も利用されているのです。
――変わらない。ということは、その後、追加調査などは行なわれなかったのですか。
ええ。その後、調査は行われていません。ですので、昭和50・51年度の成績書が、基礎資料であり続けているのです。
――この調査で、湧上さんはどのような役割を果たしましたか。
私は、当時、管理者だったので、直接現地へいって土を削ってサンプリングするということはありませんでした。事業全体を俯瞰して、業務を円滑に進めるような仕事をしました。必要があると判断した時には、部下の化学分析を手伝いました。基本的な実務は、ほとんど担当者がやりました。
――『昭和50・51年度 地力保全基本調査成績書(南部・中部地域)』には、短期間の事業であったと記されています。余裕をもって業務を行えなかったのでは?
そうですね。短期間で調査をして、その結果を書きまとめなければならなかったので、大変でした。国の事業では、提出期限は待ったなしなので、残業してでもその期限を守らねばなりませんでした。
3.八重山支場時代
湧上さんが現役の時代、沖縄県には、本場(那覇)と名護支場、園芸支場(当時具志川市、現うるま市)、宮古支場、八重山支場の5か所に農業試験場がありました。2006年、那覇市首里崎山町の試験場(本場)は糸満市真壁へと移転となり、「沖縄県農業研究センター」に改称されました。また、同時に、うるま市の園芸支場は同センターと統合されました。なお、名護支場は「名護支所」へ、宮古支場は「宮古島支所」へ、八重山支場は「石垣支所」へと改称されました。
各農業試験場には、試験栽培に必要な大きな畑(試験圃場)があります。それらの農業試験場では、農学の専門家が中心になって、植物の品種改良・栽培技術や土壌調査、病害虫防除等の研究を行っています。湧上さんが責任者(支場長)として赴任していた農業試験場八重山支場でも、それは同じでした。 八重山支場では、温暖な気候に適した様々な作物に関する研究がなされていました。作物研究室ではサトウキビ・水稲の品種改良及び栽培改善の試験研究、園芸研究室ではパイナップル、熱帯・温帯果樹、野菜の品種改良及び栽培改善の試験研究がなされていました。ちなみに、国の研究施設(熱帯農業研究センター)が、八重山支場の隣にあり、そこでは、熱帯地方の植物に関する試験研究がなされていましたが、そことの共同研究もありました。
サトウキビは重要な作物の1つで、どのサトウキビ品種が八重山地域の栽培に適しているか(収量が高くなるか、ブリックス糖度が高いか)という研究がなされていました。つまり、たくさん収穫できて十分な甘さがあるという品種を開発することが目指されていました。4、5年かけて栽培試験をして好成績が出た場合、成績書を普及検討委員会議に提出することになっていました。湧上さんも担当者と一緒にその会議に参加して意見交換をしました。
なお、現在、一部の農家で栽培している四角豆は、当時八重山支場で栽培試験して普及に移した野菜です。そして、生食用パイナップルとして人気の高いピーチパイン(桃の香りがする)も当時選抜育種試験をして普及に移したパイナップルです。
また、八重山支場では、北海道農業試験場から委託された水稲育種試験も行いました。沖縄では水稲栽培が年2回できますが、北海道では年1回しかできません。北海道の農業試験場は、育種期間を短縮するために、栽培ができない冬の期間の育種栽培試験を八重山支場に委託したのです。
4.名護支場時代
湧上さんは、1989年4月1日から1991年3月31日までの2ヵ年、名護支場で支場長として勤務しました。名護支場は、次の通り6つの研究室で構成されていました。
・果樹育種研究室(①パイナップルの育種指定試験に関すること。②果樹大量増殖技術に関する試験研究、③果樹の品種選抜に関する試験研究)
・パイン研究室(パイナップルの栽培改善に関する試験研究)
・熱帯果樹研究室(熱帯果樹の栽培改善に関する試験研究)
・果樹茶業研究室(①カンキツ等温帯果樹の栽培改善に関する試験研究、②お茶の品種選抜及び栽培改善に関する試験研究)
・畑作研究室(サトウキビの品種選抜及び栽培改善に関する試験研究)
・水田作研究室(①水稲の品種選抜及び栽培改善に関する研究、②水稲原種の増殖配布に関する研究)
本章では、『試験研究の歩み 移転20周年記念誌』への寄稿文「名護支場の思い出 湧上洋」を参照しながら、主に果樹育種研究室と熱帯果樹研究室に関するエピソードを紹介します。また、研究以外に関するエピソードも2つ(水問題とレクリエーション)紹介します。
(1)果樹育種研究室
パイン缶詰の輸入自由化をひかえ、沖縄のパイナップル産業は厳しい状況になることが予想され、競争力を高めるための試験研究が取り組まれるようになりました。名護支場では、湧上さんが赴任した年、果樹育種研究室が新たに設置されました。そして、名護支場は、農林水産省果樹試験場口之津支場から高原利雄氏を室長に迎え、パイナップル育種研究を指定試験として開始しました。それは、名護支場運営の最初の仕事だったので、湧上さんは、事務手続きや試験研究の取り組みなどに不安を持ちましたが、同研修室は育種研究を幅広く実施し、研究を軌道に乗せることが出来ました(試験研究の歩―移転20周年記念誌―編集委員会1999『試験研究の歩み 移転20周年記念誌』p.232)。
(2)熱帯果樹研究室
当時はマンゴーなどの熱帯果樹が新規振興作物として注目されていました。農業試験場名護支場は、熱帯果樹の栽培試験を充実させるために、1986年、安富徳光主任研究員(当時)を台湾省農業試験所鳳山熱帯園芸試験分所へ派遣し、約5カ月間熱帯果樹の栽培研修をさせました。これが縁となり、鳳山熱帯園芸試験分所と名護支場との密接な交流が図れるようになりました。湧上さんの勤務期間中、名護支場は、沈再発所長および2名の研究員を招聘しました。かれらにより、マンゴーやパパイヤ、レイシなどの熱帯果樹類の栽培に関する講演と実地指導が行なわれました。その後、農業試験場と台湾省農業試験所との間で熱帯果樹の共同研究の覚書が交わされ、鳳山熱帯園芸試験分所からの研究員の招聘と農業試験場からの研究員の研修派遣が継続されるようになりました(試験研究の歩―移転20周年記念誌―編集委員会1999『試験研究の歩み 移転20周年記念誌』p.232)。
(3)水問題
農業試験場での灌漑水の確保は重要ですが、湧上さんは、八重山支場、名護支場、園芸支場のどの支場でも、旱魃による水量減少の問題に直面し、その対策に苦労しました。特に、名護支場には、大量の水が必要とされる水田があるので、旱魃は尚更深刻な問題でした。対策として、湧上さんの前任者の与古田支場長時代に、羽地大川農業・水利事業への参加が計画されました。湧上さんも名護支場長時代、その推進にあたりました。 なお、名護支場では、もう1つ水に関わる問題がありました。それは、水道管の漏水でした。ある月の水道料金が月平均の5倍程に増加したことがありました。その原因が漏水である可能性があったので、庶務課の職員と湧上さんの4名は、漏水箇所の特定を試みました。ところが、名護支場の水道メーターは、支場から2キロメートルほど離れた内原集落内に設置されていたので、その2キロメートルの間を調べなければなりませんでした。その作業は難航しましたが、1週間後、場内に埋設された水道管から漏水していることが分かり解決しました。「一時はどう対処すればよいかと悩んだものです」と湧上さんが回想しています(試験研究の歩―移転20周年記念誌―編集委員会1999『試験研究の歩み 移転20周年記念誌』pp.232-233)。
(4)レクリエーション
名護支場では、仕事以外でも忘れがたい思い出があります。湧上さんは、観月会と忘年会を支場全体でやることを、職員会議で提案しました。その案は、全職員により賛成され、実施されることになりました。「楽しい観月会と忘年会が出来、職員から喜ばれたものです」と湧上さんは回想しています。
2年目の忘年会は力の入ったものになりました。三味線と笛での幕開けとなり、室対抗の隠し芸大会が行われました。また、「琉球國祭り太鼓」のメンバーの照屋忠敬氏中心に、若い職員による太鼓のアトラクションが披露されました。「会は大変盛りあがりました。そのことは楽しかった名護支場の思い出として今でも鮮明に残っています」と湧上さんは述べています。
試験研究の歩―移転20周年記念誌―編集委員会1999『試験研究の歩み 移転20周年記念誌』p.233
以上の通り、湧上さんは名護支場長時代、パイン缶詰の自由化への対応、台湾との共同研究の開始、羽地大川農業・水利事業の推進など、重要な業務に関わってきました。国際競争が激化していき、環境整備や生産技術の向上がそれまで以上に求められる時代に、湧上さんは農業関連の業務に携わっていたと言えます。
5.園芸支場時代
具志川市(現うるま市)に所在していた園芸支場では、野菜・花卉の品種改良および栽培改善、優良花卉・球根類の種苗増殖技術の開発試験が行われていました。
湧上さんは、園芸支場の支場長を2回経験しました(1982年4月1日から3か年、1991年4月1日から4か年)。1回目の支場長就任時では、圃場の整備が大きな仕事の1つでした。それについて、湧上さんは『園芸支場移転記念誌』に掲載された寄稿文「園芸支場の思い出」で次のように述べています。
最初に勤務した当時の園芸支場は、沖縄市八重島より具志川市(当時)兼ケ段後原に移転して7年目になるというものの、建物・施設の整備やほ場整備は決して十分ではなく、特にほ場の約半分は未整備の状況にありました。その上、ほ場整備予定地の大半が未買収地であり、急を要する用地取得が待っていました。(中略)ほ場整備に必要な用地取得では、先祖から受け継いできた土地を手放すことに地主のためらいも強くあり、取得するのに色々と難渋しました。幸いにして足繫く地主の家を訪ねて誠意を持って交渉したことが地主側に理解されて取得する事が出来、やっとの事でほ場整備に間に合わすことが出来ました。未整備部分のほ場整備は、本場化学部の助言により300平方メートル程の精密ほ場(国頭マージ土壌・島尻マージ土壌・ジャーガル土壌)を組み入れて、昭和58(1983)年度に実施しました。これで園芸支場のほ場整備は全て終了したのであります。
沖縄県農業試験場園芸支場編集・発行2006『園芸支場移転記念誌』p.134
先祖代々の土地を手放すことに対する抵抗は大きく、湧上さんは地主を説得することに苦労しました。湧上さんは当時を振り返ってこう語りました。「10名ほどの地主に土地の売却をお願いしました。1軒1軒訪問しました。2名はなかなか許可していただけませんでした。そのうちの1名は、雨の日に本場(那覇)の次長とともにお願いに行った時、やっと、売却の決断をしていただきました。『雨の日にわざわざ遠くから来てくれたのですか』と言って、こちらの強い思いに理解を示して下さったのです。もう1名との交渉には、もっとも時間がかかりました。幾度もその方を訪問しました。『困っています。あなたの土地が使えないと、まとまった圃場ができません。沖縄の農業のために、協力していただきたいです』と言って、粘り強くお願いしました。何が決め手になったのかは、わかりませんが、最終的に了解していただきました」
次に、2回目の就任時のエピソードを紹介します。
湧上さんは、2回目就任した時点の様子を、同寄稿文で、次のように記しています。
2回目の園芸支場勤務の時は、(中略)野菜研究室・花き研究室以外に、園芸育種研究室と根茎作物研究室の二つの研究室が増設され、園芸支場は一課・四研究室体制となり、組織が拡大されていました。
沖縄県農業試験場園芸支場編集・発行2006『園芸支場移転記念誌』p.134
2回目の支場長時代で湧上さんがもっとも強く印象に残っていることは、ニガウリの高品質・高収量品種の育成に取り組んだ研究の成果が出たことです。在来種の約1.5倍も増収する新品種が育成されました。その新品種の登録名は、「群星(ムリブシ)」です。沖縄県が開発したあらゆる在来品種の中で、初めて品種登録をした品種が群星です。群星は瞬く間に広く農家に普及していきました。そして、担当した園芸育種研究室の坂本守章研究員(当時)のニガウリの品種育成に関する研究は高く評価され、科学技術庁官賞が授与されました。
この研究開発は簡単ではありませんでした。5年ほどの時間を要しました。
理想的なニガウリは、①雌花がたくさんできる(多くの収量が期待できる)、②大きい実がつく、③品質がよい(味がよい)などの要素を持ちますが、それらの要素をすべて兼ね備えた品種は、存在しません。そこで、それらの要素がバランス良く揃った品種を開発することが目指されました。
まず、坂本守章研究員は、交配実験に使うに値する品種を集めることから始めました。優れた品種同士を掛け合わせることにより、より優れた品種を生み出すことが可能となるので、優れた品種を見出すことは重要でした。よって、県全域に存在する優良な品種を、できるだけ多くみることになりました。その調査(情報収集)だけで1年以上を要しました。県の各地域の農業改良普及センターの農業改良普及員や農協(現JA)の営農指導員から話を聞き、地道に情報を集めました。農業改良普及センターの農業改良普及員は、生産者と接する機会を多く持つので、生産者の考えをよく知っていました。また、農協(現JA)の営農指導員は、農産物中央卸売市場で業者の購入する傾向を把握していたので、市場のニーズに通じていました。当時、試験場のニガウリ担当者は1人だけだったので、調査漏れのないように遍く調べようとすると、どうしても1年以上の時間が必要になりました。ちなみに、そのような調査はほかの作物の開発でも重視され、ヘチマや冬瓜の開発でも行われました。大きいヘチマや冬瓜が好まれていた時代がありましたが、消費者の嗜好は小さいサイズに変わっていったので、小さい実のなる品種に改良するようになりました。
さて、実験用のニガウリが決まると、交配などの実験(育種)が繰り返されました。しかし、ほとんどの場合、期待した通りの結果がでずに終わりました。実が大きくて雌花がたくさんできる(収量が高い)品種をつくるというのは、簡単ではなかったのです。
良い品種が出来上がると、普及検討委員会という会議が開かれました。そこで、普及に向けたステップに移行すべきか、まだ引き続き改良を重ねるほうがよいかについて討議されました。激論になる場合もありました。湧上さんもその会議には必ず参加しました。
それらの一連の業務プロセスで、湧上さんは、上司として、担当者から相談を受け、助言・指導を行っていました。湧上さん自らが実験用の品種を探したり、実験を行ったりすることはありませんでした。
しかし、品種登録については、湧上さんは担当者と共に実務を行いました。品種登録の前例が沖縄にはなかったので、一からその方法を学ばねばなりませんでした。他の県の例を参考にしながら、ようやく群星の品種登録を済ませることができました。 ちなみに、鹿児島県の農業試験場も、ニガウリを開発し品種登録を試みたことがあります。しかし、国の野菜試験場久留米支場(現九州沖縄農業研究センター)が「ニガウリは元々沖縄在来のものだから、鹿児島が登録してはいけない」と指導し、鹿児島県は品種登録することができなくなりました。
なお、園芸支場時代には花卉の研究でも成果が認められましたが、花卉については、次章で説明します。
コラム「野菜の戦後史」:
ここでは、時代の変化とともに、沖縄の野菜農業およびその研究がどのように変化してきたのかを概観してみましょう。『園芸支場移転記念誌』に掲載されている久場峯子氏の「野菜栽培技術に関する試験研究の概要」の一部を紹介します。この概要を読むことにより、湧上さんの携わってきた農業行政や農業技術の業務の背景を知ることができるでしょう。
【戦後(1945~1972年)】
第二次世界大戦後の沖縄農業は、食料増産のための生産資材、および土地基盤の開発促進、生産技術の早期確立が急務であった。こうした戦後の農業復興が叫ばれる時において、野菜に関する試験研究は、自給体制の早期確立を主体とした各種野菜類の導入試験、適応優良品種の選定、種苗供給技術確立のための採種法ならびに栽培技術の試験が行われ、その成果は地域野菜生産振興に寄与した。
以後20年代後半に入って、(中略)駐留米軍人向け清浄野菜産地指定をうけ、軍向け販売が許可されるようになり、それに伴なって面積も拡大され、一般需要も伸び、それに応じて試験研究も強化された。その成果の主なものとして、昭和25年に米国より導入したタマネギ品種(エローバミュダー)について初めて栽培が可能であることを確認し、新たに昭和30年、グラネックスの導入試験に成功し、最も適応性の高い品種であることを確認し普及に移した。また生産期の前進栽培(※)の一環として、セット栽培技術も確立し普及に移された。更にバレイショの経済的栽培技術、ならびに種いも自給に関する栽培技術も確立された。
昭和30年代以降においては、これまで冬場の果菜類の生産が少なく、1~3月間は果菜類の端境期となっていた。その対策試験として、ビニール被覆資材利用試験、適応品種選定、作型、栽培技術等についての試験研究が行われ、それらの成果は果菜類の生産安定に大きく寄与し、又夏野菜の生産対策の一環として、遮光被覆資材の効果的利用試験を行うと共に、多くの耐暑性優良品種の選定、作型前進栽培技術の確立、生産期幅の拡大と周年生産作型体系の確立をはかるなど多くの研究成果をあげた。これらの研究業績は、野菜生産の安定をはかると共に、県外移出野菜の産地育成振興に寄与して来た。
※前進栽培:収穫の前進をねらって、育苗から収穫の終わるまでハウスあるいは温室で栽培する方法。【復帰後(1972~1988年)】
昭和47年の復帰を基点に、本県農業の動向は、これまでのサトウキビ、パイナップルを基幹とした農業構造から、高度経済成長の影響をうけ、農業の見直し気運の高まりとともに、収益性の高い畜産、園芸作物をとりいれた新しい農業展開がみられるようになった。そのなかにおける野菜作は、流通輸送体制の改善が進行するにつれ、これまで限られた県内需要を対象とした野菜作りから、冬春期の県外市場を対象とした移出野菜の生産が急速な伸びを示してきた。(中略)こうした本県農業の情勢に対応した野菜の試験研究は、1978年の組織改正によりそれまで果樹を除く園芸作物を総合的に扱ってきた園芸研究室が園芸支場となり、園芸育種研究室、野菜研究室および花き研究室の3研究室体制になり、研究の深化が図られる体制となった。野菜研究室では県内需要の伸びに相応した自給拡大技術の確立、夏野菜の生産対策等多くの研究課題を設定推進し、その成果はこれまでの野菜の生産振興に寄与してきた。
【平成時代(1989~2005年)】
バブル崩壊による厳しい財政下での試験研究推進体制となり、県単独試験課題の見直しと共に試験研究費は年々縮小し、試験研究費の獲得先が国や他県との共同試験、産業・大学等との共同による競争的試験等に向けられ、より早い成果普及が課せられるようになってきた。
沖縄県農業試験場園芸支場編集・発行2006『園芸支場移転記念誌』pp. 77-78
そういうめまぐるしい社会の変化の中で、本県野菜の戦略品目であるゴーヤー・サヤインゲン・レタス・スイートコーン・メロンについての高品質安定多収栽培技術確立試験を始め、オオバ・トウガラシ・ズッキーニ・食用ギク・モロヘイヤ・アスパラガス・イチゴ等新規品目の導入に向けた栽培技術開発やオクラとミョウガの主要病害虫の防除試験を実施した。
近年は、施設栽培の加速(鉄骨ハウス、養液栽培、養液土耕栽培、隔離床栽培)、省力化(機械化、一斉収穫、全量基肥体系等)、安全・安心(有機栽培、減農薬、減化学肥料等)、低コスト化(ハウス、施肥法/量)、周年栽培(夏秋期の台風・高温対策等)、島やさい等のキーワードの下に、栽培面からの対応が試験研究の主流になりつつある。
6.花卉
沖縄県の農家は、年間をとおして温暖な気候を利用して、本土で栽培困難な時期に生産できる作物を本土に出荷しますが、それは花卉についても言えます。県としては、巨大マーケットの本土における花卉の需要を把握しておく必要がありました。そこで、湧上さんは、沖縄県農林水産部流通園芸課の課長補佐の時代、その調査のために、年に1、2回、本土最大の市場である東京へ出張していました。湧上さんは、関東地域で、どこで栽培された、どのような花がどの時期によく売れるのかを調査しました。
1980年頃、沖縄県の花卉園芸は急速に伸長していました。キクは、主要な花卉の1つでした。農家の圃場では、2~4月の冬春期のキクを中心として、県が普及したキクの電照栽培が盛んに行われていました。キク以外にも、リアトリス、グラジオラス、カスミソウ、スターチス類などの本土市場への進出はめざましいものがありました。
沖縄県は、昭和60年(1985)度に100億円を達成することを目標にして、花卉園芸振興を図っていました。その結果、県内における花卉栽培は急速に成長していきました。昭和50年(1975)は、作付面積100ヘクタール、生産額5億6千万円でしたが、平成5年(1993)には作付面積11,100ヘクタール、生産額190億7千万円になりました。その成長の原動力は、農業試験場園芸支場の花卉担当職員が長年にわたり花卉研究に取り組み、数多くの成果を出して農家に普及させたことです。この成功については職員の努力に負うところが大きかったと言えます。
なお、農業試験場園芸支場は、花卉農家のニーズにこたえるべく、キクを中心に、導入した品種の選定試験を実施して多くの品種を普及に移していました。同園芸支場は、常に、生産者の考えや市場の動向を見据えて、業務に取り組んでいたのです。
コラム「復帰前後の切花の歴史」:
切花の研究は復帰前から進みました。ここでは、『園芸支場移転記念誌』に掲載されている勝連盛憲氏の寄稿文「花卉栽培技術に関する試験研究の概要」を参照することで、復帰前後の切花の歴史を概観したいと思います。沖縄の温暖な気候が利点となり、本土への出荷が増えてきたこと、そして、様々な工夫がなされて生産技術が高められてきたことがわかるでしょう。
【復帰前】
沖縄県農業試験場園芸支場編集・発行2006『園芸支場移転記念誌』p.80
昭和37年(1962年)から県内での切花需要も高まり、それにともなって切花生産農家も増え、試験研究体制もそれに対応すべく検討され、キクの品種適応試験や電照法の試験等が実施され、昭和41年(1966年)には本県におけるキクの電照栽培基準が設定された。品種については、天が原、乙女桜等が普及に移された。また昭和44年(1969年)からは本県が復帰することを前提に県外移出花卉類についての検討を行った。
【復帰後】
昭和49年(1974年)の石油ショック以降、石油エネルギーの高騰により本県の露地切花がみなおされ、それにともなって従来の態勢では市場対応が不可能となり、出荷組織が結成された。これを中心に本格的に県外出荷が昭和50年(1975年)より開始されたが、この実績が上がるにしたがって農家数も年々増加し、昭和53年(1978年)からは沖縄県経済連でも本格的切花出荷を取り扱うようになり、行政的にも集団産地育成事業や構造改善事業等が行われるようになった。(中略)県外移出切花類の栽培技術確立を行うために、昭和48年~昭和50年(1973~1975年)までの前半はクラジオラス、ストレリチアの栽培試験を中心に実施し、その適品種や冬切り栽培の生産技術を確立して普及した。昭和51年~昭和53年(1976~1978年)にはキクの露地2月~3月出しの生産技術確立を目標に試験を実施し、適品種や栽培方法について普及に移し、更にキク以外の県外出荷可能の切花類についても検討を行い、スターチス、紅花、ローダンセ、リアトリス、宿根カスミ草等の県外出荷切花としての栽培技術を解明し普及へ移した。 昭和54年(1979年)からはキクとシンテッポウユリについて「収穫期調整技術の開発に関する研究」として農林水産省の受託を受けた。キクについて我が国では夏は冷涼地、春秋は中間地帯、冬は暖地を中心として市場対応してきたが、本県の生産が伸びるにしたがって冬春季は本県が対応しつつあるため、収穫期の調節技術の開発を行わねばならず、昭和54年度(1979年)には大輪ギク、小ギク、スプレーギクのロゼット性(※)の追求を行った。
沖縄県農業試験場園芸支場編集・発行2006『園芸支場移転記念誌』p.81
※ロゼット:茎がほとんど伸長せず、根に直接葉がついているようにみえる根出葉の状態、またそういう生育型をロゼットといいます。
7.最後に
湧上さんは、約20年間沖縄県の農業部門の業務に携わり、そのうち15年間は農業試験場に勤務しました。その中で、沖縄初の品種登録(ニガウリの群星)に成功するなど、偉業を成し遂げました。なお、流通園芸課時代の行政経験と農業試験場時代の農業技術経験は、定年退職後にも生かされました。例えば、1996年に沖縄県農業会議農業農村活性化推進機構総括アドバイザー、2000年に玉城村農村総合整備推進協議会委員に就任し、県の農業部門で培った経験や知識を活用しました。また、船越の字誌(『玉城村船越誌』)を制作する際でも、農業の歴史に関する原稿を執筆しました。
なお、湧上さんは、現役時代、東京や九州、北海道などに公用出張しましたが、実は、海外へも出張したことがあります。農林水産部農産課課長補佐時代にはタイのバンコクへパイン缶詰の輸入自由化対策で出張しました。また、園芸支場長時代の1992年にはオランダで開催された「フロリアード」(国際園芸博覧会。10年に1回オランダで開催される花卉の国際博覧会)を視察しました。「海外出張は貴重な経験となりました。スケールの大きい博覧会を見学して、改めて園芸のすばらしさを感じました。また、花卉栽培で長い歴史のあるオランダで生産者の取り組みについて勉強できたことはよかったと思っています」と湧上さんは回想しています。