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湧上洋さんのオーラルヒストリー (1)「土地開発」

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湧上洋さんのオーラルヒストリー (1)「土地開発」
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1.オーラルヒストリー・プロジェクトについて

 社会は多様な人々の集合体です。よって、様々な個人の歴史をできるだけ多くみることで、歴史の全体像を俯瞰できるようになります。なんデジでは、個人の歴史を知るために、聞き取り調査を行っています。
 聞き取り調査には、大きく2つの方法があります。ひとつは、複数の声を集めて、特定のテーマについて深く掘り下げるという方法、もうひとつは、1人の人生を記録するという方法です。今後、なんデジの「オーラルヒストリー・プロジェクト」では、主に後者の方法により、南城市にゆかりのある人がどのように生きてきたか、どのように社会と関わってきたか、どのような時代の影響を受けてきたかなどについて調べていきます。
 近現代の歴史を記録するためには、聞き取り調査が必要です。近現代(特に現代)では、人、モノ、マネー、サービス、情報の移動が激しくなり、社会も個人も多様化してきたので、個々人の個性(歴史性)を把握するためには、丹念に個人の話を聞く以外に方法はありません。特に、南城市のような地方の歴史を掘り起こすには、聞き取り調査は必要です。なぜなら、地方の出来事は、国家全体や都道府県全体に関わる出来事とは違って、新聞などのメディアであまり取り上げられないからです。地方に埋もれている歴史に光を当てるうえで、聞き取り調査は欠かせないのです。
 なお、聞き取り調査には、「話者のみが知る事実」のみならず「話者の考え方や感情」を記録できるという利点がありますが、ややもすれば些末主義に陥ってしまう危険性もあります。「なんじょうデジタルアーカイブ」(なんデジ)のオーラルヒストリー・プロジェクトでは、そのような危険に陥らないように、次の点を意識しながら、聞き取り調査を行う努力をします。

①  世界史や日本史、県史、南城市史における重要な出来事と関連していることを聞く。
②  個人や小さな組織に関わる事柄でも、生命や財産、人権などに関する重要なものについては注目する。
③  長く続いてきたこと(決まり事や文化など)の変化に注目する。
④  以上をふまえた上で、話者のオリジナルな歴史や話者の個性を浮かび上がらせるようにする。

2.湧上洋さん(船越在住)について

オーラルヒストリー・プロジェクトの最初の連載では、湧上洋さんの人生を振り返ります。湧上さんの略歴は次の通りです。

湧上洋さん略歴:
1935年生まれ
1945年    沖縄戦体験(10歳)
1953年    知念高校卒業
1957年10月  琉球大学文理学部化学科卒業
1957年11月  琉球政府内政局主税課(後、主税局総務課)技手に採用。
1963年9月  琉球政府計画局主税庁総務課鑑定官
1969年1月  琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所技術指導室長
1972年2月  沖縄県労働商工部工業試験場化学課長
1976年4月  沖縄県農林水産部農業試験場化学室長
1977年8月  沖縄県農林水産部農業課パイン企画係長
1979年5月  沖縄県農林水産部流通園芸課課長補佐
1982年4月  沖縄県農林水産部農業試験場園芸支場長
1985年4月  沖縄県農林水産部農業試験場経営機械部長
1986年4月  沖縄県農林水産部農業試験場八重山支場長
1989年4月  沖縄県農林水産部農業試験場名護支場長
1991年4月  沖縄県農林水産部農業試験場園芸支場長
1995年3月  定年退職
1996年4月  玉城村社会教育委員
1996年4月  玉城村中央公民館運営審議委員
1996年11月  沖縄県農業会議農業農村活性化推進機構総括アドバイザー(1998年3月退職)
1997年12月  玉城村土地開発審議会委員
1998年10月  玉城村固定資産評価審査委員会委員
1999年1月  玉城村村史編集委員会戦時記録専門部委員
1999年10月  玉城村構造政策推進会議委員
2000年3月  玉城村農村総合整備推進協議会委員
2000年10月  沖縄県田園空間博物館地方委員会委員(沖縄県土地改良事業団体連合会)
2000年11月  玉城村経営・生産体制推進会議委員
2002年7月  玉城村市町村合併検討委員会委員
2006年1月  南城市固定資産評価審議委員会委員
2011年3月  『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会委員

 2022年5月から2022年9月にかけて、計11回延べ約33時間、話を聞くことができました。おうかがいした話は、多岐にわたるので、この連載では以下のようなテーマに沿って、その内容を紹介していきます。

・沖縄戦
・学生時代
・琉球政府職員時代
・沖縄県職員時代
・沖縄県農業会議
・玉城村土地開発審議会
・玉城村ミントンの会
・文化協会(玉城村文化協会、南城市文化協会)
・字船越での活躍

 この順番で紹介していくのではなく、文献調査などの進捗状況に合わせて、完成できた原稿から順次紹介していくことにします。なお、なんデジは「市民とつくるデジタルアーカイブ」を目指していますので、修正すべき箇所や、補足すべき箇所があるとお思いになった方は、ぜひご連絡願います。

3.湧上さんと土地開発審議会

 湧上さんは、1997年以降数年間、玉城村土地開発審議会の委員として、土地開発に関する審議に関わってきました。本稿では、玉城村土地開発審議会の歴史の一部、および土地に対する様々な立場の考え方を明らかにします。まず、同会の概要を説明し、次に湧上さんが委員の時に同会が扱った2つの事例を紹介したいと思います。2つの事例とは、「近隣住民の反対があった事例」と「聖地開発の事例」です。
 筆者は、当時同審議会で使われた資料(1つのファイルに綴じられていた)を湧上さんからお借りし、その資料に記載されている内容について質問したり、その背景にあった出来事を聞いたりしました。また、湧上さんの土地に対する個人的な考え方についても聞きました。湧上さんの「土地開発審議会委員としての考え」と「一村民(一個人)としての考え」を聞くことにより、土地に対する理解を深めることができました。

4.玉城村土地開発審議会とは

(1)玉城村土地開発審議会の役割

 玉城村土地開発審議会は、玉城村村土保全条例を遵守するために組織されていた審議会です。同審議会には、玉城村村土保全条例(平成3年6月27日条例第22号)の目的(第1条)を達成するために適切な判断を行なうことが求められていました。同目的は次の通りです。

この条例は、安全で良好な地域環境を確保することが、地域における現在及び将来の村民の生命、健康及び財産を保護するため、ひいては村土の秩序ある発展を図るため欠くことのできない条件であることにかんがみ、開発行為の許可基準その他の開発の適正化に関し必要な事項を定め、村土の無秩序な開発を防止し、もって村民の福祉に寄与することを目的とする。

玉城村村土保全条例(第1条)

 無秩序な開発を防止するために、同条例の第7条では、第1号から7号までの開発許可基準が示されています。それらは、基本的に、自然環境への影響や災害、土砂崩れ、土砂などの流出、通行の安全への支障、給水施設への影響、排水路への影響など、物理的な被害を防止するための基準となっています。
但し、この第7条の第1号には「社会環境を破壊しないような措置がなされていること」という文言があります。つまり、開発による「物理的影響」だけではなく、「社会的影響」も考慮されなければならないということになっています。本稿では、「聖地開発の事例」を紹介する際に、「社会的影響」についても触れることにします。
 玉城村土地開発審議会は、上記の目的や開発許可基準を考慮しながら、討議を通じて答申を作成します。それについて、玉城村村土保全条例では、第19条に「村長は、第6条、第8条、第14条又は第18条に係る処分、又は決定をしようとするときは、<中略>玉城村土地開発審議会の意見を聞くものとする」と、記されています。第6条、第8条、第14条、第18条は、それぞれ「開発許可」「変更の許可」「許可の取消」「不服申し立て」に関する規定です。本稿では「開発許可」に関する事例を2つ取り上げることにします。なお、村長の許可が必要な開発の定義は、次の通り、第6条に記されています。
 

次の各号に該当する開発行為をしようとする事業主は、あらかじめ村長の許可(以下、「開発許可」という。)を受けなければならない。

(1) 500平方メートル以上3,000平方メートル未満の一団の開発行為
(2) 500平方メートル未満の一団の土地において、土砂等の採取が500立方メートルを超え、又は周囲隣接地との1の箇所において高低差が1メートル以上生じる開発行為
(3) 一団の土地において鉱業法(昭和25年法律第289号)第3条に規定する鉱物で石灰石、その他規則で定める鉱物の堀採(採掘含む。以下同じ。)、又は当該堀採に係る開発行為
(4) その他村長が必要と認める開発行為

玉城村村土保全条例(第6条)

 そして、3,000平方メートル以上の開発行為については、第4条で「科契約の締結前に、当該土地の所在する地域住民に説明し、協力を得るよう努めるとともに、当該土地の開発についての意見を付して規則で定めるところによりあらかじめ村長と協議しなければならない」とある通り、さらに開発のハードルが高くなっています。

(2)審議の流れ

 玉城村土地開発審議会は、土地開発申請書の内容をみて、開発を行なうことが適当であるかどうかを判断し、村長に答申します。具体的には、審議は次のような流れで行なわれます。

① 開発をしたい人が、申請書と付属資料(設計図など)を一式まとめて、役場へ提出する。
② 役場の連絡会で、許可もしくは不許可を判断する。審議会に諮るべき内容を持つ申請がある場合、審議会が開催される。
③ 審議会には、湧上さんのような外部の委員と教育長、助役、収入役、担当行政職員が参加し、許可が適当かもしくは不適当かを判断する。
④ 審議会は判断結果を村長に答申する。
⑤ 村長は、同答申の内容を考慮した上で、最終判断を下す(答申は参考意見であり、最終決定ではない)。

(3)審議会のメンバー

 湧上さん含め、当時、外部の委員は9名いました。かれらは全員、玉城村在住者で、村会議員や学識経験者、農協職員、土地開発公社職員、飲食業関係者などでした。湧上さんは、農業行政に知悉しているという理由で委嘱されていました。当時、農地を宅地化する開発が多かったので、湧上さんの知識や判断力が必要とされていたのです。
 かれらは多様なバックグラウンドを持つ人達だったので、審議会では異論がたくさん出て議論は紛糾したのではないだろうかと、筆者は想像しましたが、悶着することはなかったそうです。湧上さんの話を総合すると、議論がいつも円滑に行われた理由は3つあると考えられます。1つ目は、委員は皆、常識的に考えられる人材であったということ、2つ目は、判断の難しいケースはほとんどなかったということ、3つ目は、担当行政職員が、議論のポイントを審議会開催の時点で上手く整理していたということ、です。

(4)回数

 湧上さんのファイルに綴じられている資料の中に、「開発許可一覧表」がありますが、それによると、2003年3月10日から2004年3月24日までの期間に許可された件数は27件あります。そのうち、審議会で諮られた件数は12件、取り下げは1件、保留は2件(境界確認および継続審議)となっています。

5.近隣住民の反対があった事例

(1)はじめに

 本章で扱う事例は、1棟の共同住宅(アパート)の建設に関する許可申請です。アパートの建設は別段珍しくありません。この類の開発申請については、審議会でわざわざ諮られないケースが多いです。しかし、ここで扱うケースでは、近隣住民から反対意見書が玉城村役場に提出されたという点で、特殊です。
 本章では、このアパート建築がどのような開発で、どのような反対意見が出て、そして、どのような結果になったのかを、資料と湧上さんの話を基に詳述します。さらに、このケースに関連して、戦後急速に進んだ宅地開発により沖縄のコミュニティでどのような問題が生じてきているのかについても述べることにします。
 なお、本事例にはプライバシーに関わる内容がいくつか含まれるため、個人名および字名は明らかにしません。便宜上、本件の起きたコミュニティは、字Aと称することにします。

(2)開発の概要

①建物の大きさ
1棟3階建て鉄筋コンクリート造共同住宅(アパート)。最大8世帯。想定最大住居者数24人。
②土地所有者
アパート建築希望者と同じ人物(開発申請書提出者)。南城市域外出身。申請当時南城市域外に在住(アパート建築後も字Aには住まない)。字Aの空き家を土地付きで購入し、その後アパートの建築を計画。

(3)住民への開発申請者の対応

 開発申請者は、アパートの建築についてA字住民の理解を得るべく2004年9月16日、A字の公民館で公聴会を開催し、建設の内容について住民に説明し、区長と近隣住民5名の同意を得て、同意書を玉城村役場に提出しました。近隣住民の同意書には「開発の施工、又は開発行為に関する工事の実施について同意します」、区長の同意書には「開発目的の趣旨及び計画概要等の説明を受け、検討した結果部落常会(有志会等)の同意を得ましたので、提出致します」と記載されています。

(4)反対意見

 開発申請者は、公聴会で5名から同意を得られなかったことも、開発申請書の提出時(2004年9月21日付)に書面で、玉城村役場に報告しています。それには、「開発行為の施行、又は開発行為に関する工事の実施について同意を得る事が出来ませんでした」と記されています。そして、その不同意の理由は、「景観的に良くない」「風通しが悪い」と書かれています。
 なお、反対意見者5人は、連名で、9月16日の公聴会の後に、反対意見書(2004年9月24日付)を玉城村役場に提出しています。そこに記されている「反対理由」は次の通りです。

一、建設により景観が損なわれる。
一、日照権の阻害になる。
一、パイル打ち込み工事の振動により、近隣建物に亀裂及び破損を生じる可能性がある。
一、建物の構造上、地震等による自然災害により、倒壊の可能性が大であり、近隣建物及び住民への被害を及ぼす事が大である。
一、共同住宅の住民の増加により車両が増え、小学校、幼稚園、及び保育園が隣接しているため安全面での確保が困難であり、車両事故の可能性がある。
一、近隣道路への路上駐車が増え、緊急車両(救急車、消防車)の妨げになり、被害の甚大の可能性がある。
一、建物の建築により、精神的に圧迫感を受け、精神的苦痛を受ける可能性がある。
一、子、孫への健全な財産の確保。

(5)審議結果と現在の湧上さんの考え

 審議の結果、建築は許可されました。湧上さんは、審議会でどのようなことが話されたのかは詳しく覚えていませんが、2022年7月に「反対意見」を改めて見て次のような感想を述べています。

アパートの建設で、一部景観が損なわれるのは事実ですが、すでにどこでも宅地開発は進んでいるので、1棟のアパートが建つだけで、字全体の景観が大きく損なわれるということは、もはやありません。日照権の阻害についてですが、建物が3階以上であれば、隣接する土地の一部の日当たりは確実に悪くなります。庭に畑があれば、農産物の育成は阻害されます。しかし、これが理由で、不許可にはでき難いです。住宅地に住宅を建てることの「個人の自由」が侵害されることになるからです。多少の日照権の阻害は発生するにしても、3階のアパート建築は、常識の範囲内と判断されたのではないでしょうか。そして、工事による近隣建物や人への悪影響が書かれていますが、これらを考慮していては、宅地建設自体ができなくなってしまいます。また、人口増により安全が脅かされるということは、8世帯が増えるだけでは考えにくいです。路上駐車についての懸念も同様です。子、孫への健全な財産の確保というのはよくわかりません。

 この湧上さんの考えは、当時の審議会委員の平均的な意見ではないかと、筆者は想像します。筆者が審議会の委員であっても、「反対意見者に同情すべき点もあるが、この反対意見書が通れば、宅地建設が難しい社会になるので、申請を許可することは致し方ない」と発言すると思います。この申請があったのは、2004年です。この時代は、すでに人口が増え、モータリゼーションが進み、人の移動が活発になっていた時代です。宅地の建設増の社会的要請がありました。広い視野で開発を考えねばならない責任のある審議会がこの開発申請を適当と判断したことは正しかったと、筆者は考えます。
 しかし、社会的要請がいつも優先されるべきかと言えば、そうではありません。高層の建物が大きく日照権を損害するような場合には、開発許可は難しくなると思います。土地開発審議は、社会的要請や、個人の自由(開発する自由)、個人の自由(被害を蒙らない自由)を同時に考えねばならない、難しい審議であると言えます。

(6)宅地開発のもたらす問題

 ここでは、上記の事例とは直接関係のない、沖縄全体における宅地開発のもたらす問題について考えます。湧上さんは、南城市域のみならず、沖縄の多くの地域で、次のような状況が起きていると指摘しています。

・自家用車やバスで那覇などの中心部に通うことができる土地(ベッドタウン)では、分譲住宅やアパートの建設が進んできた。また、それと同時に、そのような土地で生まれ育った若者は、進学や就職を機に沖縄の中心部や本土へ移転・移住するようになった。その結果、そのような字では、「土着の字民の人口」が減り、逆に「他字出身者の人口」が増加するようになった。字によっては、後者が前者を追い抜く勢いで増加していっている。

・他字出身者の流入のおかげで、小学校や中学校は維持でき、地域は活性化する。しかし、他字出身者の中には区費を払わない人が多い。また、かれらは地域の行事の運営に参加しない。ところが、子供のための行事では、他字出身者の子供は参加する。子供には罪がないし、子供には楽しい思い出をつくってもらいたいので、子供の参加を拒否することはできない。区費の支払いを依頼する努力はなされているが、効果は上がっていない。

・イタリアなどとは違って、沖縄では、景観を壊さないまちづくりがなされてこなかったので、様々なデザインの建物が統一感なく林立している。建物がほとんどなかった時代の自然豊かな景観を知っている世代からすると、現在の景観は美しいとは言えない。

最後の点は、船越にも当てはまります。湧上さんは、船越の景観が大きく変化したことについて、次のような琉歌を作っています。

(ムトゥ)風景(スィガタ)ないらぬ (カー)田原(タバル)の田畑 住家(スィミカ)()(ナマ) 夢の

湧上さんは、次のように、この琉歌に込めた複雑な心情を語っています。

今やすっかり、元の姿がなくなってしまいました。田んぼや畑はなくなり、建物ばかりが目立ちます。ここは今や、華やかな夢の都になった、とも言えます。この変化が、良いとか悪いとかを言っているのではありません。時が経つと、変化は起きるものです。しかし、やはり、今の風景が、私の原風景とはまったく異なるものになってしまったことには、正直、寂しさを覚えています。

 この琉歌では、土地開発の判断の難しさが表現されています。時代の変化が土地に対する考え方に影響を及ぼし、葛藤を生み出しています。
 なお、建物がなかった1963年時の写真(写真1)と、建物が林立する2022年時の写真(写真2)を比較すると、この琉歌を理解しやすくなります。これらの写真は、湧上さん自身が撮影したものです。ちなみに、写真撮影は、湧上さんの趣味の1つで、湧上さんは、写真機を保有する人がほとんどいない1950年代から、主に家族や景色を撮影してきました。 湧上さんの撮った写真は、船越小学校の記念誌や船越の字誌、『玉城村史』などで利用されています。

写真1. 船越1963年(『玉城村船越誌』掲載)
写真2. 船越 2022年

6. 聖地開発の事例

(1)はじめに

 玉城村の代表的な聖地に個人宅を建設することを許可すべきか。それが、本章で紹介する審議です。 開発申請者は、旅行者として幾度も沖縄を訪れ、遂に沖縄移住を計画した本土在住者です。土地投機や商業目的で開発を企図したのではありません。この開発申請者は、浜川御嶽に近い、百名ビーチに面した場所に個人宅を建築することを試みました。この建築を実現させるために、開発申請者は努力しましたが、旧玉城村の行政側(土地開発審議会と文化財保護審議会含む)は誰もその開発を良しとしませんでした。両者の考えには、大きな開きがありました。本章では、そのギャップについて考えます。つまり、「個人の自由が土地の開発においてどの程度許されるのか」そして「聖地に対して土地の人はどのように考えているのか」ということを意識しながら、現実に起きたことを明らかにしていきます。具体的には、本開発申請の概要、開発申請者の主張、行政側の主張を説明します。また、最後に、湧上さんの土地に対する考え方を、筆者との対話の形で紹介します。

浜川御嶽

(2)開発申請の概要

以下、開発申請者が提出した「事業計画書」を基にして、開発の概要を説明します。

① 開発地番:字百名浜川原1719
② 開発目的:住宅建設並びに手作りオープンガーデン。「事業計画書」には「自宅(個人用)建設。手作りの庭のオープンガーデン も。但し、自宅の開く個人レベルのもの」と記載。
③ 開発規模:600坪
④ 開発申請者:本土在住者
⑤ 土地所有者:B社(一般企業)
⑥ 申請時期:2004年8月30日
⑦ 用地選定の理由:「事業計画書」には、「百名ビーチが大好きで、“終の住処”として希望。10年ほど前から、沖縄に年間数回は訪れる。美しい百名ビーチとの出会いは3年前のこと」と記載。
⑧ 自然保護計画:「事業計画書」に「土地外観(巨岩など)は、ほとんど変化しないように努める。住居の他は、芝生・花・果樹など植栽を行う」とある。

 開発申請者は、年に数回も沖縄を訪れるほど、沖縄のことが好きで、特に百名ビーチが気に入って、この近くの地を“終の住処”とする計画を立てました。景観にも気を配ってひっそりと暮らすだけなのだから、誰にも迷惑をかけることはない、と考えていたと思われます。
 ところが、この開発は、聖地の開発であったので、メディアにより注目されました。『沖縄タイムス』は、2004年9月18日「御嶽周辺、開発の動き 玉城村許可申請に慎重」という題で、次のように報じました。

浜川御嶽や百名第一・第二貝塚などに囲まれた村百名地域の一画に「土地開発行為許可申請」が出されていることが十七日、分かった。一帯は御嶽などがあることから“琉球の聖地”ともいわれるエリアで、村は許可申請の扱いに慎重に対応する姿勢を示している。村によると八月下旬、個人から村に申請書の提出があった。約二千平方メートルの許可を求めている。許可については、村の土地開発審議会が審議結果を村長に答申し、交付する流れ。現在、村は申請の扱いをめぐって連絡会を開き、村文化財保護審議会の意見を聞くなどしている。

沖縄タイムス(2004年9月18日付)

 湧上さんが「この記事が出た後、市民からの問い合わせがあったとは聞いていません。また、このことが世間で話題になったという記憶もありません」と語るように、この開発計画が広く認知されるようになったということはないようです。しかし、この記事でも伝えているように、玉城村は、玉城村土地開発審議会に諮る前に、玉城村文化財保護審議会の意見を聞くという慎重な対応をしました。その理由は、たんに開発予定地が“琉球の聖地”の一部であるということだけではありません。開発申請者が開発を断念しそうにない様子を見せていたという理由もありました。

(3)開発申請者の主張

 岩場に個人宅を1軒建てるだけ。それゆえに、開発申請者には、聖地を侵害するという意識はなかったかもしれません。自然破壊を行うのではなく、むしろフラワーガーデンをつくることにより「自然と調和した景観」を生み出すという意識があったのかもしれません。とにかく、開発申請者はその場所で住みたいと強く望み、積極的に行動しました。まず、同意書を作成するために奔走しました。役場に提出された「事業計画書」を見ると、隣接地主7名と新原区長、B社(土地所有者)の同意書が添付されています。1度の来沖で、これだけの同意を得ることは難しいので、おそらく、開発申請者は、数回このために本土から来沖したと思われます。苦労してこれだけの同意を取り付けたのだから、開発申請を通したいという思いは、どんどん大きくなっていったということは想像に難くありません。
 また、開発申請者は、村長宛に直接手紙を書き、村役場で開かれる会議への参加を求めたりもしています。湧上さんは、一度、この開発申請者を交えた会議に出席したことがありますが、「(開発申請者の)夢を実現させたいという思いはとても強かった」と回想しています。

(4)行政側の主張

 本節では、土地開発審議会と文化財保護審議会の当時の動きを説明しますが、その前に、なぜこの開発申請がわざわざ土地開発審議会や文化財保護審議会で検討されなければならなかったのかについて説明しておきます。行政側が判断に慎重になった理由は、開発申請者が開発を断念する様子を見せなかったということのほかに、行政手続きにおいてもこの開発申請は簡単に白黒をつけられる件ではなかったということがあります。つまり、行政のルールに則ってこの開発を審議した場合、開発を許可するという判断もありえたのです。
 土地開発審議会の会議用資料の「参考資料1」を見ると、次の通り、聖地では例外なく建物の建設は禁止とはなっていません(例外はありうる)。

当区域は、「玉城村土地利用調整基本計画」では、緑地・遺産環境保全区域となっており、自然緑地及び歴史・文化遺産環境の風致を保全するため、原則として開発及び建築行為禁止区域となっている【太字は筆者による】。

玉城村土地開発審議会資料「参考資料1」

 たしかに「当区域は <中略> 建築行為禁止区域」となっていますが、開発はあくまでも「原則として」となっています。では、「原則として」とはどういうことでしょうか。どのような例外があるのでしょうか。それについて同「参考資料1」には、「留意事項」として次のように記されています。

自己用住居、分家住居、社寺仏閣及び観光資源の有効利用上の最低限必要な民間開発及び建築行為にあたっては、村長の許可のもと、対象から除外するものとなっているので慎重な配慮が必要である【太字は筆者による】。

玉城村土地開発審議会資料「参考資料1」

 これは、本件の「住居とフラワーガーデン」が「自己用住居」と判断できるのであれば、村長の考え方次第で例外的に開発が許可できるということを示しています。それゆえに、行政職員は、慎重になり、有識者が集う土地開発審議会や文化財保護審議会に相談することになったのです。
 さて、土地開発審議会では、実際、本件はどのように取り扱われたのでしょうか。湧上さんによると、「会議では、開発不適当と答申することで、すぐに意見は一致しました」とのことです。「反対意見もでず、この聖地に個人宅を建設することはあってはならないという認識を共有しました」といいます。筆者が「600坪という広い面積の開発だから、開発は不適当とされたのではないですか」と聞くと、湧上さんは「面積云々ではなく、この地に個人宅を建てるということ自体が問題とされたのです」と説明しました。筆者はさらに「本当に開発申請者に同情的な意見はまったく出なかったのですか。景観保護に努めると申請書に書かれていますよ」と聞いても、「同情的な意見はなかったと記憶しています」という答えを得るだけでした。
 それにしても不思議な点があります。それは、近隣住民と土地開発審議会の委員の間に、大きな考え方の相違があるという点です。この点について、湧上さんは「おそらく、近隣住民は個人宅が1軒建つくらいのことに問題はないと思ったのでしょう。しかし、1つの開発を許してしまったら、それ以降の申請をすべて許可しなければならなくなります。ですので、1軒の建設も許可すべきでないという結論に至るのです」と説明しました。そして「しかし、この件は、そもそも1つの開発を許したら乱開発につながるという類の話ではないのです。この聖地には、1軒の個人住宅の開発も許されてはいけないということが、基本的な考え方なのです」と湧上さんは説明を加えました。
 この基本的な考え方が、土地開発審議会の委員全員にしっかりと共有されていた理由は、委員全員が様々な角度から開発の影響を考えることができる知識人であったということが言えますが、そのほかにも理由があります。それは、土地開発審議会の会議前に文化財保護審議会で作成された答申の内容が、説得力のあるものであったということです。2004年9月22日付で、中村康雄玉城村文化財保護審議会会長から、安次富清暎玉城村教育委員会教育長宛に答申が出されましたが、その答申の内容は、次のようにまとめることができます。

・開発予定地には、数多くの貴重な文化遺産が集中的に存在している。しかも、それら遺産は原型を保って残されている第1級資料である。
・同地域に集中している貝塚群、崖葬古墓群、神墓、神の道(国王参拝道)、浜川御嶽、受水走水等の文化遺産は、「藪薩の浦原」(ヤブサツノウラバル)という聖域内に位置しており、それぞれの遺跡は、原始・古代沖縄の人達の生活の場として半島全域に、有機的に作用し合って、歴史遺跡を形成している。
・「藪薩の浦原」という聖域は、琉球王国時代においても、首里王府により、開闢神話の中で、最高の聖地として位置づけられていた。
・「藪薩の浦原」は、ニライ・カナイ信仰、アマミキヨ渡来伝説、太陽神崇拝等の原点として位置づけられ、沖縄県民の信仰の対象となっている。
・浜川御嶽等を含む、藪薩の浦原一帯は、原初の姿を残した貴重な植生であり、玉城村はこの地を「緑地・遺産環境保全区域」に指定している。
・開発予定地域には、生物学上貴重な生き物が棲息している。例えば、沖縄本島でも珍しいと言われるクロイワゼミが棲息しているが、これは開発によって消滅の恐れがある。

 要するに、「藪薩の浦原」と呼ばれる一帯は、信仰の対象であるだけでなく、歴史学的・民俗学的・考古学的・生物学的見地からみて価値が高いので、全体として保護されるべきであるということが主張されています。
 結局、開発予定地に、家が建つことはありませんでした。この地で住むことを夢見た開発申請者にとっては気の毒な結果になりましたが、聖地は保護されることになったのです。

(5)湧上洋さんの聖地に対する考え

 筆者は本土出身なので、開発申請者の心情をいくらか理解することができます。筆者は、現代の本土の人間の感覚を持った状態で、湧上さんと対話をしましたが、そうすることにより、玉城住民の聖地に対する考えを深く知ることができました。以下、対話の内容を記します。

――仮定の話になりますが、かりに、未来に、この件と同様の開発申請があった場合、土地開発審議会は同じ結論を出すでしょうか? 当時は、玉城村にゆかりのある人だけが審議委員でした。しかし、南城市になった現在では、状況は異なります。開発優先という時代になる可能性はないでしょうか?

湧上 
その可能性はあまりないと思います。役所は、文化財保護の観点から土地開発を考える委員を選ぶと思います。審議委員を選ぶ際には、その人が過去に何をしていたかを調べます。おかしい人選が行われる可能性は低いのではないでしょうか。

――100年後、200年後を考えるとどうでしょう。それと同じことが言えるでしょうか? 開発至上主義が進み、少しずつ、例外が認められていき、気が付けば乱開発されているということにはならないでしょうか? また、人口移動がさらに激しくなると、玉城の景色を原風景としない人も増えます。強く土地に愛着を覚える人の数がどんどん減っていくと、聖地の保護を優先する人も減っていくような気がしますが……。

湧上 
時代が変わっていって、文化財は必要がないと考える方向にいく可能性は完全には否定しません。しかし、たとえ文化財が軽んじられるようになったとしても、自然を保護しようという考えは残るでしょう。それに、文化財の価値がゼロになることもないでしょう。また、この土地は聖地でもあります。「藪薩の浦原」は、(文化財保護審議会の答申でも記されているように)、いろいろな意味で価値のある所です。この一帯が、開発されていくということは想像できません。

 筆者は、湧上さんとの対話を通じて、「藪薩の浦原」が極めて重要な場所と考えられているということを知ることができました。筆者は、湧上さんの語りから、「藪薩の浦原」が開発で浸食されてなるものかという強い思いを感じました。湧上さんは客観的に審議する立場にいた人なので、当然、知的に説明をしましたが、その語り口は情念のこもったものでした。
湧上さんは、豊かな歴史と美しい自然をもつ玉城を愛し、この土地に誇りを抱いています。筆者は、このような「土地の人の心情」が無視されない形で、土地開発の審議が行われ続けることを願います。

7. さいごに

2つの事例を見て、次のことが明らかになったと考えます。

・家賃収入を見込んだアパート建設が、字外(1つ目の事例では南城市域外)に住む人により行われることがある。これは、不動産ビジネスの情報網が広くなっていることを意味する。
・人口が増加し、宅地開発の需要が高くなれば、おのずと利便性の高い土地での開発は進む。湧上さんの住む船越川田原では、建物の乱立により景観がすっかり変わってしまった。しかも、外観の不統一な建物が混在しているので、かつての田園風景を知る者にとっては、現在の川田原は美しい風景とは言えなくなってしまった。
・近隣住民の反対意見書が行政側(村役場)に提出されても、それにより、いつも開発が不適と判断されるわけではない。「開発による悪影響」と「開発の自由」は天秤にかけられ、受忍できる程度の悪影響と判断された場合には、開発は適当という答申が出される。
・たとえ近隣住民や区長が開発に同意したとしても、その開発が適当であると土地開発審議会で判断されるとは限らない。「開発の自由」は、一定の条件下では大きく制限される。「藪薩の浦原」の事例では、その地が沖縄を代表する聖地であることから、開発は不適と判断された。
・文化財保護審議会は、「藪薩の浦原」を、その地が聖域であるという理由だけで、保護するに値すると判断したのではなかった。歴史学的・民俗学的・考古学的・生物学的見地からみて、「藪薩の浦原」を全体として保護するべきであるという結論に達した。
・土地の人(本稿では旧玉城村民)の間でも、「一般住民」と「土地開発審議会・文化財保護審議会の委員」では、文化財保護や環境保全に対する意識は大きく異なる。「藪薩の浦原」の事例では、近隣住民は開発に同意したが、両審議会の委員は全員、議論の余地なくその開発が不適であると判断した。

 湧上さんは、「旧玉城村で生まれ育った愛郷心を持つ人」であり、尚且つ「土地について様々な視点から考えることができる人」でもあります。湧上さんのような人と同じ思いで、玉城の文化財や自然環境の保護について考えることは、本土出身の筆者にはできません。筆者には「藪薩の浦原」に対して愛郷心のような深い情を抱くことはできないからです。湧上さんとの対話を通じて、筆者はそれを強く感じました。
 人の移動が激しくなると、筆者のような「よそ者」が増え、湧上さんのような考え方をもった人が減っていきます。そうなると、文化財・自然環境保護が、少しずつ、「深い情」に支えられたものではなくなっていきます。この状況はある意味危機的です。しかも、本事例では、近隣住民や区長は、地元民であるにもかかわらず開発に同意をしました。土地の人でさえ、湧上さんと同じ意識にはなっていないのです。
 では、湧上さんのような「深い情」を持てるようになるために、住民はなんらかの努力をするべきなのでしょうか。筆者はそうすべきとは思いません。なぜなら、人間の心は一様ではなく、全員に「深い情」を持たせることは不可能だからです。それに、そもそも、「個人の尊厳」や「思想信条の自由」が保障されるべき時代に、1つの考えの強制はできるものではありません。であれば、全員が納得できる理由を見出すしかありません。その共通見解でもって、文化財や自然環境は保護されなければならないでしょう。
 では、全員が納得のいくものとは何でしょうか。それは、やはり、歴史学的・民俗学的・考古学的・生物学的見地からみて、「藪薩の浦原」は保護するに値する土地であるという、学術的に裏打ちされた事実です。実際、筆者も、最初は開発申請者に同情的でしたが、文化財保護審議会の答申を読むことにより、考えを変えました。知識が意識を変えたのです。つまり、基本的には個人(開発申請者)の自由は最大限守られるべきであるとしても、「藪薩の浦原」のケースでは、個人の自由よりも土地の保護を優先させるべきだと思い直したのです。
 しかし、様々な個性が許される自由な社会においては、実際に「全員が納得する」ということは難しいです。それに、そもそも、どのような情報をどのように解釈しどのような意見を持つのかは、個人の自由であるべきです。とはいえ、客観性の高い情報(ここでは自然科学および人文科学が蓄積してきた情報)にできるだけ多く触れることにより最終的な判断することには意義があると、筆者は考えます。自然保護を重視する人がいても、信仰や歴史に価値を置く人がいても、開発を優先させたい人がいてもよいと思いますが、個人にとっても集団にとっても、よりよい判断をするためには、確かな情報にたくさん触れることが重要ではないでしょうか。そうすることにより、少なくとも視野狭窄を回避することが可能になります。「藪薩の浦原」について言えば、近代化が進む中では開発の波を止めることは難しいので、歴史学的・民俗学的・考古学的・生物学的な研究成果は、ますます重要になってくると考えられます。

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