解説 |
仲村渠1区(現・仲村渠)/ヤギ・牛・馬のための草刈り/1944年時点で国民学校6年生(入学時点では尋常高等小学校)/父は役場職員/1944年8月姉、恒夫氏、妹2人の4名で疎開する/疎開したがらない住民が多かったので、役場職員の家族は率先して疎開しなければならなかった/那覇港から宇品丸に乗り出航/鹿児島に到着するまでに、敵潜水艦が現れ、生徒はみな甲板に出て救命胴衣を着る(恐怖心はなかった。まさか鬼畜米英にやられることはないと信じていた。駆逐艦による護衛があった)/疎開する前、対馬丸沈没の事件は知らされていなかった/鹿児島から熊本へ汽車で移動/疎開先は熊本県上益城郡名連川村下名連石/宿泊先は寺(恒夫氏が宿泊した寺では4世帯が泊まる)/土地の子供たちと仲良くなった/食糧難/授業は熊本弁で行われていた(沖縄だけ方言札で強制的に標準語を学ばされていたと知る)/木刀訓練をさせられた(沖縄では竹槍訓練)/ノミ、シラミは多かった/金属類の供出/沖縄玉砕という報が伝わると、泣きながら沖縄に向って手を合わせた(高等科1年時)/玉音放送を聞く(敗戦を知りショックを受けると同時に、沖縄に帰ることができると思い安堵した)/敗戦後、教科書にある軍国主義的な内容の記述は墨で塗られる/1946年9月引き揚げ(佐世保から)/帰郷してから、兄(鉄血勤皇隊)・姉(親慶原の壕で子供を産む)・叔父の死を知る/米軍より日本軍のほうが怖かったという声が多い |