なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

戦争体験証言㉘ 湧上 洋 氏

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キャプション
解説 富名腰1区(現・船越)/玉城国民学校へ通学(2年生時から集団登校が始まる)/時計を持つ世帯は少なかった/父は教員/1945年4月時点で5年生/皇民化教育(「忠君愛国」「天皇陛下のために死んでも名誉」「死んでも靖国に祀られるので本望」と教わる。奉安殿に向って最敬礼。宮城遥拝)/防火訓練(バケツリレー)/竹槍訓練(上級生が行う。蒋介石・ルーズベルト・チャーチルの案山子を突く)/分列行進/1944年7月中旬武部隊が玉城村に駐屯/飯田大隊の牛山中隊が富名腰1区に駐屯/12月に武部隊は台湾へ/武部隊が去った後石部隊が駐屯/1945年1月の終わり頃配置換えで石部隊が出て行き、球部隊が玉城村に駐屯するようになる/前川では第3大隊(西村大隊)が駐屯/字民は、武部隊と友好的な関係を築いていた/石部隊は高圧的で住民との関係は悪かった(例:食糧の供出を強要された)/陣地構築のための徴用(武部隊駐屯時から。石部隊の駐屯時からさかんになる)/10.10空襲(那覇から黒煙上がるのが見えた)/8月中旬以降学童疎開が始まる(引率の教師がいなくなりクラス毎の授業ができなくなる。東部・中部・西部に分かれた分散授業となる。西部では糸数での授業となる)/若い男性教員は防衛隊として召集される/10.10空襲後空襲はなかったが1945年1月に再開される(玉城村では3月下旬ごろから)/3月24日の艦砲射撃で、富名腰1区では被害は出なかった(前川や當山では被害が出た)/金武町漢那へ避難/先に疎開していた人達の分しか食糧備蓄がないため、祖父と洋氏、3歳の弟の正志は、富名腰へ戻る(残りの5名は漢那に残る)/1945年4月下旬、美田連隊は石部隊の応援のため、前線に移動/中城村・西原村などの住民が富名腰に避難するようになる/5月に入るとトンボ(偵察機)を見るようになる(同時に艦砲射撃を受けるようになる)/5月中旬、富名腰に避難する首里・那覇・中城・西原の住民が増えてくる(それに従って、艦砲弾の数も増える)/米軍機2機が富名腰の西側に爆弾や焼夷弾を投下(当時の家屋は茅葺だったので延焼していった。外から来た避難民達は壕ではなく民家に隠れていたので多くの死傷者が出た)/5月下旬、首里の日本兵が民間人に混じって富名腰に撤退していくるようになる(機銃掃射が増える。村道を通ってさらに南下していく避難民が出てくる)/山の8合目あたりの壕で避難していたので、南下していく人の様子を観察することができた/捕虜になる一週間前から、大里村の西原での戦闘が激しくなった(2、3日すると沈静していった。米軍は稲福へ移動)/壕に避難していた富名腰住民の中から、村道を通って島尻へ南下する者が出てくる/4月下旬頃石部隊が前線で消耗したために父は前線に出動することになる(父はその出動の前に富名腰の壕に来て、「壕からは出てはいけない。米軍が富名腰まで来た時には日本は負けている。米軍が一般住民の捕虜を殺すことはない」と告げて戦線へ戻っていった)/捕虜になる2日前、島尻に南下する避難民が増えていく(トンボは移動する人間が民間人と判断した場合、機銃掃射はしなかった)/捕虜になる前日、糸数方面から富名腰に向けて機関銃攻撃が行われる/父が再び壕を訪れる(父は那覇の安里の戦線に投入されていたが、部隊は6月2日に具志頭村玻名城へ撤退。父は糧秣運搬を命じられ、玻名城から糧秣のある場所へ行き、糧秣を持って再び玻名城へ戻ることになっていた。戻る前に家族のいる富名腰の壕を訪れた)/父は再び玻名城へ戻ろうとするが、祖父が「手榴弾で我々を殺してから行け。そうしないならば、我々は手榴弾で自決する」と言って父を引き留める/捕虜になる(その日は、大城で1泊する)/百名へ移動しそこで2、3日泊まる(父は百名で教員であるという証明書を作成してもらう)/知念村字知念へ移動・収容される/父は知念の副区長に任命される/知念市誕生/知念市長選後、市会議員選挙が行われる(知念・山里・具志堅・志喜屋・百名・仲村渠の各収容所から議員を出すことになった)/父は市会議員になる
大分類 動画
小分類 VHS
資料コード 000461
内容コード E000000028
再生時間 1:10:45
資料群 戦争体験証言ビデオ
資料タイトル 平成16年度戦争体験証言映像収録業務
年代区分 2000年代
キーワード 戦争市町村史
場所 玉城玉城-船越
収録年月日 2004//
責任表示 南城市教育委員会
出典
情報登録日 2022/08/17