解説 |
屋嘉部/青年学校での竹槍訓練/1944年2月15日献穀田の田植式(県知事参観)/1944年3月10日第3次沖縄女子勤労挺身隊に入隊(7か村から105名が集められ那覇市開洋会館で2週間訓練を受ける。玉城村からは14名)/1944年3月26日那覇港から鹿児島へ船で移動/姫路の職場(飛行機の組み立て工場)で、寮生活をしながら勤務(飛行機部品のパッキンを束ねて飛行機の組み立て工場へ送る作業に従事)/平日の生活(5時半起床。神社にお参り(戦勝祈願)。8時勤務開始。退勤後青年学校で救護の訓練を受ける。10時消灯)/1944年7月3日8機編隊の米軍機による空襲(焼夷弾投下により寮と工場が焼失)/寺での寝泊り生活(約1か月)/工場再建のために残骸の片づけ作業/1945年8月15日玉音放送/姉のいる熊本阿蘇へ移動/9月から11月までの3か月間農家に住み込みで働く(炊事仕事と農業)/12月から葦北郡の釜作り工場で勤務/熊本で、兵隊だった兄の友人(玉城字前川出身)と結婚/佐世保の収容所で2泊した後沖縄へ引き揚げる(1946年12月)/南風原にて夫婦で農業生活を開始/献穀田の田植式に参加した仲間22名のうち6名は沖縄戦で死亡 |