解説 |
百名2区(現在の新原)/新原ビーチ/子供の頃の遊び/家事手伝い/国民学校/武部隊/壕掘りへの動員(カチャバルでの作業)/授業の激減(1944年7月頃から)/竹槍訓練/全体教練/避難訓練/朝の乾布摩擦/疎開(新原からは九州と台湾へ)/台湾へ疎開/台湾までの船での様子/基隆へ到着/新原からの疎開者は8世帯33名/疎開地(三崁店)/宜野湾、那覇、宮古などからの疎開者/製糖工場/常盤小学校へ通学(複式学級。5年6年同じ先生)/1944年10月11日の空襲/一家全滅した家族/山手(小脚腿)へ移動/食糧事情の悪化(野ネズミや蛙、カタツムリがたんぱく源)/マラリア(33名のうち8名死亡。弟含む)/戦後、農家で水牛とガチョウの世話/新営へ移動/漆喰を剥がす仕事に従事/布袋へ移動/アイスケーキ屋とバーで働く/台北へ移動/タバコと石鹸の売り歩き/水道町へ移動/引き揚げを待つ多くの沖縄人/渡久地政一先生の音楽の授業/基隆から沖縄(久場﨑)へ/兄(満州で通信兵。落馬。胸を患い台湾の陸軍病院へ入院。台湾で亡くなる)/百名小学校/6.3.3教育改革後の新制中学校(玉城中学校)の第1期生/知念高校(親慶原)卒業(校長は屋良朝苗)/琉球大学へ進学 |