解説 |
仲村渠1区/1944年4月時点で県立第一中3年生/陣地構築に徴用される/出征軍人家族の農作業の手伝い/飛行場建設に徴用(読谷)される/石嶺の整地作業に徴用される/1944年10月10日空襲の様子/1945年2月3年生19人が連絡員として県庁に派遣される/連絡員(12、3名)は教学課に合流/県立一中隊鉄血勤皇隊に入隊/野戦重砲兵第一連隊へ配属される(東風平の志多伯の陣地へ)/南風原まで米軍が進出してきたという知らせを受け、真壁の壕へ撤退/戦死者を埋葬する任務(20日間以上。1日平均約10人を埋葬)/与座岳の観測所に伸びる電話線を補修する作業/1945年6月18日摩文仁に向けて進む米国の戦車隊を発見/1945年6月19日戦車隊への斬り込み攻撃が結構されるも、すぐに解散命令が出る(引率していた3、4名の兵隊は「自分達は国頭に繰り込みに行く」と言って姿を消す)/摩文仁にある小さい壕を見つけて11名が隠れる/米兵の手榴弾により壕の入口付近にいた3名が死亡/自決を覚悟したが、爆弾が不発/1945年6月22日摩文仁の海岸の岩場で隠れる/敗残兵の掃討作戦が開始/1945年6月26日捕虜となる(日本陸軍航空隊當山中尉が来て「今から戦っても無駄死にになる。抵抗しないで出たほうがよい」と説得)/屋嘉収容所へ/ハワイへ/サンフランシスコへ/1945年12月帰国(屋嘉で1週間過ごす)/帰村後、父の戦死を知る |