解説 |
仲村渠1区/父は村役場勤務(連絡・救護支援など)/母と妹、弟は熊本へ疎開する(沖縄戦時16歳だった清子さんは戦闘要員だったので疎開できず)/1944年6月頃から武部隊が字に入ってくる/陣地構築のための動員が始まる/青年団(男子約20人、女子約10人)に入団し、副会長となる(防空訓練、出征兵士の家族の田を耕すなどの奉仕作業を行う)/隣保班単位で簡単な壕をつくる/10.10空襲後、シチナクブ壕(字垣花)へ荷物を移動/約1週間南風原陸軍病院で壕掘り作業(土を運んで捨てる)のために徴用される/父から祖母と親戚(知念家)の3人の子供たちを連れて国頭に疎開するよう言われる(救護班による講習を2回受けたこともあり、敵が来たら逃げずに戦闘要員として戦うつもりでいたので抵抗するが、最終的に父に従う)/与那原まで歩く/与那原からトラックで移動(荷物は山原船で運ぶ)/美里村東恩納でトラックから降ろされ、目的地の金武村字漢那まで徒歩で移動/在郷軍人や警防団、国防婦人会が迎える/山原船は爆撃され荷物は海に放り出されたが、平安座の青年たちが泳いで荷物を集めて漢那へ届ける/民家での生活から、民家と壕を行き来する生活へ/1945年4月4日米軍が金武まで来ているという話を聞く/役場職員(玉城村から随行)が壕に来て、「米軍が迫っているので山小屋へ避難するように」と命じる/山小屋(字単位で割当)へ移動(6月まで避難)/壕に取り残されている金城家(婦人と子供4人)を山小屋に運ぶために下山/食糧難(山を越えて名護の喜瀬・幸喜でイモを掘る)/米兵は山小屋まで来て日本兵を探す(男性は日中山小屋から出て山中に隠れる)/比嘉氏(ペルー帰りで外国語ができる)は、漢那の収容所で米軍から班長を命じられ配給や住居の世話をしていた/比嘉氏は日本兵から呼び出されスパイ扱いされ日本刀で斬られる(清子さんは比嘉氏の息子からその話を聞き、日本兵に不信感を抱くようになる)/山小屋での病気(はしか、赤痢)/6月11日「米軍は山を焼いて日本の敗残兵の掃討を行うので下山せよ」という内容のビラが空から撒かれる/知念家の子供(次男)がはしかで危篤状態にあり下山できず/危篤の子供は死亡/6月12日米兵から「小屋を焼き払うので上へ移動せよ」という内容のビラを渡され上に移動し捕虜になる/米軍野戦病院での看護
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