解説 |
百名/陣地づくりの手伝い/戦前の百名(サトウキビ中心の農村)/子供の遊び(海での魚取りなど)/学校(日本兵の宿舎となる)/父(フィリピンで戦死)/疎開(与那原まで徒歩、泡瀬までバス、泡瀬から徒歩で伊波小学校へ、同学校で一泊し徒歩で宜野座村惣慶へ)/民家での疎開生活/艦砲射撃が始まった3月頃、壕へ避難(50~60名避難)/「毒ガス」が米軍により壕に投げ込まれる(避難者は壕の奥へ逃げる。2名の子供は壕内の池に溺れて死亡する)/壕から出て山小屋で2,3か月過ごす/芋掘り/島尻へ帰ろうと約60名の集団で移動(恩納岳を登る。日本兵から南部は危険だから行くなと言われ元の山小屋へ戻る)/山での米兵による殺害/山を焼き払うという情報を得て下山/米軍の管理下に入る(配給食あり)/木の下での学校が再開(高嶺氏はそこで1945年10月まで学ぶ)/百名へ戻る/知念高校/捕虜収容所(百名)/東風平・糸満での芋掘り/米兵による婦女暴行/富里の「チリ捨て場」で食べ物(米兵の残飯、缶詰、菓子など)をとる/6.3.3制(高嶺氏は、百名小学校7年生時に玉城中学校へ編入したので、高嶺氏の名前は百名小学校の卒業名簿には載っていない)/知念高校卒業後小禄の基地でガードの仕事を行う/那覇市役所区画整理課で勤務/東京で就職(測量関係)/百名における建屋の被害状況 |