なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

温故知新 古きをたずねて新しきを知る

新垣源勇氏
字名の移り変わりを新垣源勇氏に語ってもらいました
沖縄県の市町村(間切)名を字(村)名がはっきりと記録に出でくるのは薩摩が石高(上納高)を割り当てた「琉球国高究帳」に始まる。知念間切の字名には、志きや村・くでけん村・知名村・久高島・だけがでてくる。 (実際は脱落もあった)
「おもろさうし」に出てくる琉球本来の地名は仮名表記であった。中国との貿易時代に入って方言の地名が漢字に当てられ、チナも知名、喜名、喜納等と表記されてきた。仮名、漢字表記でも方音での唱えかたは尚真王朝、までには固定していて、クバマサ、クシバルの地名はすでにあったとおもわれる。
一六〇九年(慶長一四)以前は奄美諸島も琉球国であったから、沖永良部島には知名町があり、徳之島には喜念(喜=知)の地名が残っている。
一八七九年(明治一二)琉球藩が廃され、沖縄県が置かれた。「明治十三年統計概表」によると、知念間切、志喜屋村、下志喜屋村、 鉢嶺村、 仲里村、 山口村、 知念村、久手堅村、安座真村、知名村、久高村、外間村、の十一箇村で、 海野も久原も知名村の屋取であった。
屋取は首里、那覇から農村地域へ移動してきた良人(ユカッチュ)の集落のことで、移住者は居住人(チュジュウニン)として百姓の地人と区別され、百姓の地割地を叶掛(小作)していた。地割制度は一九〇三年(明治三六)の土地整理によって消之、私有の土地が持てるようになった。
一九〇八年(明治四一)一沖縄県島嶼町村制」で知念間切は知念村に、知名村は字知名に改められた。久原もそのまま字知名には変更はなかった。屋取集落の人口増加や土地整理による農地拡大等により、その一部が行政区として分離独立するケースが増えてきた。
一九〇二年(大正九)にヌックワサ、クバマサ、クシバルの屋取集落が本字の知名から分離して知名二区となり、本字が知名一区となった。
「大正十四年度知念村勢時報本村将来ノ施設計画ニ係ル事件、九、知名ニ区ヲ更ニ行政区分スルノ件」という項目があり、知名ニ区再分離の方針があったが、昭和に入るまで、実現していない。
方針を立てた当時の村長が新垣孫一、知名二区出身の村会議員が儀武息栄、国頭正政、知名二区区長が伊集盛造、知名一区区区長照喜名名善の各位であった。
一九三七年(昭和一二)、クバマサ、クシバルが知名二区から分離して、知名三区となった。村屋(字事務所)は知名三区にそのまま残された。
一九四五年(昭和二十)八月沖縄戦は終結したが、知名三区、知名二区、知名一区、安座真の住民約一九〇〇名が久志村へ強制疎開させられた。そこで多くの戦病者が亡くなった。十月に志喜屋を中心に避難民の知念市が誕生、山原に追いやられた各部落の住民は、十一月二十六日~二十九日に帰村した。其後日本本土からの引揚者も帰還し郷土復興へ立ち上がった。
一九四七年(昭和二二)二月十七日、新しい地名の字が誕生した。
知名三区→久原。知名二区→海野。久手堅富貴利→吉富。知念のシマグワー→具志堅。
一九五一年四月一日この新しい地名の地籍による土地所有権証明書が交付された。海野、久原が生まれて五十年、戦後の激しい社会変動の中での誕生である。

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大分類 テキスト
資料コード 008396
内容コード G000000373-0013
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.95(1997年11月)
ページ 6
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1997/11/01
公開日 2026/09/24