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知念再発見シリーズ⑪(久原区)

久原区は須久名ムイの北側に位置し、東は海野区、西は佐敷町に隣接しています。
字民は殆どが首里系士族の子孫で、19世紀の初め頃この地へ移住し屋取集落を作りました。久場真佐(クバマサ)・後原(ラッ%)といい昭和22年に現在の行政区になるまでは「知名三区」でした。現在の字名は久場真佐の久と後原の原から取った物です。先人たちは、人口の増加とともに不足してきた耕作地を開拓する為、須久名ムイ下方のなだらかな斜面地を切り開いて行きました。しかし、耕作地と部落とが贈れている事や、山道のため肥料の運搬が不便な事などにより、だんだんと畜産業にも力をいれることになっていきます。現在盛んに行われている闘牛も、この頃に培われた畜産技術や知識などで度々県から表彰され、その振興に一役買ったなごりでもあるのです。終戦直後に始められた「久原の闘牛」は、遠く那覇や北谷まで出張闘牛大会を催し、好評を博した様です。また、久原には明治から大正の初め頃まで「塩田」がありました。俗に砂庭(シナナー)と呼ばれ、一区二百坪程度を野面積みの低い石垣で囲み、湖の干満を利用して多量の塩分を含ませた濃汁(スーシル)を鍋で煮詰める方法でした。当時の農家の副業として近隣町村にも売り出していたようです。漁業も盛んで、久高島沖で操業する深海漁業者が多く、漁獲物は与那原や首里方面へ裁かれました。イカもよく獲れるので、塩漬けにしたりスルメに加工して、フカヒレとともに特産品として売り出されました。さらに、大正から昭和にかけてのパナマ帽の製造野芭蕉布織りなど、たくましい進取の気鋭に富んだ久原区でもあったのです。
[写真]現在も盛んに行われている闘牛

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大分類 テキスト
資料コード 008391
内容コード G000000368-0015
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.90(1997年6月)
ページ 6
年代区分 1990年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1997/06/01
公開日 2026/09/24