昔から沖縄には鉄鉱に乏しく、鉄材にたいへん不自由していました。庶民の生活用具は貝の湯わかし、土器の鍋等が使われ、農耕器具も木製の鍬・鐸・石器の斧・かま等であった。
『明史・琉球伝』のなかに「国俗市易するには、紡縞を貴ばず、々磁器鉄釜のみ是れ尚ぶ」とある。琉球国と貿易するには、絹織物なんかあまり喜ばない、磁器と鉄の鍋釜類を一番欲しがっているということで、鉄製のナベ、ハガマが庶民の生活用具としては貴重なものであった。明の初め頃の進貢船も琉球馬と硫黄をもっていって陶器の唐ヤチムンと鉄器の鍋釜をもってきたようである。しかし後に鉄器は一切持出すことを禁じている。しかし密貿易もあったものと考えられる。
十五世紀の始め、佐敷から出た尚巴志は与那原港で大和船と交易を盛んにし、鉄材を手に入れ、それで農器具を造って農民の心を収め、三山統一の覇業をなしとげたといわれている。
このように琉球王府によっても鉄材は重要なものであった。尚寧王の御代、万暦年間に王府には鍛冶奉行が置かれ、鉄匠(鍛冶屋)の業務を管理していたようである。(「琉球国由来記」)
一六六七(尚質王二十)年に「始めて諸郡邑に鉄匠一名を置きて、公役に扣算す」即す各村に、鍛冶屋を一名ずつ官設し農器具の修繕(鍬の打ち直し)をさせた。そして年に一升五合の税米を供出させた。半分は公庫に納め、半分は鍛冶屋の給与とした。その後税米は免除になり、村全体から年米六升支給、職人は夫役をまぬかれた。生産増強のため村鍛冶屋は欠くことの出来ない職人となっていた。
二月、七月には各村の耕作当(農務係)は鍬・鎌・錚等を検査して、破損したものは修理させ、その結果を間切番所の惣耕作当(農務主任)へ報告するようになっていた。「公事帳」
今でも各字の岩の下(イシヌガマ)にカンジャーガマとかカンジャーメーという地名が残されている。これは各村々に置かれた鍛冶屋の仕事場の跡である。火を使う仕事であるので岩の下等の場所をえらんだとおもわれる。
明治十三年の廃藩後もこの制度は続いていて、首里から鍛冶職の人だちが村々を巡回して農器具の修理をやっていた。年に何回か廻ってきて村々に数十日間滞在した。農具の修理はその依頼者が実費負担したが、食事の世話は村民が各戸持まわりでやった。カンジャーマカネーは村持であった。また「金細工節」の歌のように各村々をフーチ(ふいご)を担いで歩くのもいたがこれは主に鍋のクーであった。
いつ頃から鍛冶工が始まったかわからない。「琉球国由来記」事始の条に 「木匠、 鍛冶、 石工当国此土従天孫氏有来也」とあり、鍛冶屋の始は不明である。しかし、奥間カンジャーと志喜屋カンジャーの伝説がある。
察度王(一三五〇~一三九五)の父は奥間大親で鍛冶屋であったが、その弟の金万が鍛冶職を継いで国頭間切奥間村に下りて鍛冶屋をしていた。金丸(尚円王)が宣名真の村民の迫害を受けたとき、奥間カンジャーが急を金丸に告げ、与那覇岳山中のインチキ屋取にかくまって、猪狩にかこつけて食料を運んで金丸を助けた。その功により次子は奥間総地頭になり、長男は鍛冶職を継いだ。
志喜屋カンジャーについては『遺老説伝』という古い文献の中に「往古本国末だ鉄匠有らず。下志喜屋村に、免之大親なる者有り。七次、私自に中国に至りて交易し、終に兵乱に遭ひ、留在すること七年。始めて鉄匠を学びて帰る。」、昔この琉球の国にはまだ鍛冶屋はいなかった。知念間切下志喜屋村に免之大親(メーヌウフヤー)という者がいた。彼は七回もひそかに中国に渡って貿易をしていたが、たまたま戦乱に遭って帰国できず、七年の間中国に留っていたが、琉球では始めての鍛冶職の技術を学んで帰った。七次も中国へ渡って貿易をしていたということは、当時は帆船であってみれば容易なわざではない。航海術にも秀れた傑人であったとおもう。
中国との交易は察度王代一三七二(洪武五)年に中国(明)に進貢したことによって始まり、十九世紀の明治時代まで続いた。中国は尚賢王の時代一六四四年から一六六二年まで明清戦争があって明国が亡び清国が興った。兵乱というのは、このことをさすものとすると今から約三百年前のことになる。中国との交易は進貢船とこれを迎えにいく接貢船で行われまた封冊のためにきた封舟(一名御冠船)もあった。一六二三年尚豊王の代になって二年一貢(二年に一回進貢)となったが中国へ渡る唐船は僅かであった。
七回も中国へ行くのには、少くとも二十年以上はかかったと思う。琉球国と中国福建省(福州)との間の航海は容易なことではなかった。十五反帆船で八、九月頃の西北風に出た。順風であれば七~八日では福州に到着できるが、風を待って慶良間や久米島で数十日も待たねばならない。台風期でもあるので漂流した船も多い。
帰りは翌年の四、五月の東南風が吹き出す頃になる。進貢船(大唐船、小唐船)は両艘からなり大唐船に百二十人、小唐船に七十人で、船頭、舟子(水主)に久高島の者が仰付けられていた。免之大親が唐船の舟子として中国へ渡ったと考えられないこともない。中国へ渡ってカンジャーの技術を学んで帰って琉球の鉄匠の始祖となったことはほぼまちがいない。
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008375 |
| 内容コード | G000000352-0012 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.50(1988年9月) |
| ページ | 8-9 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1988/09/01 |
| 公開日 | 2026/09/24 |