なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シリーズ村史だより(9)北米移民の父・西銘徳太氏の略歴

西銘徳太は幼名をトクー(徳)であったが、沖縄県立中学校までは西銘五郎という名前であった。北米へ出国した時の海外旅券は西銘徳太となっている。五郎は一八七三年(明治六年)屋号スルバンに生れた。スルバンという屋号は、シュリバン(首里番)かスラバン(造船所の管理人)から転訛したと考えられる。久高島の由緒ある家柄であったにちがいない。祖父は首里王府の中国貿易船の唐船船頭であった。幼い頃父母を失い、祖父のもとで育てられた。久高島にはスーヤー・浜ミンダカリ・スルバンの唐船船頭家が残っている。スルバンと浜ミンダカリは兄弟である。トクー(徳太)は学校に上るまでは久高島で育った。島には私塾があってこれは与那嶺のヤガマーといった。久高ノロ殿内の西銘松造(松雄の父)さんもいっしょにそこで学んだ。ある日一升京判の桝に入れられたエンドウ豆の数をぴったりと当てゝみんなを驚かしたと西銘松造さんは話しておられた。沖縄ではトウイチベーといわれ、唐旅を一回でも成功すれば巨万の富をきづいたといわれている。スルパン家も船頭家としてウェーキーとなった。久高島には立派な石垣を積みヌチヂ屋があり、また那覇にも大きな邸宅と貸屋をもっていた。沖縄尋常中学に入学する頃は、に特別に寄留が許され、そこに祖父とともに住んでいた。
一八九一年(明治二四)四月、沖縄尋常中学(県立一中)に入学した。いっしょに入学した生徒の中には、沖縄研究の創始者伊波普猷、漢那憲和海軍少将、照屋宏工学士、真境名安興、屋比久孟昌の諸氏がいた。彼等が五年生になった一八九六年(明治二九)に英語科廃止のことで児玉校長排斥のストライキ事件が起った。
伊波普猷氏の「中学時代の思い出」の中で、「五年生で一番年取ったのは西銘五郎君で、一番若いのが漢那憲和君だったが、当時この二人は全校生徒の牛耳を執っていた。或日の夕方、私の宅にやって来て、自分だちは県のため犠牲になって児玉校長を排斥しようと思ふが、君も仲間に這入ってくれないかといった。私は心の中で、高等学校に入学する特権を失ふことを歎きつゝ涙をのんで同意した。」と述べられている。同級生の中では一番年上でもう二十二才にもなっていた。西銘五郎と同志倶楽を組織した生徒はそれぞれ退学処分を受けたが、後に学校へ復帰した者もいたが、西銘、伊波、照屋は退学して東京へ遊学の途についた。下国教頭のはからいで東京麹町の明治義会中学の五年に編入卒業して、西銘は第一高等学校に受験したが失敗した。そして明治専問学校(明治大学)を卒業、一八九八年(明治三一)二十五才のときアメリカ合衆国へ渡った。県人最初の直接渡米者は明治二十九年比嘉統煕が始めて桑港(サンフランシスコ)に上陸したが、比嘉に二年遅れて明治三十一年に西銘徳太、百名朝興、名護朝助、安元実徳の四人が第二回、第三回の桑港上陸をした。(北米沖縄県人史)
西銘はスクールボーイとして英語を修得し、後、オークランドに県人最初のレストランを経営した。
彼の桑港上陸後次々と県人が増え、また布哇から転航者も多くなった。明治三十五年西銘、仲吉良弘の斡旋で桑港に北米最初の沖縄県人会が創立され、西銘が会長に選ばれた。
西銘は郷里の那覇と久高にある財産整理のため、明治三十六年帰国した。再渡航する前に彼は商家の嵩原安政を訪ねている。「名護朝助さん、西銘徳太両氏が私の家をお尋ね下さいまして色々すすめられたので、私も遂に渡米の決心をしました。」と嵩原氏は御話をされている。彼が久高島に帰ったとき、アメリカから持帰った多くの写真が新外間(スルバン)の家に残っていたが今度の戦災で焼けてしまった。
明治三十七年に再渡航したとき
の海外旅券(パスポート)左附表
が次の通りである。

[図表]明治十二年一月外國族劵下附表 沖繩縣廳

一九〇八年(明治四一)に北加から南下してロサンゼルスに来た上町側と、メキシコの炭坑から出て入国した下町側の両県人が羅府(ロサンゼルス)に相会して、折合がつかず相対していたが、西銘徳太が両方の人達と話し合い和解させて、一九〇九年(明治四二)南加沖縄県人会を設立した。西銘氏は推されて初代会長になった。南加沖縄県人会は一九二五年(大正一四)沖縄海外協会南加支部が設立されるまで続いた。明治四十一年に先駆けてアリゾナ州に砂糖大根の仕事を請け負って県人を入れた、これがアリゾナに於ける県人農園の初めである。其後レタスを試作し、今日アリゾナの優良なレタス栽培に先鞭をつけたのも西銘氏であった。アリゾナに二十六年間も定住し大々的に農園経営をしてきたが、一九二九年(昭和四)コルサ・ウイリアムに瓜作りの監督として移転してきたときはもう五十七歳にもなっていた。そして一九三八年(昭和一三)十二月四日カルホルニア州、デラノで六十五才の生涯を閉じたのである。
久高生に生れた西銘徳太は波乱万丈の中学時代を終え、北米移民の先駆けとなり、清貧をものともせず常に県人の発展のため献身的に努力し続けてきた彼こそ、北米移民の父である。
戦後の帰還者知念村字安座真の石川新五郎氏(アマングヮー)は西銘さんの葬儀に参列されたこと妻は長崎県人で四才になる娘もいたとか御話しになった。
一九三九年(昭和一四)十二月十日、西銘徳太氏建碑式並に先亡者慰霊追悼会が各団体有志の主催によって行われ、これまでにかつて見なかった実に大きな行事であった。
昭和十四年十二月十日午後一時
於エバグリン墓地
●故西銘徳太建碑式
司会者 仲村昌広
一、開式 司会者
一、西銘氏略歴 奥武朝道
一、読経 泉国輪番
一、焼香 一同
一、慰霊追悼の辞 嵩原安綿
一、慰霊追悼の辞 玉城伊保
一、同 中谷善英
一、法話 泉国輪番
一、閉会 司会者
ロサンゼルスでは実行委員奥武朝道、会計主任の比嘉朝信を先頭に各委員が活動した。其の日は羅府近傍の県人は殆んど皆が建碑式と慰霊追悼会に参列し和やかな麗わしい慰霊祭であった。
(北米沖縄人史)
知念村史編集委員会嘱託
新垣源勇氏

ダウンロード https://docs.google.com/uc?export=download&id=1AMA2ShI382PL4GQ5dEE31bXLJhf-jNRZ
大分類 テキスト
資料コード 008374
内容コード G000000351-0007
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.49(1988年6月)
ページ 7-8
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1988/06/
公開日 2026/09/24