今年二月九日~十三日・琉球新報開発主催の「台湾の沖縄史跡の旅」に参加することができた。
台湾の沖縄史跡として特筆さるべきものは、「琉球藩民五十四名墓」であろう。明治四年十月宮古から首里王府への上納を終えて帰りの船四隻が暴風雨に遭い、宮古島の十二反帆船が七日後台湾生蕃地八謠湾方面に漂着したが、牡丹社蕃人によって五十四名が首を刎ねられた。生き残り十二名が中国人楊友旺さんの家に四十日間保護され、福州に送られ、帰国することができた。その楊さんの孫に当たる楊添才さんと会うことができた。
五十四人の胴体を葬った墓は車城郡統埔村の田んぼの中に石垣をめぐらし改築されていた。この碑は西郷従道の台湾征伐で撤退するとき建てられ、台座の部分が昭和二年、台湾の県人会の照屋宏氏によって遭難者の氏名を刻して建てられたのである。統埔村の村長で墓を守ってくださった林錦栄さんも同行してくださった。「大日本琉球藩民五十四之墓」だったが大日本の三文字はセメントで埋められている。
遭難者名の中に内間加阿良、内間屋真とあったので久高の人ではないかと調べたら宮古・松原出身だとわかった。生還者十二名の中にも船頭に座敷某とあり、久高出身の者はいなかった。
沖縄人漁民の渡台は明治三十二年頃で、最初に基隆の社寮島に沖縄人部落をつくり、また東台湾の辺鄙な所にも、豊富な漁場を求めて定住したのも久高漁民であった。久高の鰹船は八重山でも隆盛を極めたが、大正の初期に傾きかけ、その漁民は台湾へと進出していった。
社寮島の漁業の神様と呼ばれているのは久高島のヤマゲーウブシューであった。ジョーチマの内間吾良さんの父、内間長三さんがその人である。彼は台湾人にツキ船の漁法や、モグリ、エビ網のつくり方を教えた。吾良さんの渡台が大正七年だとすると、三十年以上も台湾で漁業をされたことになる。久高出身の方で安里用徳、用助兄弟、糸数源蔵、越来のヤマー西銘徳八、前外間の西銘順一さん、ミンダカリの内間仁寿さんも社寮島に居られた。夏になると多数の久高漁民がテングサとりに来た。
東海岸の蘇澳には安里文次郎があり、台東県成功鎮大馬武窟には台湾外間の外間長四郎さん一家があって、鰹節を製造して大阪市場へ送っていた。また対岸の火焼島は明治初年から久高漁民がカツオ漁や鮪曳縄をしていたという。
高雄にも多くの久高漁民がここを根拠地として海人草とりに従事していた。台湾の小琉球という島があるが、ここにも久高漁民はカツオ漁に出ていて、同じ琉球のよしみで歓迎されていたようである。
台湾人はその頃まで漁業をいやしいものとして、あまりやってなかった。当時のあの豊富な漁場でパンジンロマグロのヒカシ(曳縄)で八〇〇斤位の大漁が毎日続いたし、潜ると海底の黒石みたいにアワビがいたと外間長六郎 (長四郎の弟)は生前話しておられた。東部海岸の蘇澳から花蓮、新港(成功)台東と漁民部落をつくっていったのは久高漁民であった。
知念村史編集委員会嘱託
新垣源勇氏
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008372 |
| 内容コード | G000000349-0012 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.47(1987年5月) |
| ページ | 14 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1987/05/ |
| 公開日 | 2026/09/24 |