なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シリーズ 村史だより(7)

九月二十五日から三日間、沖縄地域史協議会の研修会が奄美大島の名瀬市で開かれた。奄美大島と沖縄の密接な歴史的つながりを調査研究することができたが、沖縄漁夫のさきがけは糸満漁夫でもなく、久高海人(クダカー)であったという。確実な資料裏付けができた。奄美列島では、糸満から来た者も、伊平屋、伊是名島から来た海人を皆「クダカー」と呼んでいる。
上り口説に出てくる「道の島々」というのは、琉球と薩摩との間に点在する薩南諸島のトカラ列島、奄美諸島のことで、琉球と本土とのかけ橋であり、両文化の接触するところである。
奄美諸島は一六〇九年(慶長一四)まで琉球王府の統治下にあった。今でも日常方言もたいへん沖縄に近いし、三味線の音とともに流れてくる民謡も沖縄調で衰調を帯びている。また最近琉球王朝から出されたノロの辞令書が数多く発見されている。地名もほとんど沖縄と同じ地名が多く、知念に近い喜念や佐念といった地名もあり、沖永良部島には知名町もあり、諸鈍節の出た諸鈍も奄美大島にある。このように琉球文化が末だ色濃く残っている。
久高海人にとって道の島々は薩摩への海上の道の宿駅であり、また荒海の避難港でもあった。久高島の男は成人すると夫役を免ぜられて、中国への唐船や薩摩上りの楷船に乗せられ、急用の場合には飛船を漕いで薩摩へ急行した。また島の上納物であるイラブー(エラブウミヘビ)獲りにトカラ列島まで出漁した。海の荒武者も帆まかせの航海では遭難も多い。久高船の遭難を記録によって調べてみると、
『中山世譜、附巻』
嘉慶十四丁刃年(一八一七)久高島漁民の乗った三名乗の漁船が鳥島へ赴き、そこで連縛独大小舟を仕立てゝ鳥島の島民四名も加わり、計七名で沖永良部島へ廻航して米や豆等の食糧を仕入れて鳥島へ帰る途中遭難し、台湾金包地方へ剽着したが、鳥島の四名が疱瘡に罹り、一名は死亡し、他は其後中国の視州へ送られ、そこから夏運送馬艦船で帰国した。」この船は恐らく徳之島、沖永良部島ヘエラブ漁に出たものとおもわれる。この連縛独木小舟は二隻の山原松の創舟を山原竹で縛りつけて組合せたもので、久高島ではクルンミーといっている。(明史、中山官生の頃に、姑魯妹(クルミー)がある。)
このクルミーは奄美の島々から北はトカラ列島の無人島を廻ってエラブ漁をしていたのである。クルンミーによる出漁は明治の頃まで続いていたと外間長六郎翁(新外間)は話されていた。クルンミーが久高島を離れて大島へ行くときは、ミガー(井泉)のハンタが島の女たちがハリショーイの歌で送ってくれた。出漁は旧三月イチュベーで帰島が寒露の節が入ってミーニシ(北西風)の吹く頃であった。帰島のしらせに島は賑わい、彼等の家から島の各戸にジュー・ウバイが配られた。エラブ漁は宮古、八重山へも出漁し、また慶良間列島には久高漁夫のエラブ薫製に使われた海岸洞穴があり、クダカガマといっている。
奄美大島の民謡に「クダカンチユヌ、ユミナリバ、イラブチタマンヤ、チャーカミ」という文句が入ったのがある。また久高島のウスデークの謡の後の部分に大島民謡の「ナウトミシュー」が入っている。
『球陽』の尚瀬王の条に「本年知念郡外間村の内間筑登之親雲上等の功を褒嘉して、中布、爵位を賜ふ。」とある。これは一八三三年(道光一二)は旱魃(ヒヤーイ)が続いた後旧暦九月暴風雨があり、各所の穀物倉庫が吹き倒され饑饉(ガシ)がやってきた。ついに琉球王府は薩摩にこの惨状を訴え、食糧の補給を求めて、飛舟を出すことにした。そこで知念郡(間切)外間村(久高島)の糸数筑登之親雲上、西銘筑登之、等十三人が使わされ、その目的をはたし、救援の米穀を載せて帰国した。その功績によって中布二反を賞賜され、筑登之親雲上の位をもらった。
琉球王府はこのようにして薩摩に対し上申しなければならない急な用務のときは飛脚に代る飛船を出した。琉球王府の摂政(総理大臣)、三司官の替るとき、外国船が来航したり、唐船が帰国したときは、すぐ薩摩へ飛船が使わされた。この飛船は天候の如何に抱らず、風を待っつことなく出航しなければならない。そのためには道の島々の航海に熟達した久高島の漁夫たちが選び出され、夜昼と休みなく漕ぎとおして山川港にたどりついたのである。
尚育王十三年の条に、「此年(一八四七)三司官、小禄親方の後欠の伺いに崎山筑登之親雲上か薩州に赴いた。そのときのも知念郡久高村西銘筑登之、 外間村武寿西銘、久高村也磨内間等七名が飛航乗りに充てられている。「不時の海路を憚ること無く、励みて奉公の心を尽くし、善く船構を操りて往還恙無く以て著しき功労を立つるを致す」と久高島民水梢(水夫)の表彰記事が「球陽」だけでも十八件も所載がある。
糸満は兼城間切の海岸に発達した一漁村であったが、「球陽」等に飛航水梢して登用された記事が見出せない。糸満漁夫の海外発展も明治中期以降ではないかとおもわれる。
慶長十四年の島津氏の琉球入前から中国を始め東南アジアの各地に貿易を営んで航行していた琉球船、唐船に乗っていた久高海人が、トカラ列島、奄美大島諸島を股に掛けてエラブ漁をしていた事実が明白となり、沖縄漁夫の先がけは久高漁夫だったのである。
次は徳之島の地名喜念(キネン)について調査する予定です。
「写真」以久高島のウミンチュ(海人)

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大分類 テキスト
資料コード 008371
内容コード G000000348-0020
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.46(1987年3月)
ページ 8-9
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1987/03/
公開日 2026/09/24