[写真]リーフ調査をする村史編集委員
四月九日(旧三月一日)と四月二十六日(旧三月十八日)知念村史編集委員と琉球大学地理学、生物学の諸先生と共同で、知念村の干瀬名調査と巡見を行いました。千瀬地名は昭和四十九年に字志喜屋の親川助七さん、親川松郎さん、太田徳盛さん等によって作成された資料をもとにして、現地調査をしてきました。二次にわたる調査は詳細な干瀬地名を集録することができて、村史編集に大きな励みとなりました。
干瀬は干潮時に出現する珊瑚礁のことで、外海から海岸を守ってくれ私たちの生活に密接なつながりをもっています。干瀬地名には各村の長い歴史が残されています。干瀬によって外海の荒い波はくい止められ、静かな内海の豊富な漁場をつくってくれました。巨大な自然のテトラポットであります。また陸から垂れ流す生活汚水を浄化してくれるクリーニング屋でもあります。知念半島の前面に発達した久高島のタアキビシから玉城村の百名新原の海岸のテービシまで約十二粁も連鎖する珊瑚礁は外海からの無断侵入を拒む、大きな外柵であり、侵入水路は南のアチヌー、クマカ島の東方のクマカヌー、アラジンヌー久高島の南端の久高ヌーの四つの水路しかありません。このヌー(澪)から船を入れることは、この知念、玉城に生れ育った海人(ウミンチュ)でないとできない至難なものである。百名新原のヤハラジカサの海岸に上陸したわたしたちのミントン系民族は、このアチヌーの水路から舟か筏で入ってきたにちがいない。久高ヌーに入った舟は久高島のトクジン港に上陸したでしょう。ヌーは舟の出入する澪のことで「おもろさうし」にも謡われています。
こまかの、みおに、おれ、みもん
くたかの、みおに
さん、あみ、むすひ、おろちへ
かめ、あみ、むすひ、おろちへ
クマカヌーは立派だ、久高ヌーは見ぐと、ザン(ジュコン)網結び下す、亀網結びうるち。
久高ヌーも、クマカヌーもザン(ジュコン)あみ、亀あみを入れるところであった。ジュコンもカメも首里王府への貴重な上納物であった。クマカ島の南・テラザビシとタマターの間のヒラバンヌーの海底はジュコンの食草であるザン草(リュウキュウスガモ)がいっぱい生えている。クマカグチはナカビシ(ウフビシ)によって南のヌーグワーと久高島のヒラビシ側のアラジンヌーの二つのヌーに二分されている。ヌーグワーは台風時に白い波が連続することがある。「ヌーグワーがウヤートーン」ヌーグワーがいっしょになったということで、台風がくるものと断定する。ヌーグワーを見て台風対策のため、イリチヤ(屋根)を掛けたり、雨戸の竿結びを始めるのである。ヌーの流れは激しい。干満の潮位差はこの水路にものすごい潮流を起す。またこれが魚群の集まる場所ともなり、追込漁の行われる絶好な漁場となる。久高島のヒラ干瀬はサザエ(チョウセンサザエ)等の貝類が多く、古くはウナー(ウニ)採りの場所であった。
明治十八年に報告されている知念間切内法には「第三十一条、久高島海字平ラ干瀬全タアツ干瀬全島干瀬ヨリ漁業ヌハ海人草永良部鰍貝類ガツキ取得候モノハ乗舟並舟具直ニ取揚ケ売払ヌハ島方乗用召成候共勝手次第致候上科金ハ前条固断、但ウニヤー甕取得ノ分間切中ハ差免候」
平ラ干瀬からナチョーラ(海人草、マクリ)、エラブウナギ(エラブウミヘビ)貝類、ガツキ(シラヒゲウニ)等を取ると舟も舟具(ウミドーグ)も取上げられ、科銭をされた。ウニヤ甕(肥料にするウニ)は知念間切の人には許されたということである。サトウキビの肥料としてウニを使った時代があった。
海字として干瀬は陸の小字のように大切にされた。干瀬は島民の生活を支えてくれる海字だったことがよくわかる。
久高島では祭りのときのウタカビ(御供物)の魚はヒラビシのアンジケー(追込網)で獲れる貝類も十五才の男子・ンナグナーの若者たちに課せられた王府への上納物だった。
タアキビシ、久高島、ヒラビシ、ナカビシ、タカビシ(カミジ)と帯のように続く珊瑚礁の干瀬には四つの水路が開け、久高ヌー、アラジンヌー、ヌーグワ、アチヌーがあるが、その間に舟の出入のできない小さい切れ目がある。ここは大潮の干瀬のときだけ、徒渉可能である。連続する干瀬の切れた部分の小さい水路がトンジといわれ、タカビシのカミジから南へ大トンジ、ナカトンジ、ワナトンジがある。ワナトンジが知念間切と玉城間切和名村との境界のトーシとなっていた。即ち陸の間切境界の方切が干瀬にも設定されているのである。垣花のワナバンタ、ーアンサゲ、-ワナトンジが玉城間切と知念間切の境界線である。
千瀬の内イノーは村の人だちの生活の根拠でもある。村々のムート家(祖家)はそれぞれ専有するカチを持っていた。志喜屋海岸にマカルーグフ、ハチーグフがあり、具志堅港の入口にマクブヌヤーといわれている附近はイナドーグフといっている、具志堅港とクビヤマグチとの間にはニーグルグフがある。グフは瘤のことで、突出した石のこともグフという。村の馬を浴せるクムイ(堀)の中の馬の手綱を掛ける名もグフといっている。漁垣(カチ)の跡に残ったソデの名がグフであるとおもわれる。知念のクビヤマグチには城間ガチがある。戦前、村から城間(屋号)がカネエー(小作)していたようである。久手堅のウラン海岸(サイハの下)にはナカジンガチとシムガチがある。今のレジャーセンターの南側のウンチャーヤマの浜にその残痕がある。
知名のテダウッカーの近くに知名村の漁垣(カチ)が三つある。メンゾー垣、ウェーガー垣、チナーグワ垣がそれである。漁垣は干潮の時魚が逃げないように八字形のソデの石垣と、内に魚がこもるようにしたクムイができている。久手堅のウラン浜のウンズムイ(ウフンズ・クムイの略)はクムイの部分である。戦前ミズルやキビナゴ(スルル)のよく入り込む場所であった。漁垣は古くは村の支配者であるムートヤー(祖家)の占有漁場であった。根家がカチからの漁獲権をもっていた。このカチからとった魚はウマチー (稲穂祭、稲大祭)等のウタカビムン(供物)となる。
「琉球国由来記」の南風原間切ヨコツナ巌の条に「此巌、元ヨコツナ大屋子、西原間切我謝之海辺に、魚捕るカキあり、右カキ見廻の時、亀を見つけたるに」云々とあり、村の支配者が漁垣を持ち、時々見廻っていたことがわかる。今の知念海洋レジャーセンターもカキであったとおもわれる。「遺老説伝」に聞得大君加那志が日本に漂着したとき場天ノロに迎えられて帰国された港が待垣泊だと記されている。また斉場御巌の入口には御待御殿があった。この御待御殿の直属の魚垣がマチガチで、「御新下り」の儀式の魚もここで獲られたと言われている。
干瀬(フィシ)にはンタクということもある。安座真港から久高島へ出るとンタクがある。干潮でも白波が連なり、浮上してその姿を現わすことは少ない。
安座真の新しい港の入口にはカマンタ・ブリンタがある。ンタクもンタもフィシのことであり。久手堅の大城原(知念岬)の下にンタンチジがある。
村の海人だちは千瀬の一つ一つの岩礁までも暗識していて決して乗り上げることはない。唯彼等の恐れるのは何の知らせもなく張りめぐらされた定置網である。油断するとスクリューに巻きついてしまうからである。彼等は内海のイノーは自分の屋敷と同じである。どこの岩礁の穴はいつ頃どんな魚が入っているか熟知している。いつどこの干瀬で大物をにがしたか忘れない。自分がよく知っている、占有の穴がある。これをアデクという。アデクを多く持っている者が海ハマヤーである。それぞれアデクには名前が付けられる。志喜屋ではカマイチヂリヤー・ウフンダグワースニ・というアデクがある。志喜屋のカマ(神谷)のウスメーが潜ってマクブ(シロクラベラ)を突いたが数秒の計算ちがいで息がとまりかけたという場所である。素潜りで入れる深さは七尋から八尋である、(一尋は一、五メートル)。メーダアナ、クークェーアナ、浜比嘉アナ、クワッチンギタ等がある。
干瀬名は村によって呼び方が異っている。知念海岸のムルシマビシは久手堅ではグマヌサチといい、志喜屋の人の言うユニはカナビシであり、ウミナガサチはマガヤーのことである。志喜屋からの資料でも一九一の千瀬地名があり、各字から資料が集まると知念半島沿岸の干瀬地名は三〇〇を越すとおもう。干瀬と私たちの生活とのつながりは、干瀬名を知ることによってもっと緊密になってくるだろう。
(新垣源勇)
| ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1QNyb_qdGHIg4ktGERRenpjkZ-Q_gxJE9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008370 |
| 内容コード | G000000347-0009 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.45(1987年1月) |
| ページ | 8-10 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1987/01/ |
| 公開日 | 2026/09/24 |