なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シリーズ 村史だより(5)知念番所

村屋
村屋は村所とも言われ、後に字事務所と呼ばれるようになった
「村屋ハ各村ニアリテ其性質ヨリ云ヘハ公ノ役所ト云フコトヲ得サルモノタルノミナラス今日ノ組織ニ於テハ後ニ説明スル如ク表面上納税人トナレルモノナリ但シ実際ニ於テハ最初ノ機関トナレルモノトシテ掟ト称スル村長類似ノモノ、名ヲ以テ賦課徴集ノ事ヲ行ヒ其ノ実際ハ総組頭、総代、総聞等ト称スル各村内ノ重立チタルモノ、協議ニ依リテ事ヲ行フ所トス」明治二十六年の国税徴収法施行に拠ると村が納税者と見なされた。税の賦課は間切番所が村別に行い徴収は村屋で、村掟が行っていた当時の知念間切知念村(字知念)徴収手続の実例を左に挙げる。
知念間切 知念村
一 田租畑租
共ニ伝令額ノ内ヨリ仕明地ニ係ル分ヲ控除シ其残額ヲ各一種毎ニ各自持地ノ数ニ応シテ分賦ス
一 浮得銭
ハ屋敷地ノ広狭ニ依リ賦課シ
一 票籾石代
ハノロクモイニ人ヲシテ特担セシム
各納人ニ対シテハ組頭ヲシテ通告セシメ各自ヲニテ村掟ニ納メシム
村が納税者であったので各個人への分賦の方法は村の規則で決められ不納のときは組が代納し組が不納のときは村が代納するといった責任があった。個人は地割地の持地の数に応じて其納税額が決まり、納人に対しては村佐事(サジヤー)か組頭が其納額を告知して各自か村屋で村掟に上納していた。間切には知念間切内法があり、上納物不納のときの罰則がある。
知念間切内法
第十条村方ニ於テ諸上納物日限通リ不相納ノトキハ掟・耕作当其番所へ詰込サセ皆納ノ上差帰シ…上納物不納のとき村の納税責任者の村掟と耕作当か番所に抑留される。掟之儀村所(村屋)へ昼夜詰込下知仕候ニ付・・・とあり、村屋には常時村掟がいたのである。村掟の小使役が村作事で村中への触れ物(フリームン)を村の高チヂ(高い場所)に登って大声で村中に触れていた。村作事は「サジヤー」ともいい各村貢租(上納)取立其他諸達等触関係のことをしていた。この「サジヤー」は大正の頃まで残され、 各戸持廻りで、触をしたり五月六月のウマチーのミチ米(神酒をつくる米)を集めたりしていた。村掟・耕作当・山当の制度は明治三十年に「間切島吏員規程」ができて廃せられて村頭が置かれたが、久高島を残し、公費節約ということで明治三十六年に村頭も廃止となり、代りに間切役場に書記が増員になった。村には又掟加勢という用弁雇がいた。
「吏員ニ大和語習ハス、新体ノ公文ヲ解シ又ハ起草スルノ困難ナルニヨリ首里又ハ那覇ノ士族ヲ雇ヒテ事務ヲ処弁セシム」村の者は無学であったので村の筆者として首里那覇から其の任に就けるため雇うてきた。知念の「村山小」は那覇泊から、志喜屋の「神村」は首里から、久手堅の「安慶田」等は掟加勢として村に下りてきた士族の家である。村の筆者は明治三十年以前は島文子ともいわれた。村掟・耕作当・山当等の村役人は毎月一日、 十五日間切番所へ出頭し、諸公事を受領して、村へ帰ってからこれを村中に徹底させた。村掟は明治三十年に村頭となったが、村掟も村頭も間切番所と村屋との間を絶えず出勤して、その村の貢租公費の徴収や農事の督励にあたったのである。又時には村のけんか争いにも調停役となった。
各村内法
第十一条村中ニ於テ喧嘩争論スルモノ掟・耕作当・山当等ニ於テ双方取糺シノ上越度ノ者ハ弐拾銭以上四円以下ノ科金申付・・・」とある。
村の掟・耕作当・山当は村屋に毎日出勤し、村屋には間切番所からの指令等が村次で村佐事によって送達されてきた。村屋の掃除、お茶沸しも佐事の仕事であった。
知念間切内法
第五条 耕作当・山当・共故ナク各村屋欠席ノ者ハ科金拾銭宛申付候事。
第六条各村掟・耕作当・山当其他ノ人民番所ノ呼出ニ無届不参スルモノハ弐拾銭ノ科金申付候事間切番所の補助機関として貢租の徴集、農事の直接指導に大きな力を発揮した村屋も公費緊縮の為ついに明治三十七年に廃止となった。
従来実行されてきた村内法による農事奨励の諸規則もその規制力が弱くなり、村の組頭、総代、等の権限も及ばなくなった。田畑原野を巡視する耕作当・山当ももいなくなり、村の農事督励を直接指揮する者も不在になり、旧慣の村の自治体制は崩れていった。
[写真]知念城跡

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大分類 テキスト
資料コード 008369
内容コード G000000346-0016
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.44(1986年10月)
ページ 8-9
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1986/10/6
公開日 2026/09/24