なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シリーズ 村史だより(3)廃藩置県と番所

『琉球国由来記」一七一三年(康凞五二)尚敬王元年。の「諸間切諸島夫地頭理、 ヲエカ人之事」によると、知念間切番所には次のヲエカ人だち即ちウェーデーニンの方々が勤めておられたことがわかる。
地頭代仲里大屋子
夫地頭前城大屋子
〃具志堅大屋子
〃下敷屋大屋子
(四員夫地頭)
首里大屋子。大掟。南風掟。西掟。(四理)
知念掟。久手堅掟。志喜屋掟。
山口掟。久高掟。外間掟。知名掟。(七・掟)
地頭代は村長に当る役である。古琉球の時代には地方に按司が群雄割拠していたのを一五二六年(嘉靖六)尚真王時代に諸按司は首里に聚居させられた。(救陽巻三尚真王の条)
代りに按司掟をその領地におくようになり、これが一六一一年(万暦三九)まで九十一年間も続いたが、 尚寧王の時代一六〇九年 (万暦三七)薩摩軍の琉球入があり、その二年後に按司掟が廃せられて、その土地の平民出身の地頭代(ジトデェー)が初めて置かれるようになった。
「間切島吏員規程・第一条」の説明には「地頭代ナル識名ハ素ト首里に在ル総地頭ノ代理官トシテ各間切ノ行政事務ヲ分掌セシメタルヨリ起リタル名称ニシテ……」とある。地頭代の制度は一八九七年(明治三〇)「間切島吏員規程」の実施されるまで約三百年も続いている。
明治十二年の廃藩置県によって間切はすでに一定の行政区画の自治団体として踏み出したが、制度は旧態依然としていた。明治三十年までは間切吏員は地頭代一人、夫地頭三人、掟七人、首里大屋子、大掟、南風掟、西掟ノ四捌理がいて、任期は地頭代が三ケ年が原則で、其他は交代年限がなく順次に下の役から繰り上がっていったようである。番所にはその回切の平民出身の地頭代、夫地頭、捌吏の外に王府から派遣された監督官吏の下地役と検者がいた。
「下知役、検者ハ物奉行、同吟味役ノ指揮監督ニ属シ、担当区内行政事務ヲ総理シ、且地頭代以下吏員ノ事務を監督シ、其進退賞罰ヲ両両総地頭、田地奉行ヲ経テ物奉行同吟味役ニ申申ス。」
下知役、検者は各間切に定員一名だが、 島尻地方知念間切久高島は特に検者一名を置いた。
下知役は上納(租税)がとどこおりがちになると派遣され、間切吏員を督励指導して上納の完納をはかった。知念間切は原が海辺で土地が痩せ、農作物の不作が続き困疲を極めることが数年に及び四ケ年から五ケ年の任期で一七八三年(乾隆四八)以来数次にわたって下知役が置かれてきた。即ち知念間切は下知役を建てゝ経済振興を計らなければならない疲れ間切であったといえる。明治五年に至って各間切に普く常置されるようになり、明治十二年の廃藩置県によって廃止となった。番所に勤める各間切地方吏員には地頭代と四捌庫理と各村の掟の本役の外に農務係の惣耕作当二名と山林係の惣山当一名、楮木繁殖の事を掌る楮木当等の仮役がいた。
「旧慣地方制度、地方吏員、職務権限
一惣耕作当ハ地頭代ヲ補佐シ又ハ田畑耕作及道路、堤防ノ修築、水利ノ便否等ヲ監視シ各村耕作当ヲ監督ス。
一惣山当ハ地頭代ヲ捕佐シ又ハ杣山及山野ノ樹木裁植伐採取締等山林一切ノ事ヲ管理シ山当以下ヲ監督ス。
一楮木当ハ地頭代ノ指揮ヲ受ケ楮木の裁植伐採取締等一切ノ事ヲ管理ス。」
間切番所には惣耕作当・惣山当がいて各村の耕作当・山当を指揮監督していた。
「知念間切内法、第十六条、惣耕作当ハ各村ノ田畑ヲ巡検シ原野ノ畦畦道路ト田畑トノ境界又ハ溝杯従前ヨリノ実跡ヲ広狭シ且新タニ溝ヲ直シタルモノハ本人ハ五拾銭以上五円以下、 掟ハ弐拾銭以下、耕作当ハ一人ニ付弐拾銭以上拾銭以下ノ科金申付候事。」
惣耕作当は各村を廻って不正のことがあったら本人は勿論、その村の掟や耕作当まで罰金(科銭)を掛けられたのである。
また村の内法には「耕作当ハ、田畑ヲ巡視シ耕耘手後ノ場所ハ与中へ申付耕耘サセ其賃銭一人ニ付弐拾銭以下科金トシテ本人ヨリ徴集シ耕耘者へ相与へ候事」
各村の農事監督の耕作当は村の田畑を廻って耕されていない所があったらこれを耕作人の属するクミシンカ(与の者)に耕させる仕組みである。各村の掟や耕作当は村の農業について一切の責務を負わせられたのである。
山当についても山林保護、山林造成に責任を負うている。
楮木当は製紙原料の楮(こうぞ)の確保のための取締をした。
掟は担当村の一切の事務を担当し知念間切は七人の掟がいた。併し村数は十ケ村であるから十人の村掟がいることになるが知名と安座真の二ケ村を一人で、また仲里・鉢嶺は山口掟が兼ねていたとおもわれる。掟・耕作当は諸上納が日限通りに納まらないときは番所へ詰込ませ、皆納するまで身柄拘束されるのである。「詰居半ニ逃去ル者ハ科金四拾銭申付候」とあり逃げたら罰金が科せられる。
これらの番所吏員も下知役、検者が明治十二年に廃止となり、明治三十年の「間切島吏員規程」で地頭代が間切長になり、夫地頭が廃止され、首里大屋子、大掟、南風掟、西掟は間切書記又は間切雇になった。各村の掟は村頭になった。
「第三条、間切内ノ村ニ村頭一名ヲ置ク但シ沖縄県知事ニ於テ必要ト認ムルトキハ数村ニ一名ノ村頭ヲ置キ又ハ村ニ村頭ヲ置カサルコトヲ得、第十一条村頭ハ間切長ノ命令ヲ承ケ村内ニ関スル間切長ノ事務ヲ補助執行ス、間切長ハ郡長ノ許可ヲ得テ村内ニ関スル其ノ事務ノ一部ヲ村頭ニ委任スルコトヲ得」
村掟に代って新しく村頭の制度が打出され村(字)の事務担当者となったが明治三十六年に各間切の公費を緊縮する方針によって久高島を除く外の各村の村頭が廃止になり、村頭も六ケ年で終末をつげた。
番所に勤務する役人には捌庫吏の
助手として文子がいた。間切役人になる最初の役である。「一文子ハ捌庫理以上ノ指揮ヲ受ケ諸務ニ従事ス。間切ニヨリ大文子、脇文子、相附文子、仮文子、若文子、見習文子ノ名称アルモ異名同職ナリ……」
文子は無給の者が多く、数年勤務を続ければ村掟に昇進した。明治四十一年に村長に昇進された久手堅の仲里文太郎氏は明治二十六年島尻高等小学校卒業し直ちに知念
切文子になり、其翌年知名村掟となり、明治三十年に間切書記、同三十九年最後の間切長となり同四十一年最初の村長となった。知念間切には島文子六名、相附文子三名がいた。
番所の雑役に従事する者に、馬番佐事(小使)、遠見番がいた。番所には公文書の宿次(逓送)と首里王府への役人出迎のため馬二頭と馬番六人が二交代で常時詰めていた。佐事(サジャー)番所から村屋への村次をしたり地頭代以下の諸役の走り使いをする小使である。また知念半島の東方海上を航行する艦船を監視する遠見番もいた。知念ウルク山後方のテーギタの近くに番屋があって岩の上から東方海上を見張っていたにちがいない。一八五三年(嘉永六年)ペリー来航のとき亜船伝間(ボート)が久高島から玉城間切百名村新原にわたって海岸測量をしているようすを、詳しく報告した」
沖縄県間切島吏員規程が明治三十年四月一日から実施され、旧慣温存の方針によって廃藩置県後も尚続いていた地方吏員はここで大きく変革された。地頭代が間切長になり、首里大屋子以下の捌吏は間切書記となった。従来会計の収支命令者と実際の出納責任者との区別がなく収支紛雑していたのを、収支命令者と実際の出納者とを区別するため初めて収入役が置かれた。
(次頁につづく)

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大分類 テキスト
資料コード 008367
内容コード G000000344-0003
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.42(1986年4月)
ページ 6-8
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1986/04/
公開日 2026/09/24