明治十二年(一八七九年)に琉球藩が廃せられて沖縄県となった。明治五年(一八七二年)琉球国尚円王統十九代の最後の国王がそのまゝ藩主となって琉球藩が設置され、明治政府に直属するようになったが番所の機構は旧態依然としていた。しかし明治政府と琉球藩との間の「琉球処分」の問題が頑固党の反対運動の渦中でついに軍警の鎮圧によって明治十二年廃藩置県が断行されたのである。駐屯兵の熊本鎮台分遣隊が置かれ、薩摩藩出身の巡査が投入されてきた。旧肥前鹿島(佐賀県)藩士鍋島直彬が初代県令(県知事)として着任し、今までの旧藩諸制度が廃止となった。置県処分を不服とする士族階級の県官に対する反抗が強くなっていった。本島諸間切には旧王府側から「取締書」が出て、「大和人と話をし問答する者は斬首する」という厳しい令達までもあった。
「一地頭代以下役々文子惣地頭御供ノ内大和人ニ随ヒ勤問請合候者ハ村間切ニテ致斬首其首尾諸間切へ可申出事」
番所の役人へ旧王府側から箔口令が布かれ、誰も大和人の県官と対応することが固く禁じられたのである。
今般琉球藩ヲ廃シ更ニ沖縄県ヲ被置候ニ付テハ則チ旧藩中申付有之処ノ官吏モ一般廃止ノ儀ニ候処首里泊久米那覇其他諸間切ノ役人并ニ諸町村ノ役人ニ於テハ役前ノ通相勤可申此旨相達候事
明治十二年二月二十九日
沖縄県令心得内務少書記官
木梨精一郎
これが間切番所への令達で、間切の役人と諸町村の役人は今まで通り勤めてよろしいという達しである。しかし旧王府側からの厳しい取締があったのでこれに応ずる様子はみられなかった。喜舎場朝賢著の『琉球見聞録』によると「廃藩に付ては首里那覇諸間切各役人等皆退き一切出席を為さず各役場悉く閉戸致したり右の布達を発せられたるも一人も応ずるものなし。同九日(新三月三十一日)旧三司官は本日正午十二時首里城を内務省官吏に引渡したるに付陸軍歩兵数百人銅角を吹き行伍を整へ那覇より来て入城し據て以て住屯の所と為す。」とある。
各間切の下知役・検者(王府から任命され、捌吏を指揮監督する)や地頭以下の捌吏、各村の掟等は県庁から改めて辞令交付したが受領する者もなく、番所の事務を投げて解散してしまったので鍋島県令(知事)は各間切に県の属官を派遣して吏員や人民を説いて廻った。当時の島尻地方の鎮撫巡回の結果報告書から取出してみる。
島尻地方鎮撫巡回復命書
三月二十八日命ヲ奉シ那覇出発則本部佐敷間切ニ着直ト下知役検者以下村吏に至ル迄呼シ辞令書其外相渡及説諭処総テ御趣意ヲ感佩シ直ト各村民ニ至ル迄夫々申聞説触致候段申出只其辞令ニ至テハ何分難拝受偏ニ延日ヲ乞フニ付之ヲ強フルハ環テ説諭ノ意ヲ失フヲ恐レ其願意ニ任セ従是知念間切へ罷越如前役員呼出懇説候得共同所下知役検者ニ於テハ更ニ示命ヲ奉セス却テ不遜ノ挙動等相見へ申候仍テ徒ニ御趣意ノ概旨ヲ酌シ人民ノ安着ニ帰シ決テ驚愕動揺セザル様申シ聞クベシト………
明治十二年三月二十八日に県庁の御用掛上柳、藤津、平野という三人の大和人が佐敷、知念、玉城、東風平、大里の各間切番所を説諭して廻ったが、県からの辞令を渡そうとしても受取らずかえってたかぶる態度に出たのである。特に知念間切番所では強い抵抗が示されていたことが復令書で報告されている。
また首里那覇の街のようすや船の出入、各地の集会等を探偵によって聞込みをして遂次報告させている。
五月十日ノ報
一、中城王子出立ノ翌日久高島ヨリ直ニ支那へ向ケ刳木船二艘宛ヲ繋キ組ミ合セ二手ニ分レテ出帆セシヨシ其乗込之士族従者共へ申聞クルニハ是迄支那ニ刳木舟ヲ以テ渡航シタル事ハナケレハ万一洋中ニテ沈溺致候様ノ義有之節ハ其子孫ニ至ル迄重き御取扱ニ可相成間此段篤ト相考へ奮発死ヲ以テ奉スヘシトノ達シニテ各一命ヲ抛チ候覚悟ニテ出帆セシト云(「琉球処分」より)
最後の国王尚泰の長男中城王子尚典は四月二十七日に随行の旧官七十余人とともに東京へ明治丸で出発したのであるが、その頃清国へ脱渡(密航)の取締のため諸間切の要港、諸島には探偵(巡査)が派遣された。脱清者の多くは久高島から清国(中国)へ脱渡していったようである。刎舟を二捜つなぎ合せたものや四艘つなぎのテーサン舟で次々と脱清者をのせて命がけの出帆をしたようすがわかる。
五月十六日ノ報
五月十三日探偵者ヲ久高島エ差遣今十六日朝罷帰彼ノ剋舟ニテ支那エ渡航シタリ云々ノ探索左ノ通一中城王子出立翌日首里役人(帳当座ノモノ)壱人久高島エ渡リ早速刎舟ニテ八重山島エ渡航致スヘク相達(八重山島エハ兼テ運漕用トシテ藩船拾反帆ヨリ拾三反帆迄ノモノ四艘撃キ有之候)其刎舟ニテ渡航シタル人数七名(内下ノ西銘筑登之親雲上ト申スモノ船頭ニ有之其外水先ノ姓名ハ悉皆存不申)ニ有之乗組人ノ家ハ私能々見認置由候事
西銘筑登之親雲上が船頭で久高舟から八重山へ渡るという口実で七名の者が脱清している。乗組員は帳当の役人以外は久高島の者であったことになる。 制舟四艘ずつ組んだ二艘が七人を乗せ、帳当座の役人は藩庁から清国滞在の幸地親方宛テの書面を持参していたことが久高島の乗組員の妻だちから聞き込んでいた。
一、探偵人久高島エ来候儀ヲ掛念シ候テ該島役人出張致シ船出入多キ海岸ノ場所ニ見張ヲ致居段承候ニ付私ニハ密ニ猟師ノ船ニ乗込外ノ船着場ニ船ヲ寄セ上陸仕候事
探偵人(巡査)が脱清の密航者取締のため島に来るのを警戒して海岸に見張を置いていたようだが、探偵人はこれを察知して漁舟を装うて別の上陸地点から島へ侵入してきた。
一是迄幸地親方渡清後同人ニ宛テタル手紙ヲ久高島水夫ニテ取扱ヒ指越タル儀既ニ六度モ有之段久高島塩屋西銘親雲上宅エ一泊シ同人妻ヨリ承知致候事
藩庁では明治十年に幸地親方を中国に密航させて救援運動をさせていた。久高島の密航船からその幸地親方への密書をすでに六回も送っていたことが塩屋(屋号)のファーファー(女主人)から聞いている。当時の久高島の役人の泊る民宿はスーヤー(首里屋)であったようだ。
[写真]▲中国福州在墓碑
球大清光緒六年庚六月十
琉五日死地壷丈八尺金
国使者貢船頭久高大里
内間筑登三親雲上 墓地
光緒六年は明治十三年に当る
廃藩置県後であるのでどんな目的でいつ渡唐されたか今後調査する必要がある。
異国の山に眠る久高島の船子諸士霊安かれを祈る。
| ダウンロード | https://docs.google.com/uc?export=download&id=1_a4IpGyzLZFhzw-HxQNJGEzjJCLWQQTY |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008366 |
| 内容コード | G000000343-0010 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.41(1986年2月) |
| ページ | 6-7 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1986/02/ |
| 公開日 | 2026/09/24 |