なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

シリーズ村史だより(1)知念番所資料

番所は「ばんどころ」ともいわれ、明治三十六年まで知念城内にありました。沖縄の番所は今日の村役場のことで、古くは間切(村)の行政だけでなく、司法の執行機関でもあったことがよくわかる。これは「手水の縁」という組踊に出てくる志喜屋之大屋子、山口之西掟は当時の知念番所の役人であった。番所のお役人(オエカ地を与えられた者)であって、知念山口の森小屋の一人娘・玉津を知念浜で死刑執行をしようとしたのである。番所は上納(租税)の集納をやりつゝまた間切の村々の喧嘩、口論や物入組(争い事)までも番所で取り裁かれたのである。平等番所もそこからきたと推定される。併しまた一方村の集合体も平等といった。首里のいくつかの村の連合した地方の間切に相当する真和志平等、西之平等、南風平等があって首里三平等といった。
知念城内に知念間切番所が移ってきたのは尚穆王十年(一七六一)乾隆二十六年である。どこから移転したか定かではないが、具志堅に平等番所という地名が残されていることから、そこから知念城内に移ったとおもう。
具志堅のヒラバンジョーは元具志堅初等学校のあったところで、村の人だちは死刑場のあった所だと言っている。具志堅の平等番所の跡の近くには蔵のあったクラントーの地名もあることから、番所の上納物入の籾蔵があった場所である。
知念番所が遷された記事は『球陽』の巻十五にある。
「知念番所を遷す。本年七月二十三日、本省の検者、惣地頭、聞得大君御殿大親等と全に題請す。本省城内は地勢尤も勝なり。乞ふ其の番所を城内に遷すを准せと。王之を允す。」本省とは本間切ということで、古くは間切のことを中国式に省、郡と表記していた。知念間切番所(役場)の移転願が王府から派遣されていた間切直接監督官の検者から知念間切を領有する惣地頭と聞得大君御殿大親等を通して王府へ提出されたのである。知念間切は知念惣地頭の外に琉球国最高の神職である聞得大君の領地でもあった。
知念城内の知念間切番所(明治三十年から間切役場となる)は一七六一年~一九〇四年まで百四十三年間もここにあったが知念城内の殿は尚敬王十七年(一七二九年)に取壊された後、再建されたが老朽が激しく、執務に差し支えたので、明治三十七年に役場を知念村クビ山の屋号親川の一室を借りて移った。
沖縄県告示第八十五号
島尻郡知念役場当分之内全間切全村六五六番地に移転す。
明治三十七年十月十五日
沖縄県知事 奈良原繁
知念間切役場は知念城内から知念村クビ山の民家に移されたがその間久手堅村からの誘致運動があり、久手堅村フッチリ原の現敷地に新築工事が始まった。
工事請負入札広告
知念間切役場新築
一、建坪四拾九坪弐合五勺
此入札保証金各自見積金額百分ノ五
以上
契約保証金請負金額百分ノ拾以上
(中略)
明治三十九年十月十五日午前拾弐時迄ニ営業証明書、入札保証金相添へ入札書ヲ同所へ差出スベシ。但シ即時開札
此ノ契約ハ島尻郡知念間切長仲里文太郎担任ス。
明治三十九年十月二日
島尻郡知念間切役場
(明・三九・十・三琉球新報より)
右のような新聞広告によって請負入札の公募があり、工事は約四ケ月を要して明治四十年四月に完了し、明治四十年四月三日当時の沖縄県知事奈良原繁を招いて盛大な落成式が行われた。
当日の落成式の状況を四月五日の「琉球新報」は次の様に報じている。
知念役場の落成式
一昨三日島尻郡知念間切役場の落成式を挙行せり。来賓には奈良原知事及日比事務官の外に斉藤郡長、馬渡謝花両属及各村主な人々、愛国婦人会員、赤十字社員並に八十才以上の長寿者等数十人なり、式は零時三十分より始まり間切長の式辞あり、続いて奈良原知事、日比事務官、斉藤郡長及人民総代の祝辞等ありて式は終りぬ。暫時休憩の後酒宴の催しあり、軈て学校生徒の遊戯並に村芝居及棒躍等の余興は庭前に練出されたり。斯くて一同酒酣なりし頃奈良原知事は当日参列したる長寿者十三名に対し酒杯を献し且金一円を与へたり。時は軈て午后二時を報じたる時知事及日比事務官等は退場漸次一般来賓も思ひ思ひに散会したり。因に記す、知念間切役場は知念間切知念村に所在したりしが右は間切の一方・に偏し一般人民の不便少からざりしのみならず、棟や柱の近来大に枯腐し執務し難きを以て全村久手堅村の入口に移転新築したる次第にて、敷地坪数二百五十坪、建物坪数四十九坪七合五勺なり。而して建物に利便を旨とし、前方上座の八畳敷の二室を会議室に充て、之と隣りて十五坪の事務室とし事務室と人民の昇り口なる土間との間には仕切りをなし土間の一側には腰掛けを設けあり、又間切長及収入役の如きは一般来衆と接すること頻繁なるを以て前方受付の側には席を設ける計画なり云ふ。尚は知事より金品を授与せられたる長寿者は左の如し。
長寿者の住所氏名
幸地カマ 八四
平原ウシ 八八
宮城多五郎 八四
具志堅順太郎 八四
比嘉ウシ 八四
新垣ウタ 八二
屋比久ツル 八二
前城松十 八九
神谷マカ 八六
玉代勢兼敏 八二
運天先事 八二
外間ント 八二
玉城太五郎 八五
知念間切役場は当時としては最も進んだ近代建物であった。東側の縁側つきの八畳二間は村会の開かれる会議室になっており、各村から選出された村会議員は羽織袴でここに参集したのである。また住民と相談できるよう窓口が設けられ、土間には待合のための腰掛も置かれていた。間切長(村長)は一般民衆との相談室もあったようである。事務室の北側には宿直室と小使室、炊事場があった。棟続きで風呂場と便所(屋ブル)もついていた。しかし便所は臭気がただよい屋ブルと嫌らわれていた。でも中頭郡の宜野湾役場と島尻郡知念役場が沖縄の地方の役場で一番評判が良かった。
明治四十年七月十一日の琉球新報の葉書だよりは左のように書き送っている。
葉書だより第十信(新築役場)各間切の役場は大抵旧番所を其儘使用し来り、役場として新築したるは中頭の宜野湾、島尻にては本年竣成したる知念役場なるべく該、宜野湾は新築は新築なれども形は旧式に準じ候。知念役場は全く新式にて吏員は総て人民と直接する様に出来居候。後ろに八畳の二間、二方縁障子たての構造は旧番所めく感これあり候へども、今の所にては出張員の宿泊所を兼て会議室に充つるの趣向、止むを得ざる趣と存じ候。
(九日知念にて天南)
知念村史編集室
新垣源勇稿

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大分類 テキスト
資料コード 008365
内容コード G000000342-0008
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.40(1986年1月)
ページ 4-5
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1986/01/01
公開日 2026/09/24