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沖繩の人名変遷記 (黒塗り)新垣源勇(知念村村史編集委員)

那覇市史の家譜資料を調べてみると、次のような家譜がある。
家譜は系図(チージ)ともいい、一六八九年から一七〇〇年ごろまでに作成され、系図座が置かれ、ここで記載し、点検、認定をしていた。
士族のみが系図を有し、平民は系図を有しないことから無系と呼んでいた。俗に士族をユカッチュ、平民をヒャクショーといわれた。
毛姓家譜
六世安察野村親方
童名真山戸唐名毛慎思
父安平
母向氏武樽金
(省略)
四男安屋
七世安屋志喜屋親雲上
乾隆十九年三月十三日任知念
間切
志喜屋地頭職
八世安篤志喜屋里之子親雲上
氏姓は家系を表し、唐名の姓となる。
野村親方は唐名の姓が毛、名が慎思である。
その父、安平は毛昌槇、その子、安屋は毛昌貴となって一族が毛のつく毛氏ということになる。
毛氏でも同族でない毛氏も幾多あり、その区別は名乗頭によって判別する。
安平-安察-安屋と安がついている。
これが大和名(ヤマトナ)で安の頭字が名乗頭(ナヌイカシラ)で一族に固定したものである。
名乗頭の安のつく毛氏は元祖が毛龍吟、大新城親方安基である。
盛のつく毛氏は中城按司護佐丸を元祖とする。
野村親方の父安平は宜野湾間切野嵩地頭になったからその領地の野嵩の名をとって野嵩親方になり、孫の安屋は知念間切志喜屋の地頭になったので志喜屋親雲上と呼んだ。
按司、親方、親雲上、里之子親雲上、筑登之親雲上は位階である。
系図座設定以前は皆無系で童名だけであった。
安平は松金、その子の安察は真山戸であり、孫の安屋は思加那であった。
これが平民の唱之方になるとマチュー、ヤマー、カナーと変ってきた。
廃藩前の平民の唱え方は「マチュー玉城」「ヤマー金城」「カナー比嘉」であった。
明治十二年の廃藩によって明治十三年二月以降士族も平民も姓と名のみが登録され、戸籍が出来た。
それまで平民は自分の姓名がなかった。
唯、適用するのは童名(ワラビナー)だけで、戸籍上の名前は大和名、又は学校名といっていた。
「あなたの大和名は?」と尋ねても番所にいって調べてくれと答えていたということである。
名前を付けてくれるのは番所(役場)の更員であったからである。
一六九〇年(康煕二九年)、姓を郡臣に賜った。とあるからそれ以前は姓も苗字もなく童名だけがあったことになる。
系図座が出来てから系図も書かれたのだから、それ以前にさかのぼる時代の系図はあてにならないといってよい。
系図座が氏集に収めた戸数は総合計二、八九一収めた氏は七二三種となっている。
一番多いのは名乗頭に盛のつく毛氏(護佐丸を祖とする)で一〇六戸も出ている。
その中で尚氏の別れは一統に向氏にし、名乗頭に朝の字を入れてある。
明治十三年以降、士族も平民も同様に姓と名になったが士族はその氏の名乗頭の盛、政、朝景等が現在でも使われている。
しかし平民は自由に大和名を付けていた。
文字を知っていた学識のある人たちは風流な名前を付けている。
山原の名護には天久流水。山入端月懸という教員がいて、知念尋常小学校にも大城雲登。照屋梅岸という方がおられた。
山原の方には比嘉山林。比嘉多山。仲里宇山。と山の付く名前が多かった。
命名するのは役場の戸籍の係があるので、役場の事務の便宜のため村(字)名の一字を人名に取り入れたのが大里間切である。
字西原には西太郎。西孝。字仲程には宮城仲吉。仲幸、仲禎字古堅には与那嶺堅亀、上原堅明などがあり、字与那原には土原与徳、与彬の姓名がある。
知念間切では知名の神谷か安座真の兼本と酒一升で交換した話もあり、安座真の役場更員は改姓ブームで大和めきたる姓になった。
屋比久から久松に、城間から城田になった。
具志頭村や勝連、与那城村では屋号をそのまま姓にした。島元、伊元、伊仲、前仲、前伊、伊森などがあり、東門、上門、前門もある。

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大分類 テキスト
資料コード 008551
内容コード G000001363-0013
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.31(1984年6月)
ページ 15
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1984/06/30
公開日 2026/09/24