なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

ヌーバレーと組踊「手水の縁」

[写真]▲ヌーバレー忠臣"護佐丸"
知念村には旧暦の七月十七日にヌーバレーという村芝居(アシビ)の行事がある。戦前は盆のウークイは十六日だったのでその翌日がヌーバレーにあたる。ヌーバレーはモーバレーに対するお祝いで盆の供養のなかった人だちに対する一種のサービスではなかったかとおもわれる。ヌーはイノー(内海)からフカ(外海)へ出る出入口である。ニライカナイの外海へ出すことか、ヌーか野にあたるものかいずれかであろう。併し野原のことは一般にモーである。沖縄では盆行事の一つとして中頭に七月エイサーが繰りひろけられているが島尻の東り方ではヌーバレーと呼ばれる村芝居がさかんであった。
当日は朝から旗すがしといって殿で祈願がこめられる。午前中は棒スーマチ(潮巻)と組棒のワイ棒があり、部落によっては女のウシデーク(臼太鼓)がある。ウシデークは村の女だちが音取のウンドーを中心に赤鉢巻の少女、クンジーを着けた若い女、と中年の女だちの三つの円陣(ゴー)ウチゴー、ナカゴー、ハタゴーに分れチヂンを打ちながら踊った。午後がいよゝ村芝居である。アシビナー(村の広場)にバンク(舞台)をつくって、いろいろの演技でにぎわう。道ズネーイ(行列)に始まり長者の大主がありバラエテイに富んだプログラムである。夜に入るとパンクの両脇にイチヤグワーランプ(イカ釣用の石油ランプ)が灯され、最後に組踊りが演ぜられた。久手堅では明治二十七年にウフアシビがあった。ショーニチ・アトウサンデーと三日続くのである。カナナー(カナ庭)には見物人がおしよせて近くの新里小の竹垣は翌日ムシロのようになっていたといわれている。
アシビの最高の演技はなんといっても組踊りであった。各字にはそれぞれの特色をもつ組踊りがあり、志喜屋の「花売の縁」(森川の子)・山口の「伏山敵討」、仲里の「手水の縁」(波平山戸)・知念の「大川敵討」(村原)・久手堅の「伏山敵討」と「鏡の割」・安座真の「護佐丸敵討」「巡見の官」・知名の「八重瀬」(忠臣身替)と「手水の縁」が継承されている。
各字の地謡の人もすぐれた方がおられた。知念の底川の照喜名さん、山口の前城兵太郎、宇良さん、久手堅の宮里春行さんのお父さん、知名の仲宗根さん、がおられた。またマイクのない時代地声で台詞を語ってくださった名優だちもこの戦争で故人になられてしまった。
組踊りは仇討物、忠孝物が多い。その中に純粋な恋愛物は「手水の後」だけである。慶長十四年の薩摩の軍勢に棒でしか抵抗できなかった武品を持たない琉球国であった。王府に出仕する役人の腰に何一つ差さない絵を見るにつけ、組踊りに剣戦の場面が取りこまれた仇討物が多いのは不思議である。
組踊りは中国の冊封使をもてなすため、玉城朝薫によって今から約二百五十年前に始めて作られたといわれる。「手水の縁」も一七二〇年頃、和文学者の平敷屋朝敏によって作られた。平敷屋朝敏は国を批判した「国家之御難題」というかどで安謝港で八付の刑に処せられた。「手水の縁」はその作者が罪人であったということと、恋愛物であるということで、冊封使歓待の公的場所では演ぜられなかったようである。明治十二年の廃藩置県になって組踊りが那覇の芝居にも自由に上演されるようになった。各村のアシビにも取り入れられ各地に独特のマルムンを加えて今日まで継承されてきた。「手水の縁」の上演禁止はまた明治の末期にも起っている。山戸と玉津の忍びの後の場で、伝統の様式がひどく脱逸し男女の漏れ場を強調しているという理由で那覇署(坂本警部)からの上演禁止が出たが大正七年三月に高橋署長になり問題なしとして解禁になった。
「手水の縁」の主人公は島尻の波平大主の子、山戸と知念間切山口村の盛小屋の一人娘、玉津である。最初は瀬長山の花ながめの場面である。山戸と玉津の最初の出合いは波平玉川で、山戸は玉津のひしやくから手水を飲ましてくれと懇願する。瀬長山は豊見城の瀬長島か、波平玉川は兼城の波平か、考えてみると面白い。山戸の忍びが発覚して玉津が殺されようとした所は知念浜である。知念浜につれていったのが志喜屋の大屋子とその手下の山口の西控の両人である。大屋子、西控は知念番所にいる地頭代を助ける役人のことで登場人物が山戸の外は知念間切の人である。山戸と玉津についてはいろいろな話が伝っている。今帰仁の崎山には波平山戸の住牌や御墓がある。その後裔と言われる門中が山口の与那城家の按司御棚や志喜屋のハマダ川を拝んでいると言う。又山口の与那城家(当主山口佐郎氏)には森小屋の大主が祀られているということである。また波平玉川は志喜屋城の下にあるハマダ川(一名チチン川)である(仲里仁十氏の言)。金武良章氏は波平玉川は首里の円覚寺の波平カーではなかろうか、平敷朝敏が日ごろ通りすがりに見ていたのであの場面を書いたのでないかと言われた。しかしこのような話は山里の古老に聞いてみてもわからない。これが作られたいきさつは山口(今の山里)にこのような説話があってこれにもとづいて書かれたのか、平敷屋朝敏の体験したことを書いたのか調べてみたい。彼がどれ程知念間切についてイメージアップしていたか興味ある問題である。知念山口は山紫水明のところであり、今尚「手水の縁」を生み出す絶好の地として残されています。
(記・新垣源勇)

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大分類 テキスト
資料コード 008549
内容コード G000001361-0006
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.29(1983年12月)
ページ 7
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1983/12/10
公開日 2026/09/24