[図表]東り廻いの道
旧暦八月十五夜が終った頃、ユーフィズイ(夜冷える)がたち晴天の一番多い季節に入るとどこからともなく数十人のアガイマイサーが久手堅のセーファウタキ(斎場御嶽)や知念の知念大川などの聖地へまわってきた。
子供たちはこれらの巡拝者の集団の後をつけながら「アガリマイサーナントウカマカマ、カマサンダーラーウカメー、トウナヨーヒヤ。」(東り廻りの皆様ナントーください。くれなければ御神拝はだめになりなさい。)といってからかったものである。
戦前は乗物がないので二~三日がかりの知念、玉城への東り廻いであった。
久手堅、知念の広い家宅はこの人だちの民宿になった。また、首里の中城御殿(尚家)からの東り廻いはノロ殿内に御泊りになった。
古くは、大里、佐敷、知念、玉城を東り方四間切といった。東り方は琉球発祥の由緒ある畫地が多い。
沖縄で一番古い歌謡集の「おもろさうし」に「ちねんもりぐすくかみおればぢめのぐすく』とあり「中山世鑑」の「琉球開びやくえ事」条に先づ初めにつくられた七嶽の中に知念森、斎場嶽、久高コバウ森がある。
国土創建の嶽々森々は東り方に多い。
また穀物起源神話も稲のはじまりは知念大川ノ後、百名受水走水(ウキンズ・ハインズ)で麦、粟、黍、菽のはじまりは久高島である。
それで五穀へのめぐみに感謝し、国づくりの先住者のムート所を訪ねる報本反始の祭りが東り廻りの起りであった。
国王も御報恩に久高島や知念玉城へ聞得大君等の諸官を御召付けになって行幸なさいました。
しかし、この行幸も薩摩の沖縄入り(慶長の役)によって直参は止った。しかし国王の名代による東り方公朝御祈願の行事は戦前まで中城御殿(尚家)によって行なわれていた。
庶民もこれに倣って束り廻いが各門中で行なわれて現在に及んでいるが各地の門中それぞれ拝む所はいくらか異なる所もあるが主な拝所は次のようになっている。
与那原親川
馬天御嶽(消失)
佐敷上城(月代の官)
知名崎ウテダ御川
久手堅斎場御嶽
知念城と知念大川
百名浜川御嶽とヤハラヂカサ
受水走水とミフー田
ミントン城(仲村渠)
玉城城と玉城ノロ殿内(シバキガーに移住)
門中によっては大里城に廻ったり南山城(高嶺)まで道程を伸すところもある。
門中によらず字単位で行うところもある。
近いうち束り廻りの道が沖縄総合事務局開発建設部で整備され「沖繩のみち」として生れかわることだろう。
新垣源勇
(村文化財保護委員)
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008547 |
| 内容コード | G000001359-0008 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.27(1983年7月) |
| ページ | 9 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1983/07/30 |
| 公開日 | 2026/09/24 |