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中国福州に眠る久高島船頭

琉球は尚巴志の三山統一より早い時代から中国との交流があり、公式には進貢使を乗せた進貢船とこれを迎えに翌年に出る接貢船が春三月に那覇を出帆順風に乗ることができれば数日で中国の福州に着いた。
また琉球の国王即位のときは中国から冊封使の使節団一行か冠船でやってきた。この使節団の歓待のためにできた踊が御冠船踊であり、組踊である。
東支那海には海賊も出没し進貢船には武装した護送船もつけられた。
進貢船は十五反帆の帆船で乗組員百二十名で、接貢船が百名ぐらいの船だった。
風まかせの帆船で天気の変りようでどこへ流されるかわからない命がけの旅なので、沖縄では今でも人が死去することを「唐旅へ行く」と言っているのはそのためである。
中国へ渡る船をすべて唐船といった。
また宮古八重山への在番交代のときも、また貢物を運ぶのにも久高島の馬艦船(マーランヤァン)が使われた。
薩摩へ砂糖、米を運ぶのにも久高島の楷船(ケーシン)がその役をはたした。
これらの唐船、楷船、馬艦船の帆船は東支那海上で気象の悪条件にもめけず苦難の航海をしいられたが、多くの船員たちが遭難し福州沿岸へ漂流したのである。
『中山世譜』には独木船や十二反帆馬艦船の久高船が中国福州に漂流したり破船して泳ぎ着着いたりした記事が九件もある。
帆船を操って航海するには熟練した久高島の水梢舸子(水夫)が必要だったので首里王府は百姓地に係る貢租は免じて船乗りの義務を負わされていた。
「旧慣調査資料」によると「知念間切久高村旧藩中舸子相勤候ニ付、百姓地二係ル貢租免税ノ儀ニ付………」とある。
唐船の貿易はいつでも成功するとはかぎらない。成功すれば唐一倍(トーイチベー)といって万の富を得ることになる。
戦前久高島に立派な瓦ぶきの家が多かった。これは皆船頭の出た家であった。しかしこの陰には多くの犠牲者を出した家があった。
家族の切なる旅立ちの祈願とウナイ(姉妹)神の守りによって漸く関山(福州)の地を踏んだけれども不幸にして病にたおれた人もあった。破船によって泳ぎついたが、回生し得ず不帰の客となった者もいたと記されている。
東恩納寛惇先生が昭和八年に福州に調査旅行をされたとき柔遠駅(ジウニンエキ・琉球館)にあった崇報祠(スウホウシ)の中に大きな位牌(イハイ)が三つあって中央の大きな方に三百三十六枚、左右の各々に三百枚づつはめこまれていた。
合計三百枚の位牌札があったことになる。
琉球から中国へ使臣として遣わされ異国の地で客死した人だちが九百人近くもいた。またこの琉球館を改造して、お茶工場を営んでいた儀間氏の保管していた過去帳によると、福州南台に四百九十人の墓があり、墓不明が八十八人、合計五百七十八人の方が客死されている。
其の間十六人の御骨は沖繩へ帰葬された。戦前久高出身の西銘新勝さんが久高出身者の御骨の数体を島に持ち帰られたようであるが、数体はそのままに残されていたということである。
「浦添市史編さん、中国進貢使路の旅」が昭和五十六年五月から行なわれたが、その報告によると、柔遠駅(琉球館)は残ってなく、その跡にスイッチェ場が建ち、昭和八年に東恩納氏が確認された五百七十八基の墓は現在八基しかなかった。そのうちの船主の墓に三人の方が葬られているということであった。
その墓碑は左の通りである。
琉 大清光緒六年庚六月十
球 五日死地壺丈八尺金
国 使者貢船頭久高大里
内間筑登三親雲上 墓地
光緒六年は明治十三年に当る廃藩置県後であるのでどんな目的でいつ渡唐されたか今後調査する必要がある。
異国の山に眠る久高島の船子諸士霊安かれを祈る。
新垣源勇
(村文化財保護委員)
[写真]▲中国福州在墓碑

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大分類 テキスト
資料コード 008546
内容コード G000001358-0010
資料群 旧知念村広報
資料グループ 広報ちねんNo.26(1983年5月)
ページ 8
年代区分 1980年代
キーワード 広報
場所 知念
発行年月日 1983/05/30
公開日 2026/09/24