「セーファ御嶽」は琉球最古の歌謡集である『おもろさうし』に「さやはたけ」と最初に出て次に沖縄の正史と称される『中山世鑑』には『斎場御嶽」と記されている。其後一七一三年に編集された『琉球国由来記』には「サイハノ嶽」となったのもある。
斎場御嶽は「東り廻い」のときの巡拝地として沖縄の各地からの参拝者が多い。「東り廻いには門中の人たちによる巡拝が現在行なわれているが、昔は、国王が行幸されて親しく参拝されていたが一六七三年(尚貞五)に向象賢の羽地仕置によって国王の久高、知念玉城の親拜が廃止されて国王の名代として下庫理当が参詣するようになった。琉球王府でも「東り廻い」があったことがわかる。内間大親の居城だった知名城も東幸(東り廻い)のとき休まれたとき大親は国王の寵愛を受けたことが『遺老説伝』に載っている。
しかし国王の「東り廻い」の外に毎年正月と十二月には王府から大勢頭部という神官を御使いになって東り方知念玉城の御祈願があり、一年おきに四月の稲のミシキヨマ祭のときは当職御使いの御祈願もあった。このような公朝御祈願(クージの束り廻い)の時には斎場御嶽・知念城内友利之嶽・玉城の雨粒天次(玉城城内にある)百名の受水走水(ウケミヅハリ水)浜川を参拜した。また首里城での玉城公事のときも弁ケ岳に斎場嶽と久高島への遙拜所(ウトーシ)がつくられていて、ここから斎場御嶽へのウトーシができるようになっている。
斎場御嶽は「東り廻い」の霊所としてよく知られているが琉球最高の神官聞得大君(チフィヂン、ウドン)の即位式を行う霊地だったことはあまりよく知らされていない。国王の母、姉、妹が聞得大君の位につくことが多かったが王妃がついたときもある。『女官御双紙』に『此きみは三十三君の最上なり』とあり、第二尚氏王統時代からこれが見えている。聞得大君の第一代が尚円王女の音智殿茂金(号は月清)に始まり尚泰の王女安室御殿の十六代まで統いている。聞得大君の領地は知念間切であった。聞得大君の位について自分の領地である知念間切(知念村)に下りてきてその斎場御嶽で即位式を挙げるから「御新下り」と称されている。十六代の聞得大君の即位式だから四百五十年間に十六回の「御新下り」(ウワーラウリ)があったことになる。その規式の様子は『女官御双紙』『王代記』や戦前大里役場に所蔵されていた『聞得大君加那志様御新下日記』等によって「御新下り」が如何に盛大な儀式であったかが窺える。
『聞得大君加那志御新下日記』によってその規式のようすを紹介します。これが書かれたのが一八四〇年(道光二〇)八月三日の尚温王妃、仙徳(五六才)が第十四代の聞得大君になられたときの日記になっている規式は八月三日の夜中であるが、それまでの諸準備が大がかりであるこの日記は四月から始まっている。その間式場になる斎場御巖と首里までの道路の修甫(整備)御備え(行列)の割り当て、与那古浜(与那原)、佐敷、知念の久手堅における御仮屋(御待御殿)の設営とそれに使う造作用材、当日使え調度品の借り集め等詳細な記録がある。これは、大里間切の日記であるがほぼ同じような日記が佐敷、知念にもあったことが記されている。
道筋や御仮屋の御見分(検査)が度々首里の取納奉行から役人がきた。当日の御料理の材料集めるための役人の往来のため大里・佐敷・知念各間切から加籠かき夫・荷持夫・乗馬等の差出が強要された。諸役人往還のため使われた夫(使役)が二千五百七十三人、帰りは暗くなるので灯持ち六十六人が潮平坂へ配置される。御仮屋の造作に要する資材は葉竹等は越来、美里間切へ丸太、きち、角材等は羽地、本部、今帰仁、金武、久志間切までその納入が厳命されている式場に使うねくぼこ(ワラ製敷物)百三十枚、藺の九尺莚百七十五枚、畳百四十枚を取寄せるように命ぜられ、入目料(費用)分一万七千四百六十六貫余となっている。其他茶盆、茶家桶、燈爐、等、くわしく書き記されているが省略します。
当日の規式は未明に与那原か迎えの者が出て先づ与那原浜の御仮屋へ、そこでも与那原親川での儀式が行なわれる。そして午後六時頃御備えを先頭に聞得大君は御轎で司雲上按司をしたがえ佐敷の屋比久兼久の御仮屋で一休みしてからユックイのひら(手登根の坂道)を登り、夜の九時頃斎場御嶽の御待御殿(現在の斎場御嶽入口の駐車場)へ御着きになる。ここで着替えをして儀式の準備をする。式は夜中の十二時頃から大庫理で行なわれ三庫理、キヨノハナ、二つのヌービ、寄満の各御前を経てまた大庫理に入り式が終る。式がすむと聞得大君は御待御殿(御仮屋の間)でお休みになるそのとき枕は二つ並べてある一つは神の枕であるされている神との同褥(結婚)が成立したことになる。そのとき隣の間でノロだちが大君の様子を番をしていて寝付のよい方は尊いお方だということになる。夜が明けると御仮屋の庭で久高島の神女だちのクエーナがある。この庭の岩の名がコーナー石と今でも呼んでいる。御仮屋での御一宿の翌日正午頃斎場を御出駕し、午後四時頃与那原御仮屋へ御着きになり、入相の頃首里へ御打立なされるその頃もう暗くなっているので首里までの灯持(たいまつを上げる人)が六十六人もいたわけである。道中の御備え(行列)には絶えず「道くわいな」を謡う女たちが大里間切の掟のあんし(村の神女)や村の筑登之(役人)の妻から六十三人も選び出されている。このように斎場御嶽での「御新下り」が如何に重大な儀式であったか。またそのため知念、佐敷、大里の各間切が入目したかが窺える。王府も勿論多くの費用がかかったので御冠船があると「御新下り」は数年後に延期となったことがある。御冠船の行事に次ぐ国の重大行事だったわけである。
(新垣源勇記)
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 008545 |
| 内容コード | G000001357-0009 |
| 資料群 | 旧知念村広報 |
| 資料グループ | 広報ちねんNo.25(1983年3月) |
| ページ | 7 |
| 年代区分 | 1980年代 |
| キーワード | 広報 |
| 場所 | 知念 |
| 発行年月日 | 1983/03/31 |
| 公開日 | 2026/09/24 |