なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

匿名(昭和5年生まれ)【キーワード】農兵隊(のうへいたい)

■父が子どものころに移住
私の先祖は、廃藩(はいはん)※1をきっかけに東風平村(こちんだそん)(現 八重瀬町)に移住したと聞いている。東風平の家の屋号は〈ミチバタ〉で、私の高祖父(祖父の祖父)は〈ミチバタ〉から分かれて久原(くはら)(現 南城市知念)に移住した。その後、私の父が7歳ぐらいのときに現在の場所に移住したそうだ。当時は、現在国道になっている道路(国道331号)は工事中だったらしい。子どもだった父は、その工事でできた穴の水溜まりで遊んだそうだ。
私が10歳ぐらいのころ、東風平の〈ミチバタ〉のおじいさんが家に遊びに来ていた。〈ミチバタ〉のおじいさんは草履(ぞうり)を手で持って裸足(はだし)で来て、わが家で足や顔を洗い、休憩しながら祖父たちと話をしていた。その後、久原の親戚の家に回って行った。夏の時期には汗をかいていたので、着ていたバサージン(芭蕉布(ばしょうふ)の着物)もわが家で洗っていた。バサージンはすぐに乾くので、それをまた着て久原に行っていた。

■職業軍人だった祖父のおじとトウナ大尉
私の祖父のおじにあたる人は職業軍人 ※2で、特務曹長(とくむそうちょう)※3だったと聞いた。しかし、県外で夫婦ともに亡くなったため、その息子を私の祖父が引き取って育てていた。
また、私が13歳か14歳ぐらいのときだったと思うが、中城湾沖に日本軍の船が何隻(せき)か来たことがあった。このとき、船に乗っていた海軍のトウナ大尉(たいい)という人が妹を訪ねてきていたのを見た。トウナ大尉の屋号は〈カジョー東恩納(ヒジョンナ)〉で、もとの姓は東恩納(ひがおんな)だったが、トウナに変更したらしい。〈カジョー東恩納〉の人たちはみんなディキヤー(優等生)だった。トウナ大尉の弟は朝鮮で巡査をしていて、現地で亡くなったと聞いた。

■大城グシクと与那原での壕掘り
私が(佐敷国民学校の)高等科1年ぐらいのころだったと思うが、大里村(現 南城市大里)の大城グシク※4での壕掘りに4、5回ほど行った。これは学校から、「今日は何組」とクラスごとに動員されて行った。車がなかったので、小谷(おこく)、稲福(いなふく)を通って大城(おおしろ)まで歩いて行った。
壕掘りの現場では、兵隊が壕の中をローソクで照らしながら、ツルハシで穴を掘っていた。私たち生徒は、男子生徒も女子生徒も並んで、兵隊がツルハシで掘った時に出た土砂の入ったニンソクバーキグヮー(かご)を手渡しで壕の外に運んだ。運び出された土砂は壕の前に積み上げられ、そこにカズラのような植物も置いて壕を隠していた。
壕は別の場所からも掘っていて、お互いに穴を掘り進める音を聞き合いながら掘り、最終的に1つの壕として繋げていたそうだ。
また、与那原での戦車壕(せんしゃごう)掘りにも2、3回行った。そこでも、兵隊が掘った土砂が入ったザルを運ぶ仕事をさせられた。戦車壕は幅が2、3メートルほどあり、現在の知念高校の向かい(国道331号をはさんだ向かい側)の山手の方に掘られていた。この壕を掘り進めていく途中、元からあったお墓に引っかかり、お墓の持ち主と兵隊が話し合っているのを見たことがある。話し合いの結果がどうなったのかはわからない。

■マカーバルの川沿いの防空壕と日本軍
集落の山手側にあるマカーバルという一帯の川沿いには、壕が東西に1ヵ所ずつあった。これらは、学校で空襲があった際に避難するためのものだった。西側の壕は、戦後に子ども達が盗んだ物を入れたり、盗んだ缶詰を食べたりするのに用いていたので、先生方が入り口を埋めてしまった。東側の壕はまだ残っていると思う(現存しているか不明)。
沖縄戦のとき、このマカーバルの川沿い(山側)には日本軍の通信隊(つうしんたい)がいたそうだ。私は当時ヤンバルにいたのでよく知らないが、この通信隊がいたために艦砲(かんぽう)か迫撃砲(はくげきほう)か、何かの砲弾が撃ち込まれたとお年寄りから聞いた。

■新里の「カイグンショウ」と水溜
戦前、新里には「カイグンショウ(海軍省)」と呼ばれていた日本軍の施設があった。その施設はカーラヤー(瓦葺きの建物)だった ※5。
また、日本軍の艦船に水を補給する水溜(みずため)もあった ※6。

■農兵隊として名護に行く
高等科2年生だったとき、私は農兵隊(のうへいたい)※7として名護に行った。これは命令ではなく、学校の先生から「どこに行きたいか」と聞かれて希望したものだった。当時、師範学校に合格していた人たちもいたが、私はそうでない人たちと4人で農兵隊に行った。
農兵隊では、名護の東江原(アガリエバル)で2、3週間訓練した。そこは民家が4、5軒、遠くにも民家が1、2軒ある地域で、山を削って小さな家を建て、大根やイモの畑がこしらえられていた。私たちが訓練中に民家に入ることはなかった。
訓練中は、建物を建てる前の準備として土地を削って地均(じなら)しをした。また、朝は起床後にヤンバルダキ(リュウキュウチク)を刈(か)ってから朝食をとった。
2、3週間の訓練が終わってからは、今帰仁村(なきじんそん)や石川(現 うるま市)などに行って田んぼを耕した。石川に行くときには、金武村(きんそん)(現 金武町・宜野座村)に疎開(そかい)していた親を訪ねた。

■空襲が始まり逃げまどう
石川にいたときにアメリカ軍からの空襲に遭(あ)ったため、夜に石川から避難した。避難した先は嘉陽(かよう)(現 名護市)だったと思う。しかし、そこでも空襲を受けたため、親が疎開していた金武まで山道を歩いて行った。
だが、親は疎開先の家にはもういなかった。そこでは、日本兵が「敵(アメリカ軍)は石川まで上陸してきているから、命が欲しい人は逃げなさい」とメガホンで言っていた。金武には同じ集落のオジー(屋号はトゥンチグヮー)がまだ残っていたので、その人の荷物も担いで一緒に久志小(クシグヮー)(現 名護市)まで逃げた。久志小では、誰もいない民家に入って休んだ。

■アメリカ軍に見つかる
その後、銃を持ったアメリカー(アメリカ兵)がこっちに向かってきた。私たちは戸を閉めて家の中にいたが、ふすまの間からアメリカーがウロウロしているのが見えた。
アメリカーが戸を開けると、私たちはクチャ(裏座)の方に逃げて絶対に動かなかった。アメリカーが「カモン、カモン(Come on, Come on)」と言ったが、私たちが泣いて動かないので、アメリカーはポケットから白い四角形の砂糖を取り出し、それを自分で食べて見せた。そして、私たちにも渡して食べるように促(うなが)した。私は、「どうせ殺されるから」ということでその砂糖を食べた。
それから、4、5人いたアメリカーは銃を角に置いて、「撃たない」「海岸の方には食事がある」と手振りで示して見せた。それで私たちは、もう殺されないから出ようということでその民家を出た。しかし、アメリカーが銃を持っていなかったので、(撃たれる恐れがないので)またみんなで山に逃げた。

■山を下りてギンバルへ
山の中には避難民や日本兵がたくさんいた。しかし、後からひもじくなったので山を下りて集落の方に行くと、人々がイモを炊いておいしそうに食べていた。それで、「(アメリカーは)クルサンドー(殺さないよ)、リッカ、リッカ(行こう、行こう)」とみんなで山を下りた。
それから金武の方に行こうとしたが行けず、ギンバル(現 金武町)に移動して民家にお世話になった。ギンバルで暮らしていたときには、毎日GMC(アメリカ軍の大型トラック)に乗って金武に行き、ナタで木を伐採(ばっさい)するなどの作業をした。作業をすると(アメリカ軍から)Cレーション ※8をもらえたので、それをもらって食べるために働いた。
(2015年 井口学による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 1879年(明治12)に日本政府が琉球藩を廃止し、沖縄県を設置したときのことか。
※2 軍隊における勤務を本職とする軍人のこと。
※3 日本陸軍の階級で、のちに准士官に改称。少尉と曹長の間に位する。
※4 大城城跡(南城市指定文化財(史跡))。南城市大里字大城に所在。グスクが立地する丘陵の南斜面から平坦地にかけて大城集落が広がる。
※5 1895年(明治28)佐敷村津波古の海岸沿いに海軍の補給基地「中城湾需品支庫」が建設され、住民には「カイグンショウ(海軍省)」と呼ばれた。新里の「カイグンショウ」と呼ばれた日本軍の施設は昭和期に入り新里の馬場付近に造られ、「海軍の兵舎・送信所」だったとされる(佐敷町史編集委員会編『佐敷町史 4 戦争』佐敷町役場 1999 489頁 参照)。
※6 南城市佐敷新里に現存している、旧海軍の給水タンク(水溜)のこと。
※7 農兵隊の原隊は、徴集・召集や勤労動員などによる農村の労働力不足の打開策として結成された食糧増産隊である。年齢が高等科卒予定者となった昭和20年度甲種食糧増産隊が農兵隊と呼ばれている。沖縄県は1944年11月に同隊を編成し、国民学校卒業前の高等科生や青年学校生が動員された。池間利秀隊長の報告によると、1945年2月15日、幹部36人を含む総計641人が名護町(現 名護市)東江原を本拠地に「決死生産隊」として出動し、「戦場ニナルマデハ耕スベク各地ニ進出」、「開墾」や「大豆播種、甘藷植付」などを行った。アメリカ軍の空襲や艦砲射撃が始まると、小隊ごとの解散や「脱走」する隊員もいて、農兵隊は自然解散のような形となった。(沖縄県教育庁文化財課史料編集班編『沖縄県史 各論編 第六巻 沖縄戦』沖縄県教育委員会 2017 80頁 注83)
※8 アメリカの軍隊で支給される食糧。レーション(Ration)とは配給品を意味する。第二次世界大戦時の主なものは、A、B、C、D、Kの5種類であった。C‐レーションは各個人に配給された調理済み食糧で、任務時に食べることが想定された。主要料理の缶詰「"M"ユニット」、クラッカー・デザートなどの缶詰「"B"ユニット」、蝋紙に包まれた「アクセサリーパック」で構成された。