■小学校で飾られていた戦没兵士の写真
私は津波古(つはこ)の出身で、佐敷尋常高等小学校(現 佐敷小学校の前身)に入学した。小学校の校長室の前には、屋比久(やびく)出身で、日露戦争で戦死した知花清一(ちばな せいいち)さんと、津波古出身の(シベリア出兵で戦死した)山城光太郎(やましろ こうたろう)さんの写真が飾られていた。山城光太郎さんは、私のおばである山城カメの夫だった。光太郎さんは亡くなった後に金鵄勲章(きんしくんしょう)※1を与えられたので、村で大きなお祝いが行われたと聞いたことがある。
■沖縄県立第一高等女学校に進学
当時の佐敷尋常高等小学校では、6年生を終えると、一クラスほどの生徒は高等科に進み、残りの生徒は紡績(ぼうせき)工場などに(働きに)行くか、そのまま卒業していた。私は高等科には進まず、現在の那覇市安里にあった沖縄県立第一高等女学校(以下、一高女(いちこうじょ)※2)に入学した。小学校では女学校に入りたい人のための特別授業のようなものが行われており、私もそれを受けて一高女を受験した。佐敷尋常高等小学校の私の学年からは6人ぐらいが一高女を受験したが、合格したのは私1人だけだった。
一高女という学校は誇り高く、プールや図書館などの施設や、ミシン、家庭科で必要な炊事用具などの教材もみんな揃っていて、県で1番の女学校だった。ピアノもたくさんあり、オルガンも練習できて、学習環境はすごく整っていた。田舎から見たら別世界のようだった。一高女の友人の親は県庁職員や教員が多かった。田舎から一高女のような学校に入学するのは難しかった。
佐敷からの同級生が1人もいない中での入学だったので、何とも言えない気持ちだった。佐敷出身の先輩が1、2人はいたが、ほかはみんな知らない人だったし、まだ12、3歳だったので寂しくて、「何でこっちに入ったかねー」と思った。家から学校に行くときは、軽便鉄道(ケービンてつどう)で与那原(よなばる)駅から国場(こくば)駅まで行き、国場駅で嘉手納(かでな)線に乗り換えて安里(あさと)駅で降りた。家から通学するには遠かったので、学校の敷地内にあった寄宿舎に入った。学校に慣れるまでは、汽車の音が聞こえると家に帰りたくて涙が出た。
寄宿舎には、宮古(みやこ)、八重山(やえやま)、奄美大島(あまみおおしま)、大東島(だいとう)や津堅島(つけん)(現 うるま市)などの遠方から来ている生徒もいて、人数はだいぶ多かった。
■一高女での学生生活と師範学校への進学
制服は紺色のセーラー服で、布地はサージ(織り)※3というとても良い生地が指定されていた。当時は制服も靴もオーダーメイドだった。
一高女の前には長い相思樹並木(そうしじゅなみき)があり、その向こうにしっかりとした門があった。学校の敷地は広く、1年生のときには、佐敷からの同級生もいなくて1人なので、教室がどこなのかわからず迷っていた。不思議なことだが、授業の開始・終了を告げる鐘はなかった。
授業では染物や織物も学んだ。家庭科では、何を作ったか覚えていないが、ヤマトンチュー(本土出身者)の先生から、自分の家で食べないような高級な和食を習った覚えがある。(当時の沖縄としては)上流社会の教育を受けていた。先生方も本土出身者がほとんどで、沖縄出身の先生はわずかしかいなかった。生徒も3分の1ほどはヤマトンチューの子どもたちだった ※4ので、私たちも(本土の雰囲気に)感化されていた。
学校に慣れてくると、学校や寄宿舎の行事などでの楽しい思い出ができた。地久節(ちきゅうせつ)※5のときには、何をしたかは覚えていないが、全員で着物を着てお祝いした。部活動ではバレーボール部や陸上部などがあったが、私はバスケットボール部に入って楽しんだ。奥武山(おうのやま)公園に一高女や二高女(にこうじょ)(沖縄県立第二高等女学校)※6、三高女(さんこうじょ)(沖縄県立第三高等女学校)※7など県内のすべての女学校が集まって大会が開かれたこともあった。また、波上宮(なみのうえぐう)のなんみん祭 ※8はとても楽しみだった。寄宿舎には夕方6〜7時ごろの門限があったが、なんみん祭のときには何時まででも遊んで良いことになっていた。
ただ、私が女学校4年生ぐらいのときだったか、ミルクセーキ事件というものが起こり、私の友人が亡くなった ※9。私はこの日、亡くなった友人から一緒に行こうと誘われていたが、後輩のセーラー服のジャバラ(プリーツ)のミシンをかけていたため、「これが終わってから行くから、先になっといて」と言い、一緒に行かなかった。
一高女に4年通ったのち、私は沖縄県女子師範(しはん)学校の二部 ※10に進学した。師範学校は官費(かんぴ)だったので授業料がなく、むしろ給料までもらえた。しかし、当時は男性たちがみんな戦争に行っていて、男性の先生たちもいなかったので、卒業後には教員として働かなければならなかった。
■学校での軍国主義教育
一高女に入ってから、毎朝の朝礼のときには必ず、皇居に向かって最敬礼をしていた(宮城遥拝(きゅうじょうようはい))。
私が一高女に入ってから戦争 ※11が始まり、3、4年生ぐらいのときからは、出征する兵隊を励ますための見送りに行くようになったため、勉強する時間がだいぶ減った。兵隊の見送りでは軍歌を歌い、日の丸の小旗(学校から配布された旗)を振った。また、「南京(なんきん)が陥落(かんらく)した」「どこどこが陥落した」と、日本がどこかを陥落させたときには、学校のある安里から現在の国際通りの辺りを提灯(ちょうちん)行列で歩いた。当時はラジオや、親が県庁職員である友人などから、日本が戦争で勝っているというニュースを聞いていた。それを疑わずに信じていたし、中国の戦場での悲惨さは何も教えられていないので、「勝った、勝った」とばかり思っていた。出征(しゅっせい)する兵隊たちも苦しそうな様子はなく、晴れ晴れとした感じで旅立って行っていたように思う。
また、生徒たちは(敵国の言語である)英語や英語の先生をばかにするようになった。「英語なんか後ろと前を覚えればテスト通るさー」、「英語なんか習うもんか」と言ったり、扉を閉めるところの上の方に黒板拭きをはさみ、先生が扉を開けると黒板拭きが落ちる、という嫌がらせもしたりした。
一高女のころだったか師範学校のころだったかは覚えていないが、行軍(こうぐん)や銃を撃つ訓練、なぎなたの訓練もさせられた。行軍の訓練では朝早くから夜遅くまで歩かされ、最後まで歩ける人は一級、途中でダウンしてしまった人は四級というように級がつけられた。途中で脱落した人は汽車に乗って帰されていた。私も最後まで歩くことはできなかったし、翌日は歩くことができないくらい、とても苦しくて死ぬ思いだったことを覚えている。
銃の訓練は、腹(はら)ばいで進み、標的に向かって撃つというものだった。本物の銃だったのかどうかは覚えていないが、撃ったら的に当たったのを覚えている。なぎなたは体育の授業中に先生が教えていたが、「突っ込め、突っ込め」、「敵の兵隊が目の前に来たら殺しなさい」というように指導された。当時はそれがおかしいというような意識はなく、正しいと思ってまじめに訓練を受けていた。
■大里第二国民学校で勤務
師範学校に通ったのは2年間で、私は1943年(昭和18)に師範学校を卒業した。その後、教員として配属されたのは大里第二国民学校(現 大里南小学校の前身)だった。配属先は言われるがままだったので、当初は(大里の場所を知らず)「ハッサヨ、大里っていうところはどこかねー」と言っていた。
学校までは、津波古の実家から歩いて通勤した。小谷(おこく)、真境名(まじきな)を通って行ったが、山を越えていくので通勤は大変だった。帰宅するときには辺りが暗くて怖かったが、真境名の人たちが夕飯に誘ってくれたり、服を多く着ていった日には預かってくれたり、雨の日には途中まで送ってくれたりした。この真境名の人たちは生徒の家族というわけではなかったが、みんな親しくしてくれた。
当時の大里第二国民学校の辺りは農村で、饒波川(のはがわ)にはすっぽんがいた。子どもたちもみんな素直で良い子だった。卒業式のときにはいくつかの教室の扉を開け放し、ひとつの大きな講堂のようにして使った。
私は5年生の担任になったが、戦争に関することは、自分自身にその知識がなかったこともあり、あまり教えた記憶はない。修身(しゅうしん)の授業をした覚えはあるが、どのような内容だったかはもう忘れてしまった。
■学校に軍隊が駐屯
[1944年(昭和19)の夏ごろから、沖縄県内各地での日本軍の駐屯(ちゅうとん)が始まり、大里第二国民学校も軍隊の宿舎などに利用されるようになる。]
大里第二国民学校にも軍が駐屯することになり、校舎も軍に接収(せっしゅう)された。部隊の伍長(ごちょう)だったか、部隊長ではない人が馬に乗っているのを見たことがある。
学校の敷地内には地域の人に利用されていた隣保館(りんぽかん)※12という建物があったが、そこも接収された。隣保館には辻(つじ)のジュリ ※13がいると聞いたことがあるが、私はその姿を見たことはない。
当時の理科室と運動場の間には部隊の炊事用のカマドが3つか4つほど設置され、私たち教員も炊事を手伝わされていた。カマドは石積みで造られていたのではないかと思う。大きな鍋をいくつも置いて炊事をしていた。あるとき、二等兵だったか、1人の兵隊がカマドの側に自分のカッパか服を置いていて燃やしてしまい、上官にしたたか殴られているのを見た。殴られて転び、起き上がってもまた殴られて転び、を何度も繰り返していて、大変な殴り方だった。このことは忘れようと思っても忘れられない。
■学校から見た十・十空襲と、校長に止められた疎開
十・十空襲(1944年10月10日)の被害は大里の方にはなかったが、那覇が空襲を受けて空が赤くなっている様子を、私は学校の運動場から見ていた。このとき一緒に見ていたのは先生方だけで、生徒がそこにいた覚えはない。
十・十空襲の後ぐらいだったと思うが、私は母(当時40歳くらいだった)と一緒に県外へ疎開(そかい)に行くため、同僚の先生と一緒に郵便貯金を引き出しに行った。すると金城和信(きんじょう わしん)校長 ※14 に校長室へ呼ばれ、「君たちが疎開に行ったら誰が沖縄を守るのか」ときつい口調で言われた。校長に相当怒られたので、私も「そうだね」と思い、疎開には行かないことにした。他の先生方も校長に疎開を止められているので、大里第二の先生方で疎開した人はほとんどいなかった。
校長はとても真面目ではっきりとした人柄で、怒る時にはしっかり怒る人だった。学校内には校長用の住宅が用意されていたが、そこには住まず、真和志(現 那覇市)から軽便鉄道(ケービンてつどう)の稲嶺(いなみね)駅まで汽車に乗って通勤していた。
■母と二人で真境名へ避難
隣保館の後ろの方には先生たちが造った壕があり、アメリカ軍の上陸前、空襲が始まった昭和20年(1945)3月23日ごろは、先生たちはそこに避難していた。「教員はこの壕に入るように」という指示はなかったが、先生たちは那覇やさまざまな地域から来ていたので、避難する場所がなくてそこに集まったのだと思う。私もこの壕に行きたかったが、母が「先生たちに頭を下げて過ごさないといけないので行かない」と反対した。私はそれでイライラしていたが、同僚の仲松先生が私たちのところに来て「いいよ初枝さん、お母さんの言うことを聞いた方が良いよ」と言ってくれたため、別の場所に避難することになった。
のちに、先生たちがいた壕は爆弾の直撃を受け、中にいた先生方はみんな亡くなった。その中には一組の夫婦も含まれていた。校長は戦争を生き延びていたので、校長はこの壕には入っていなかったのだと思う。
私と母は、真境名の人たちが造っていた壕に入れてもらった。真境名の生徒の保護者が「こっちが良いよ、入りなさい」と入れてくれたのだった。佐敷にいた祖母たちからは「佐敷においで」という伝令が来ていたが、私は「佐敷に行ったらデージドー(大変だ)、危ない」と思っていた。
真境名の壕は山手の高い場所にあった。ある日、そこから仲程の前の方を見下ろすと、そこにあった大きな壕の上空にアメリカ軍のトンボ(小型�ytojeg機)が止まっていた。その後、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)がポン、ポン、ポンと続けて撃たれ、3発目くらいで壕に直撃した。おそらく、トンボが壕の位置を海上の船に伝え、そこに合わせて艦砲が撃ち込まれたのだと思う。それを見たとき、アメリカ軍には絶対にかなわないと思った。
■夜空の星を友軍の飛行機だと思いこむ
真境名にはしばらくいたが、周りの人たちもそこから逃げて行ってあまり人がいなくなっていたころ、私と母も真境名を出て親慶原(おやけばる)(現 南城市玉城)にあった壕に入った。
親慶原にいたときには、そこにいた人たちみんなで夜空の星を友軍(ゆうぐん)(日本軍)の飛行機だと思い、「あれは友軍が攻撃に行くんだよ」と話していた。「あれ、あまり動かないね」と私が言っても、「遠くにあるからそんなに動かないんだよ」と誰かが答えた。私もそれで納得し、「あんなにたくさんの飛行機が攻撃に行くんだね」とみんなで手を叩いて喜んでいた。今考えると、戦前の教育でみんな「日本が勝つ」と洗脳されていたし、避難の疲れで頭がおかしくなっていたのだと思う。避難中の食事もどうしていたのか覚えていない。
■具志頭で目の当たりにした戦争被害
その後、高嶺(たかみね)で製糖工場の工場長をしていた母のいとこを頼り、高嶺に行った ※15。そこに行けば助けてもらえるのでないかと思って行ったが、その人はいなかった。親慶原を出てからは壕に入ることもできず、南部を転々と逃げ回ることになった。
途中で親戚3人(両親と16、7歳ぐらいの娘)と合流し、具志頭(ぐしちゃん)のウマイー(馬場) ※16 の近くにあった民家の山羊小屋に5人で入って休憩した。この家の人たちは別の場所へ逃げて行ったのか不在だった。
夕方、「もう出発しよう」と言って山羊小屋を出ることになった。しかし、私は若かったし教員だったので、荷物をうまく頭の上に載せて持つことが出来ず、母と私で「もう死ぬんだからこんなもの捨てなさい」「いや、載せる!」と押し問答をした。それで親戚3人は先に出て行ったが、門を出ると同時にガジュマルの間から爆弾が飛んできて、親戚の母親に直撃してしまった。父親と娘が私たちの元に引き返してきたが、母親の体の脂や肉がついていて、それを払い落とした。その時は涙も出なかったし、何も考えられないという心境だった。
このほかにも、具志頭村辺りにいたときだったと思うが、大きな道をお祭りのときのように避難民たちが通っていた。私と母は丘の上に上がって座り、その大きな道を見ていたが、そこに艦砲射撃が数メートルおきにポーン、ポーン、ポーンと落とされた。道にいた人たちは、アリのようにみんないなくなっていった。
■南部を逃げ回る
その後も、海からポンポンポンポン、雨のように艦砲射撃が落ちてくるなか、どこがどこかも分からずに逃げ回った。クニシ(国吉。現 糸満市)やアラカキ・メーデーラ(新垣・真栄平。現 糸満市)という場所を逃げ回ったのは覚えているが、地名をどうやって知ったのかはよく覚えていない。
アラカキ・メーデーラの辺りはとても激戦だった。アラカキ・メーデーラの裏の方にあった井戸には弾がポンポンポンと落ち、水汲みに行った人たちもみんなやられていた。また、メーデーラの近くには兵隊が入る壕があったが、避難中に出会った外間(ほかま)(現 南城市佐敷)の人が、「先生は中に入れ」と言って壕に入れてくれ、その人は入口の方に座った。するとそこに爆弾が落ちてこの人は亡くなってしまい、中に入れてもらった私は助かった。戦後、そこへこの人の遺骨を探しに行ったが、見つけられなかった。
クニシかメーデーラにいたときには、日本兵につかまって水汲みなどの看護婦のような手伝いをさせられたこともある。そのとき、私はいざとなったら自分で死ぬことができるよう、兵隊に頼んで青酸(せいさん)カリをもらった。あるとき、海の見える場所の民家に避難した際、けがをした妻を担いでいる男性に出会った。その人に自分が青酸カリを持っていると話したのかどうか覚えていないが、男性が泣きながら、妻に飲ませるために青酸カリを譲ってほしいと頼んだ。私は「自分のものだから絶対にあげない」と言ったが、泣いて頼むので、結局譲ってしまった。私には青酸カリを渡してしまった罪がある。その後、この男性が自分の妻に青酸カリを飲ませたかどうかは、見ていないのでわからない。
■海岸でスパイだと疑われる
ある日、海岸の方に下りて行くと、アダンがいっぱい生えていたのでそこに隠れようとした。しかし、そこにはたくさんの死体があり、おっぱいを探している小さな女の子もいて、隠れることができなかった。夜には、波の音でアメリカ兵にはばれないだろうと思って海の方に行った。海にもたくさんの死体が浮いていて、そこを通りながら移動した。
昼には、海にたくさん浮かんでいた船から、アメリカ兵が「降伏しなさい」「捕虜(ほりょ)になりなさい」と呼びかけていた。それで日本兵たちは追いつめられて、民間人に対して「私たちも死ぬからあんた達も死ね」というふうに怒りをぶつけていた。本当に地獄だった。
私も海岸にいたときに、話したこともない知らない日本兵から「この人はスパイだよ」と言われ、拳銃を突きつけられた。しかし、近くにいた民間人が「この人は先生だよ」と一言(ひとこと)言ってくれたおかげで撃たれずに済んだ。この人は命の恩人だが、知らない人だったので、誰だったのだろうかといつも思っている。日本兵がなぜ私のことをスパイだと言ったのかもわからない。当時は(精神的に)異常になっていたので、死んでも何とも思わないし、(拳銃を突きつけられても)そんなに怖くなかった。
■丘の上でアメリカ軍に捕らえられる
私たちは海岸から離れ、(夜間には)照明弾が上がったときにどこともなく走って畑の中の岩のそばに隠れるなどし、最終的には母と2人で東風平(こちんだ)(現 八重瀬町)のエージ山(八重瀬岳)辺りまで行ったのではないかと思う。丘の上に登ると、若い日本兵2人が「一緒に行きましょう、一緒にいさせて下さい」と言うので、母と私が真ん中、彼らがその両端という形で、4人で座って過ごした。
私はその状態で眠っていたが、急に母が私の腕をつかんで上に挙げさせた。見ると、すぐそこにアメリカ兵が2人いて、私と母の両端にいた日本兵2人は銃で撃たれ殺されてしまった。殺された2人は、武器を持っていたかはわからないが軍服を着ていた。私と母はモンペ姿だったと思う。
そうして私と母はアメリカ兵に捕らえられたが、そのときは(捕らえられて)怖かったというよりは、意識が朦朧(もうろう)としていたのではないかと思う。水が飲みたくても手に入らず、自分のつばを飲んでいる状態だったので、アメリカ兵から水をもらってたくさん飲んだ。
捕らわれた日付は覚えていないが、6月の終わりごろだったと思う。
■収容所での生活
その後、私と母は畑にテントを張って設営した収容所に送られた。場所は稲嶺(現 南城市大里)だったと思う。しかし、そこに収容されていた人たちはみんな日本兵で、丸裸にされていた。ここに一晩でも泊まったら大変なことになると思い、通訳の人に「沖縄の人がいるところに連れて行ってほしい」と頼んだ。
そうして連れて行かれたのが屋比久(やびく)(現 南城市佐敷)で、そこで冨祖崎(ふそざき)(現 南城市佐敷)に収容されていた祖母たちと再会できた。祖母たちは早い時期にアメリカ軍に捕らわれて冨祖崎に来ていたので、私たちのようなひどい目には遭(あ)っていなかった。私は母に、「(真境名にいたとき、)『おばあさんと一緒に佐敷にいたら死ぬから、佐敷には行かない』と言ったからこんなに苦労してるさ。あんたは親不孝だよ」と言われた。
屋比久には金網で囲われた捕虜収容所があり、戦後に知念高校の校長になった平田善吉先生(佐敷村屋比久出身)もそこに入れられていた。また、別の場所で朝鮮出身らしき女性が2、3人外に立っているのを見たこともある ※17。
それからしばらくしたのち、佐敷の収容所にいた人たちは新里のウマイー(馬場)に集められ、馬天港で大きな船に乗せられた。人々は「大海原に出たら船をひっくり返してみんな死なせるんだよ」と話していたが、アメリカ軍の命令で「乗れ」というので乗らないといけず、大きな船だったがみんな縮(ちぢ)こまっていた。
船は瀬嵩(せだけ)(現 名護市)辺りに着き、私たちは大川(おおかわ)(現 名護市)を経て瀬嵩で暮らすことになった。そこには佐敷の人が大勢いた。
瀬嵩での生活も大変だった。小屋を造って住んでいたが、地面には茅(かや)を敷いてその上で寝た。しかしダニがたくさんいて、ダニが自分についているのを気づかないうちに血を吸われ、小さかったダニが丸く大きくなっていた。ついたダニはきれいに落とさないと、歯(口器)がそのまま皮ふに残っていた。
また、瀬嵩では私も母もマラリアに罹(かか)った。瀬嵩にあった病院でキニーネという薬をもらって治した。ただ、戦後、子どもを産むたびにマラリアに罹ったときのような症状が出た。私は子どもを5人産んだが、毎回症状が出ていた。
瀬嵩では「先生をして」と頼まれ、浜辺の青空教室で授業をした。どのようなことを教えていたのかは覚えていない。報酬(ほうしゅう)としてお米などを少しもらっていた。
瀬嵩でしばらく暮らしたのち、次は大見武(おおみたけ)(現 与那原町)の収容所に移動することになった。そこではテントか何かで造られた家に4、5世帯が一緒になって暮らした。大見武には長くはいなかったと思う。その後、船越(ふなこし)(現 南城市玉城)あたりの収容所に移動して、佐敷に帰ってきた。
■戦後の暮らしと戦争がもたらした影響
伊原(いばら)出身で、戦後に佐敷村長になった渡名喜元秀(となき もとひで)さんという方がいたが、この人は対馬丸の撃沈により妻と子ども4人を失っていた ※18。渡名喜さんは私の母のいとこの知人だったようで、ある日、母はいとこから「渡名喜さんがあまりにかわいそうだから結婚しなさい」と勧められた。母は「見たこともない人との結婚なんて絶対にできない」と断ったが、いとこから「この人(渡名喜さん)を助けないと、あなたを親戚から外(はず)すよ」と強く言われ、渡名喜さんと再婚した。
師範学校時代の同級生に糸数裕子(いとかず みつこ)さんという方がいるが、この人は対馬丸に引率教員として乗船し、生き延びたものの、引率していた子どもたち13人を失った。また、沖縄戦に動員されたひめゆり学徒たちも後輩にあたるので、(ひめゆりの塔やひめゆり平和祈念資料館を)見に行ったら涙が出てしまう。同級生や後輩たちもみんな戦争の被害に遭っている。
私の夫は戦時中、同級生たちが兵隊として外国に出征する中、背は高かったものの体重が足りなくて八重山に派遣された。夫はそこで、戦死した友人を薪の上に置いて火葬した際、友人のお腹が破裂したのを見たそうだ。その後、夫は戦争を生き延びることはできたが、戦後もその光景が忘れられず、亡くなるまでずっと夢に見てうなされていた。
私は戦後も教員を続け、戦後は佐敷小学校を皮切りに、大里北小学校や南風原(はえばる)小学校、与那原小学校などに勤務した。佐敷小学校にいたころは、校舎はまだ掘っ立て小屋だった。夫も教員だったので、復帰運動にも夫と2人で参加した。しかし、子ども5人を育てながら仕事や復帰運動をして大変だったので、子どもたちは「絶対に先生にはならない」と言い、1人も教員にはなっていない。
教員時代の教え子たちとの交流は今でも続いていて、彼らが同窓会をするときには呼ばれて行くこともある。瑞慶覧長方(ずけらん ちょうほう)さん ※19 など、戦前に大里第二国民学校で受け持った教え子たちとも今でもつながっている。夫も、高校を受験する生徒達を家に呼んで勉強会を開くなどして子どもたちの世話を続け、成人した教え子たちと一緒に県外や海外へ旅行に行ったこともあった。
■どんなことがあっても戦争だけはやってはいけない
私はこれまで、自分の戦争体験の話はしたくなくて、あまりしてこなかった。しかし今回は、孫に「おばあさんはこんなに長生きをしているんだから、みんなに話す義務がある」と説得されて話すことにした。
戦争を知らない、体験していない人たちに伝えたいことは、どんなことがあっても戦争だけはやってはいけない、ということだ。戦後はその気持ちで復帰運動にも参加した。沖縄戦で大変な目に遭ったので、ずっと戦争には反対しているし、戦争につながる基地にも反対している。戦争のない世の中にならないといけない、と心から思っている。
(2018年 比嘉良雄・赤嶺玲子・事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 武功抜群の軍人および軍属に与えられた勲章で、功一級から功七級までの等級があった。1890年(明治23)に制定され、1947年(昭和22)に廃止された。
※2 現在の那覇市安里にあった。同じ敷地内に沖縄県女子師範学校があり、両校合わせた通称は女師・一高女。沖縄戦時、この2校から動員された生徒たちのことを戦後「ひめゆり学徒隊」と呼んでいる(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和記念財団立 ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集 4「沖縄戦の全学徒隊」』2011[第2版]132、133頁 参考)。
※3 綾織の洋服地のこと。
※4 当時、教員や生徒に県外出身者がいたことは確かであるが、ここでいう割合は宮城さんが抱いた印象であることに留意する必要がある。
※5 皇后誕生日の旧称。
※6 現在の那覇市松山(現 松山公園付近)にあった。沖縄戦時、同校から動員された生徒たちのことを戦後「白梅学徒隊」と呼んでいる(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和記念財団立 ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集 4「沖縄戦の全学徒隊」』2011[第2版]144、145頁 参考)。
※7 現在の名護市にあった。沖縄戦時、同校から動員された生徒たちのことを戦後「なごらん学徒隊」と呼んでいる(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和記念財団立 ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集 4「沖縄戦の全学徒隊」』2011[第2版]152頁 参考)。
※8 1890年(明治23)に波上宮が官幣小社に認定されたことから例祭が始まった。5月17日前後に開催。
※9 1940年5月16日、波上宮参拝のために寄宿舎から外出し、那覇市内の百貨店食堂でミルクセーキを食べた一高女および沖縄県女子師範学校の学生6人が食中毒で重症となり、うち1人が亡くなった事件(1940年5月20日付『琉球新報』「お祭り参拝の女学生 ミルクセーキで落命 女師一高女寄宿生六名猛中毒」および同年5月21日付『琉球新報』「女学生食中毒事件 卵の腐敗菌か?招く悲劇 恐しいゲルトネル氏菌」)。
※10 本科第二部。高等女学校4年を修業した者が対象となった。修業年限は2年。
※11 1937年(昭和12)に始まった日中戦争。
※12 当時の在校生や近隣住民の証言によると、隣保館では料理講習会や乳幼児審査、公衆衛生意識を高めるための講習会等が開催されていたほか、託児所としても利用されていた(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会 2021[第二版]141〜142頁)。
※13 戦前に那覇市にあった辻遊郭の遊女(ジュリ)で、大里第二国民学校には「慰安婦」として連れて来られていた可能性がある。
※14 金城和信(1898-1978)は教育者、社会奉仕活動家。戦前は小学校の教員、校長を歴任。戦後、摩文仁に設けられた真和志村の村長に任命され、野ざらしにされた遺骨収集を始め、魂魄の塔、ひめゆりの塔などを建立。1954年に沖縄戦没学徒援護会を設立、1961年には沖縄遺族連合会会長となる。(仲程昌徳「金城和信」沖縄大百科事典刊行事務局『沖縄大百科事典 上巻』沖縄タイムス社 1983 919頁)
※15 宮城さんによると豊見城市高嶺なのか、糸満市高嶺なのかは覚えていない(2025年事務局聞き取り)。
※16 宮城さんによると当時の具志頭村なのか、字具志頭なのかは覚えていない(2025年事務局聞き取り)。
※17 屋比久が収容所になっていたころに、朝鮮人と思われる女性を数人見たという体験談はほかにもある。(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』[第二版]771頁)
※18 1944年(昭和19)8月23日、那覇港から長崎へ航海中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け撃沈した貨物船。県外へ疎開するために乗船していた784人の学童を含む1,484人(氏名判別者数)が犠牲となった(公益財団法人対馬丸記念会 ホームページ「対馬丸事件について」参考 https://www.tsushimamaru.or.jp/tsushimamaru.php)。なお、南城市出身の遭難者は12人いることが確認された。また、『南城市の沖縄戦 資料編』には、渡名喜元秀氏の手記(対馬丸事件に関係する箇所のみ)を掲載している(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』201〜210頁)。
※19 瑞慶覧長方(1932-2023)は旧大里村出身の政治家。元沖縄県議、元沖縄社会大衆党委員長。瑞慶覧氏の証言は『南城市の沖縄戦 証言編 - 大里 -』に掲載されている(南城市教育委員会文化課市史編さん係編『南城市の沖縄戦 証言編 - 大里 -』南城市教育委員会 2021 192〜202頁)。
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015802 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2025) |
| ページ | 40-50 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 佐敷 |
| 発行年月日 | 2026/02/27 |
| 公開日 | 2026/05/22 |