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平田 ミヨ(ひらた みよ)(旧姓宮城 昭和7年生まれ 佐敷・手登根)【キーワード】一般疎開

■家族で宮崎県に疎開
私は手登根(てどこん)出身である。父の宮城源太郎(みやぎ げんたろう)は、沖縄に母と子どもたちを残して満州(まんしゅう)※1に行っていたが、沖縄戦が始まる前に沖縄に帰ってきていた。父は家族を連れて再び満州に行く予定だったそうだが、戦争が始まったため、それは叶わなかった。
私が佐敷国民学校(現 佐敷小学校の前身)の初等科5年生だった1944年(昭和19)、私は家族と一緒に宮崎県(みやざきけん)の鞍岡(くらおか)(現 西臼杵郡(にしうすきぐん)五ヶ瀬町(ごかせまち)鞍岡)という田舎(いなか)に疎開した。初めは、私と妹の2人で学童疎開(がくどうそかい)※2に行くよう親から言われたが、私が「絶対に行かない」と反対したため、家族で行くことになった。家族でとは言っても、疎開したのは母と兄(長男)、私、妹2人だけで、祖母と父、弟(次男)は沖縄に残った。弟を沖縄に残したのは、どこで戦争の犠牲になるか分からないから、疎開先と沖縄に男を1人ずつ分ける、と父が考えたためであった。位牌(いはい)や家の貴重品などは、祖母と父が沖縄に残るため、疎開先に持っていくことはなかった。
当時、父は集落の警防団長(けいぼうだんちょう)をしていたが、そういった役員の家族は早い時期から疎開に行くように、役場から勧(すす)められていたように思う。そのため、私たちは早い時期に疎開先へ出発した。出発は1944年(昭和19)8月ごろだったように思う。十・十空襲(じゅうじゅうくうしゅう)があったことは疎開先で聞いた。

■疎開先での生活
疎開先の鞍岡へは、まず一週間ほど船に乗って鹿児島(かごしま)へ移動した。鹿児島で一週間ほど滞在したのち、鞍岡に向かった。トラックに乗って、荷物も一緒に何時間かかけて行った。当時、1番下の妹が3歳ぐらいだったが、この子が移動の疲れのせいか痩(や)せてしまい、現地の人たちからも「この子は大丈夫か」と心配されていた。しかし、鞍岡に着いてからは元気を取り戻した。
鞍岡では、兄が農家の手伝いに行っていた。私も学校には行かず、農家で子守りをした。そこで食べ物をもらっていたため、食べていくことへの心配はなかった ※3。
鞍岡には佐敷から疎開している人が多かった。一度、夜中に疎開先の人たちだけで集まって、みんなで鞍岡のどこかの神社までお宮参りに行ったことがある。私はついて行っただけなので、なぜ神社に行ったのか詳しいことは覚えていない。ただ、佐敷からの疎開者はほとんどみんないたので、おそらく、沖縄が玉砕(ぎょくさい)したと聞いたことがきっかけで行ったのかもしれない。

■沖縄に帰る
戦争が終わった後、ある時期から沖縄に帰る前まで、沖縄からの疎開者たちは川南(かわみなみ)(現 宮崎県川南町)にあった兵舎(へいしゃ)のような建物に収容されていた。その建物の中は疎開で宮崎に来ていた沖縄の人たちが大勢集まっていた。学童疎開の人たちはいなかったと思う。そこでは年が近い子もいて一緒に遊んだりした。食事は親が作ったご飯を食べた。そのため、お腹がすいていたという覚えはないが、親がどこで食事の準備をしていたのかわからない。その後、沖縄に帰る船に乗り、中城村(なかぐすくそん)の久場崎(くばさき)に上陸した ※4。
久場崎からは、現在の佐敷小学校の上の方にあった役場まで、アメリカ軍のトラックに乗って行った。移動中、新里(しんざと)の方で戦車が並び、その辺りも焼け野原のようになっていた。景色が様変わりしていたので自分がどこに来ているのかわからなかった。
役場で家族の安否(あんぴ)確認をすると、祖母も父も弟も全員無事で元気で、手登根に簡易(かんい)な家を造って暮らしていると聞いた。3人は、沖縄戦のときにはヤンバル(沖縄本島北部)にいて、食料に不自由したと話していた。
手登根に帰ってきてから、私はまた佐敷小学校 ※5に通い始めた。当時の校舎はテント小屋で、机もなかった。そのころ、当時流行(はや)っていたマラリアに罹(かか)ってしまった。マラリアに罹ると熱と震えが出て大変だった。私は学校を休み、治ってから登校したが、またマラリアで休むことになった。そうしたことを繰り返し、結局学校に行かなくなってしまった。これも戦争のせいである。
父は戦後、コンセット(アメリカ軍の組み立て式かまぼこ型兵舎)でタンナファクルー(丸形の焼き菓子)を作って販売する菓子屋を始めた。また、法事のときに使う花ぼうる(花模様の切り込みを入れた焼き菓子)、クシチー(先端が波状になっている板状の落雁(らくがん))、桃(ムム)ガーシ(桃の形をした饅頭(まんじゅう))などのお菓子も作っていた。当時は物がない時代だったので、軍に勤めている人から白砂糖を買うなどして材料を手に入れていた。
(2016年 井口学による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 満州国のこと。1931年(昭和6)の満州事変で関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)が主要都市を制圧し1932年(昭和7)3月に建国したもので、現在の中国東北地方に位置する。日本の敗戦とともに消滅した。
※2 疎開の対象は国民学校初等科3年から6年までの男子で疎開を希望者する者を原則とし、初等科1・2年生でも付添が必要ないと認められれば参加を許可された。しかし実際には、女子生徒や高等科の生徒たち、初等科3年生以上の兄や姉が疎開に参加している初等科1・2年生も多く参加した。なお、話者が通学していた佐敷国民学校では、学童と関係者を合わせて375人が宮崎県に学童疎開をしている(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』155〜157頁 参考)。
※3 平田さんのお話によると「いとこが学童疎開の世話人だったので、宮水国民学校に何度か遊びに行ったことがある。その際、いとこにだけ食糧を渡した」とのこと(2025年事務局聞き取り)。
※4 川南にいた佐敷村出身者らが沖縄に帰ったのは1946年(昭和21)9月から10月のようである(佐敷町史編集委員会編『佐敷町史 4 戦争』佐敷町役場 1999 341、376頁)。
※5 平田さんが手登根に戻り学校に通い始めたのが1946年(昭和21)9月から10月頃だとすれば、当時の名称は佐敷初等学校となる。